104    対馬一宮   長崎県対馬市
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海神(わだつみ)神社 
主祭神:豊玉姫命(トヨタマヒメ) 配祀神:彦火火出見命・宗像神・鵜茅草葺不合命
明治以前:八幡神=八幡本宮
               ・・・・写真は豊玉町の「和多都美神社」
■対馬の厳原へ
 博多港へは空港から天神まで地下鉄、天神北から9番バスでベイサイドプレイスへ行った。年度末なので、珍しいほどの混雑(窓口の人の話)だった。

事前に電話予約をした時には、「いつでも乗れますよ!」とのことだったが、ちょっと焦った。ジェットフォイルは250人ほどの定員だがほぼ満員。10時50分発で壱岐島経由で対馬厳原港には13時につく。速くていいのだが片道8000円は少々高い。さらにヒコーキと同じでシートベルトをしていなければならず、船旅の優雅さはない。

 帰りはちょっと時間がかかっても海を見ながらフェリーにしよう。宿も交通手段も決めなかったので、奥さまは不安そうだが私にとっては気楽だ。外国旅行とは違って日本語が通じるのだから、地元で評判を聞いてから決めたほうがいい。

  ■対馬一宮 海神神社
  小さな御前浜の奥に鳥居があり背後にはなかなかいい木坂伊豆山がある。鳥居の奥に社殿があるのかと思いきや、石段が天にも届くぐらいに上がっている。直角に曲がってさらに上へ、数えてみたら274段あった。こりゃなかなか手ごわい。社殿は和多都美神社よりも立派でなかなか風格があるし、末社もきちんと整備されている。拝殿前の「おがたま」の木の薄ピンクの花弁が落ちている。
  この神社の宝物館には国の重要文化財である「新羅仏」があるそうだが、だれもいないので見ることはできない。韓半島から来た神仏は、日本との関係からいえば百済からのものかと思っていたが、新羅との関係も深かったのだろうか?

 私たちが訪れたのは3月、この年の10月に「銅造如来立像」(国指定重要文化財)が韓国人窃盗グループによって韓国に持ち出された。韓国仏教界は「倭寇によって略奪された」ものとして返還拒否をした。しかし2015年7月に韓国検察も日本の海神神社が正当な権利者として3年ぶりに返還された。 
 
海神神社:拝殿 中腹にある  木坂山と一の鳥居、手前は入り江 
 
4月1日から就航のフェリー「きずな」  拝殿まで長い石段がある。 
   
これでアマテル神社と読む   対馬産のアナゴ丼

■和多都美神社
 リアス式の多島海である浅茅湾をすぎると、「和多都美神社」という標識があった。「わだつみ」は海の神様。ここが一宮の「海神神社」だと見当をつけて向かう。事前に見てきた地図の位置とは違うが、観光バスも数台きており、大きな赤い鳥居がある。高台から見下ろすと海の中に鳥居が続いている。いま評判の安芸の宮島も海中鳥居があるが、ここも同じで、海から来る神様を導くように神殿に向けて一直線に5本の鳥居が連なっている。なかなかいい感じだ。

  さらに祭神であり海の神様の娘であるトヨタマヒメの墓があるという。神社の背後の森の岩と巨木の組み合わせがその墓だ。たぶんこれは磐座(いわくら)だと思う。いい神社を発見(?)して嬉しがっていたが、どこにも一宮の表示はない。しかし次から次へと観光バスがやってくる。降りてくる人は全員が韓国人観光客。これには驚いた。大昔海の神様は韓半島からやってきて、いま観光客はまた韓国からやってくる。バスの運転手さんは日本人。聞いてみるとやはり和多都美神社と海神神社は別だそうだ。 和多都美神社があるこの町の名は「豊玉町」トヨタマヒメにあやかったものである。一宮の「海神(かいじん)神社」も祭神はトヨタマヒメだが、豊玉町ではなく、そちらは峰町の木坂という場所にある。

 かなりややこしい話だが、神社の一番の基本台帳は延喜式(10世紀)で、それに載っている神社を「式内社」という。対馬の式内社は「和多都美神社」(わだつみ)となっている。現在対馬の一宮は「海神神社」であるが、そこは明治の3年までは八幡宮で八幡神を祀っていた。国策で海神神社が一宮になっているが、どうもこちらの方が本家一宮のような気がする。
 しかしまあ「お上」が決めたことだから逆らう気はないが、こちらの神社の方にお賽銭を多く出してきた。実はこのページのタイトル写真は豊玉町にある「和多都美神社」のものである。お許しを!

