2日目
 やまと姫の追っかけ旅は2日目。昨日は真っ暗になってからやっと上野市の宿に入った。近鉄線の事故で電車が遅れたこともあるが、それぞれの宮への交通の便が悪かったことが原因である。まあ当然のことだが今の交通路と昔の交通路とは異なっている。「こんな場所が昔の繁栄の地だったんだ!」 と認識を新たにした一日だった。

 伊賀の国から琵琶湖畔の近江までは遠いし、美濃の美江寺宿の伊久良賀波(いくらがわ)宮へはさらに遠い。さらにそこから桑名までも遠い。なんでこんなコースをとらなければいけなかったのだろう。大いなる疑問だ。
 でもまあ私は鉄道ファンの一人なので、伊賀鉄道、近江鉄道、樽見鉄道、養老鉄道、などローカル地方鉄道に乗れたことはうれしかった。ちょっと残念なのは日本で唯一762mmの軽便鉄道の軌道で営業を続けている三岐鉄道北勢線(桑名ー阿下喜)には乗れなかった。次回に期待しよう。

 05 都美恵神社(阿閇柘殖宮)
 伊賀上野駅から関西線にのる。本日は雨。駅までの間に傘もささずに歩く制服の人々とすれ違う。駅で聞いたら近くの工場で働くブラジル人たちだそうだ。朝から動いているのは高校生とブラジル人労働者諸君だ。

 15分ほどで柘植駅に着く。本日の予定は亀山までだが、柘植からは3駅先。しかし私は貴生川から彦根、米原、大垣、桑名を巡って亀山に行く。その距離は200qほどある。

 なぜやまと姫はそんなう回路を通って行ったのだろう。まっすぐ行けばすぐそばなのに。何らかの理由があったに違いない。近江、美濃を回って考えよう。

 
柘植駅から歩いて20分ほど到着。  社殿は正面ではなくちょっとずれている。
鰹木は5本で千木は縦削ぎ。これは男神だ。姫はどこに? 伊勢神宮遥拝所。かなり近づいているが・・・

 06 坂田神明神社(淡海坂田宮)
 貴生川から近江鉄道に乗ることにしていたが1時間に1本しかないのに、あと50分も待たなければならない。しかたなく草津周りでJR線で米原から坂田に行くことにした。

 草津駅でちょうど北陸線にはいる快速列車に乗れたので、米原から一つ先の坂田まで直接行くことができた。一駅歩く覚悟だったが、雨はひどくなってきたので、ありがたかった。

 坂田駅からはすぐ目の前。線路が神社の参道を横切っている。罰当たりだな。駅正面には真っ白な戦国武将がたっている。山内一豊と妻の像だ。

 琵琶湖畔にある社だが、琵琶湖は見えない。なぜやまと姫はこの地に来たのか、わからない!
 
ここ米原の地は息長(おきなが)氏の本拠地だ。    

息長という名前は古代の名門豪族で、いちばん有名なのは息長たらし姫=神功皇后。

やまと姫は息長一族の娘と垂仁天皇との間にできた皇女さまだ。

ついでながら、ヤマトタケルは甥っ子ということになる。

息長一族の神功皇后は第15代の応神天皇の母で、夫の仲哀天王に代わって朝鮮征伐をおこなった人物として知られる。

一説によれば、神功皇后は応神天皇が即位する前にすでに天皇の地位にあった女帝であるとする。それは面白いと私は支持している。

 左の写真は坂田宮の本殿を示している。二殿並立している。おそらく天照大神(伊勢内宮)と豊受大神(伊勢外宮)を示しているが、私はヒミコとトヨを祀っていると考えている。

それはかなり飛躍しているが、別のところで述べることにしておく。
中門・透門 鰹木は6本、
 本殿は2殿並列。左は鰹木5本の男神、右は6本で女神

 07 居倉天神社(美濃伊久良賀波宮)
 樽見鉄道の美江寺駅(中山道55番目の宿)からが一番近いが、大垣からの連絡はひどく悪かった。この日のうちに桑名までは行きたかったので3時間のレンタカーを借りた。タクシーで行くよりはだいぶ安かった。

