052    越中一宮2      富山県高岡市伏木一宮 
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気多(けた)神社 

  養老2年(718年)に僧行基が創建したと伝えられている。能登一丿宮の気多大社から気多の大神を勧請した。気多神社を含めて「越中一ノ宮」を称している神社がは4ヶ所(雄山神社・気多神社・射水神社・高瀬神社)ある。私の見た感じでは、ここもありかな!というていど。なにせ、お隣能登国の一宮の気多大社はすばらしい。その規模からするとこちらはちょっと見劣りする。
  天文年間(1532〜1554年)に上杉謙信の兵火にかかり焼失したため、永禄年間(1558〜1569年)頃に再建したのが現在に残る本殿で、構造は、三間社流造りで正面一間の向拝があり、屋根は柿板葺きである。
 御祭神
大己貴命 (おおなむちのみこと) 大国主命の別名
奴奈加波比売命 (ぬなかわひめのみこと) 大国主命は「八千矛神」と名のって奴奈加波比売のもとに通った。
配神
菊理姫命 (くくりひめのみこと) 白山比刀iはくさんひめ)と同一神とされる
事代主命 (ことしろぬしのみこと) 大国主神の長男。
最初の石段は70段! 奥の石段は??段!
拝殿の注連縄が立派 奥に本殿:重文(下に説明)
清水が手水になっている。 本殿は珍しいつくり 

昔この場所(気多神社のすぐ下)に越中国分寺があったという。気多神社と不可分だった。
越中国分駅から海を見る。 気多神社の石段下から伏木の街並

 気多神社は、律令国家の国府との関係が強い。国府には国分寺や国分尼寺、総社がおかれた。

 気多神社はもとは総社だったのではないか。その後に国府が砺波平野の奥に移ると、総社も移転した。もう総社は名のれないので、一宮を名のることになったのではなかろうか。私の勝手な推測だが。


町の名前は一宮であるが、それは後に気多神社にあやかってつけた町名だろう。今はちょっと寂しい場所になっているが、大伴家持の時代には海からも近く、川からも(小矢部川、庄川)近く、物資運搬の拠点だったろう。

今は目の下に伏木の街が見えているが、東亜合成、中越パルプの巨大な工場が活動している。
 境内に越中の総社跡がある。  
 大伴神社:家持さんは越中国の役人になった。この辺りは
万葉の里と呼ばれているのは彼のおかげ。
気多神社には狛犬がなかったが、境内の大伴神社には
2対の狛犬があった。奥の方のブロンズ狛犬。

北陸新幹線ができて、東京との距離は縮まったが、地元はJR北陸線が無くなったために不便になった。私は飛騨一之宮から越中一宮めぐりで「青春18切符」を使おうと思っていたが、第三セクターに引き継いだ鉄道(あいの風とやま鉄道)は青春切符は使えない。
まあ仕方がないことなのかもしれないが、われわれ貧乏旅行者には不便だ。

 鉄道が不便になったとはいえ富山市、高岡市では路面電車を走らせている。これはなかなかいい。JRの城端線、氷見線など短い区間の鉄道も払い下げてもらって、トラムにしたらいいのに、と思うのだが。採算は取れないと言われるのだろうな。
 しかし道路や鉄道など公共インフラは採算を考えたら、建設は不可能だ。誰か賢い人があらわれて解決してくれたらいいのだが。一宮めぐりとは関係ないが、地域を歩いているとつい考えてしまうことだ。

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