和多都美神社 海に立つ鳥居 対馬の観光協会のパンフレットから 
和多都美神社、背後にトヨタマヒメの墓  全部韓国人観光客 

■お昼はアナゴ丼
厳原港に降りて、対馬は思った以上に広いことに気付いた。上対馬から韓国までは50kmしかない。展望台に上れば夜はプサンの夜景がはっきり見えるそうだ。今回対馬に来た第一目標は全国一宮巡拝の一環だが、それよりも前に国境最前線を見た方がいいと判断しレンタカーをかりた。トヨタやニッサンではなく地元のレンタカーは「わ」ナンバーではなかった。配車係りのおじさんは、北の方で評判のいい民宿「たちばな」を紹介してくれた。お昼は地元の方に聞いて「志まもと」で対馬産のアナゴ丼。昼食後一路、北へ向かったが、途中に対馬の一宮「海神神社」があることがわかったので、寄り道。小船越でアマテル神社、扁額の漢字は見たことがない文字だ。アマテラスと関係があるのか?? さらに日本で一番古いお寺と言われる梅林寺を見学。遣唐使が最初に帰ってきた時に作った寺だというが、それらしいものは何もなし。ちょっと期待外れ。

■比田勝の先、民宿
 対馬訪問の第一目的を果たし、さらにもう一つ、すばらしい「和多都美神社」にお参りできたことは満足すべきこと。時計を見たらもう6時近い。車をとばして、といってもところどころ狭い道なので時間はかかったが、日暮れ前に比田勝の近くの泉集落の民宿「たちばな」についた。東京よりも45分程度は日暮れが遅い。気持ちよく迎えて下さった。いい思いができそうな宿だった。

■国境の島
 教えられたとおり韓国展望所にむかった。鰐浦のトンネルを抜けたところから上り坂、韓国風の門があり、その先にまた韓国風の展望所がある。ここが最先端かと思っていたら目の前に島があり、レーダーが設置され自衛隊の基地がある。今日は見えないが、晴れていたら目の先50キロにプサンの町が見えるそうだ。まさに指呼の間だ。民宿のおやじさんは仲間とカヌーでプサン前行き来しているそうだ。そういえば友人のyoshi岡さんも漕いで行ったっけ! まさに日本の最前線、ここに立つと私でも緊張感を感じる。しかし観光客は私たちだけ。もう少し日本人も国境に関心を持つべきだろうに。

展望所の下には自衛隊の施設。
まさに国境最前線!
■漣の化石
 本日は南部の厳原にとまる予定なので、途中いくつかの見どころを回って、南端の豆酸(つつ)崎へ急ぐ。比田勝の港を少し回ったところに網代という港がある。その海岸に漣痕(れんこん)を見に行く。むかし四国徳島で漣痕化石を見たことがある。そんな規模だろうと思っていたが、これがすごい。頁岩と砂岩の重なった互層になっているがその表面はなみの模様になっている。大昔のなぎさに波がやってきて波紋を残す。その形が消えないうちに火山灰とか砂嵐とかがやってきてその形を覆ってしまう。長い年月そのままになっているうちに化石化していく。その地層が隆岸、最近浸食されて元の渚の面が現れてくる。そこには波の模様が当時のままに残っているというあんばいである。

■対馬の地層
 対馬は山また山で海岸部も急峻でなので、内陸にしか道は作れない。昔は舟で行き来するか、険しい峠道を越えるかしかなかった。いまは各所にトンネルが掘られており、各集落の行き来は簡単になった。地層は頁岩、砂岩の互層部分が多く、地層に沿って崩れやすく、切り開いたところは大規模に土砂崩れが起きている。自然保護の方たちから見たら、とんでもない道路づくりと言われそうだが、地層のせいだからどうしようもない。手を入れなくても地滑り、崩壊は続いているはずだ。一回ずれた所は50年もすれば落ち着くだろうが、それまでは家を建てたりしないでのんびり待つ方がいい。
 砂岩、頁岩は板状に割れる。うまく加工すればブロックのようになり土台石や石塀に使える。場所によっては強い風に備えて屋根に乗せているところもある。