 樽見鉄道には根尾谷断層を見るために乗ったような気がする。当時は国鉄だったと思う。

 やまと姫が近江の坂田宮へ行ったのは彼女の故郷だったということで納得した。琵琶湖畔から伊勢に行くにはここ大垣を通るしかない。

 それで大垣を通る理由もわかった。歩いてみればいろんなことが分かるものだ。
 史蹟:いつの時代に建てたのか?富有柿の産地 鳥居ではなく黒塗りの門 
神楽殿 この後ろに拝殿・本殿がある 本殿は天神社で、神明づくりではなく、流れ造り 
 本殿は流れ造りだった。天照さまを祀るには、伊勢神宮と同じ神明造りでなければならないのに、おかしいと思っていた。

 本殿の裏側に回ってみるとあった。ちょっと大きな天照大神の社とその隣にある小さなやまと姫の社だ。しかし菅原道真を祀る本殿と違ってほんのおまけにくっつけたような社だ。もともとこんなものだったのか?

 これまで見た神社も裏側に小さな社があった。確認をしなかったが、本当はこんなに小さなものだったかもしれない。

 ほんの小さな、でも大きな疑問が出てきた。私はいったい何を見て、お賽銭を出してきたのだろうか?

  08 野志理神社(桑名野代宮)
  大垣から養老鉄道に乗った。養老鉄道は昔近鉄だったが赤字で、2007年から養老鉄道になった。大垣で乗った時には数人は乗っていたが、しばらくするとこんな感じ。われらの専用列車になった。

 一両目もまったく人がいない。これじゃ赤字だよな!と思っていたら、下深谷で高校生が大挙して乗ってきた。高校生のスクール電車だ。

   09 布気皇館太神社(鈴鹿小山宮)
 亀山駅から1.5kmほどのところに布気皇館太神社がある。旧東海道の脇だが深い森が見える。

 やまと姫の鈴鹿小山宮といわれているが、近くの忍山神社もやまと姫の宮といわれているそうだ。

 亀山はシャープ電器の本拠地だったが、台湾企業の傘下に入ったために、さびしくなった。

 工業団地で働く人は外国人だらけだ。上野市でもそうだったが地方都市での働き手は外国人に変わったのかな?
 旧東海道に沿ったところに立派な石灯篭が並んだ参道が続いている。参道をとおるのがお畏れ多いような気がする。西行法師の「何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」 の気持ちがわかるような気がする

雨の中背広を着た一人の方が、奥に進んでいった。私もついて行った。本殿の脇にある小さな社に手を合わせておられた。(左下写真) この社がやまと姫の宮なのかもしれない。

 拝殿は瓦屋根がすがすがしい。横手から見ると本殿は銅ぶきの立派なものだった。境内もきれいに掃き清められており、宮司さん地元の人が大事にしていることが分かる。狛犬は素朴な姿をしている。どこかで見たのだが・・・・ 。
 もしかするとこれがやまと姫の社殿かと思う! 亀山から東海道は鈴鹿の山に入って行く。有名な一里塚
 
 今日一日雨の中、けっこう長い距離を移動した。電車がほとんどだかかなりの距離を歩き、いろんなものを見聞きした。最高の収穫はやまと姫がなぜ米原にいったかということが、少し判明したことだ。やまと姫が「息長(おきなが)氏の一族」だったとは新発見。神功皇后との関連が分かってきた。さらに琵琶湖畔をとおって敦賀に抜ける道は古代の大道だと理解できた。敦賀の気比大社は応神天皇が出てきた場所だ。さらに継体天皇もこの道をやってきた。琵琶湖畔の米原を支配していた息長氏を無視しては都に入ることはできなかったはずだ。ムムーッ古代日本の天皇は敦賀のあたりからやってきたことが実感された。

 本日泊まった亀山のホテルルートイン。同じような建物が二つある。私たちは右に泊ったが、すべて日本人の工事関係者の方々。夕食時うどん屋のおばちゃんに聞いたら、左のほうが古いがいまはすべて外国人専用なのだそうだ。外国人って?? この辺りの企業に勤める人たち?? 観光客?? おばちゃんははっきり教えてくれなかったが、外国人が増えすぎて日本人が追い出されたので、新館をつくったということなのだろう。