■琴(きん)の大いちょう
 昨日は幹線道路である382号線をとおったが、本日は市道39号、通称もみじ街道を南下する。舟志乃久頭神社を見る。これも何やらパワースポットになりそうな神社だった。さらに下り、琴(きん)集落で大イチョウをみる。樹齢1500年、日本最古だそうだが、・・・琴を過ぎると、ときおり小さな港に出る。港の周辺には集落がある。昔は集落をつなぐ方法は舟しかなかっただろう。
■金田城
 佐賀から浦底にでて国道382号に合流。小船越、万関橋をすぎ、さらに対馬空港をとおり金田城(カナタノキ)跡を見に行く。韓国百済の白村江の戦い(663年)に敗れた中大兄皇子は、唐・新羅連合軍が追撃してくるのを恐れ、国の守りとして築かせた城で、国指定の特別史跡だ。結局は攻めてこなかったが、それから600年ほどたった1274年文永の役で、対馬は元の軍勢にめちゃくちゃにされた。一説によると男は全員殺され、女子供は捕虜にされ、対馬人はいなくなったと言われるが
細道を車でむりやり入ったが、そこからさらに1時間近く山登りをしなければならないので、この先は城跡愛好家の若者yama辺くんにたのもう。
■小茂田神社:元寇の悲劇
1274年文永の役、神風が吹いて、元の大軍は追い払われたと聞いていたが、その前に対馬、壱岐はめちゃくちゃに蹂躙されていた。小茂田浜では元の大軍に対して当主の宗助国の軍84騎が奮戦し、全滅したそうだ。84人じゃどうしようもないよな! 対馬は全土を蹂躙され、男は殺害され、女子供は捕虜にされたという。日本勝利というが、壱岐対馬の多くの人が犠牲になったことは忘れてはならないだろう。その追悼の神社が小茂田浜神社だ。宗家の当主は戦死したが、九州にいた宗一族は明治の時代まで対馬を支配をつづけた。10万石の大名になったが山がちで耕地は少なく、石高はせいぜい2万石しかなかった。朝鮮との交易の特権を持っていたが、徐々に衰退し、朝鮮通信使の接待も重荷になり対馬は困窮を極めるようになったという。

琴の大イチョウ  

■石屋根 石の屋根は重たそう!
小茂田浜神社の近くの椎根には石屋根の高床倉庫が並んでいる。対馬の石は板状に割れやすい。これを利用したものだが。重いので頑丈な柱が必要だったろう。最近のものは瓦屋根になっている。小茂田浜からも山の中をトンネルでくぐるため、海岸線沿の道はまったくない。安徳天皇陵墓参考地というのがあった。壇ノ浦で二位の尼に抱かれて、8歳で入水したのではなかったかな?
■豆酸(つつ)
さらに南下して豆酸(つつ)の集落から豆酸崎へいく。断崖の上には灯台があるが、最南端ではない。最南端は浅藻集落の先の神崎である。宮本常一の「忘れられた日本人」の中に、「梶田富五郎翁」という文がある。昭和25年に宮本先生は、同郷の周防大島久賀(くか)からやってきた漁師で、豆酸村の浅藻集落を作ったころを知る唯一の人、梶田さんに会いに行き、明治のころの話を聞かせてもらった。神崎の沖一里に大瀬があり、そこが鯛の漁場だった。久賀の鯛漁師はここまで行き来していたが、明治20年ごろには浅藻に納屋を建てて定着したようだ。周防大島のとなりの沖家室(おきかむろ)からはブリ釣りの漁師がきた。さらに佐連(され)から瓦師を連れてきて瓦屋根を作ったそうだ。「対州名物トンビにカラス、屋根に石」と言われたが浅藻には瓦屋根が並んだと言う。
 宮本先生の名前は対馬では有名だ。昨日の民宿のおやじさんも「宮本さんは対馬の恩人だ」と話していた。対馬新聞というローカル紙が宮本常一の連載を続けており、宮本先生の名前が対馬の人の間で話題になっているのだろう。いいことだ。
■西山寺
 20数年前に私は対馬に来た。その時厳原の西山寺に泊ったことがある。当時はユースホステルをやっていたからだ。今も宿泊できると言うので泊めてもらうことにした。立派な別館が建てられており、旅館のような雰囲気。料金も民宿並みになっている。朝食のみ、夕食に出て行きたいのだが夕方から風雨がひどくなってきた。目の下にある厳原の港も雨に煙って見えない。雨風の音が激しい。明日は壱岐に行く予定だがフェリーは大丈夫だろうか。ご住職に聞いたら「この程度ではなんでもないですよ」とのこと。地元の人たちは揺れに強いのか。
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