常陸の一宮・鹿島神宮 
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 明治時代まで神宮というのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三つしかなかったそうだ。その後も鹿島神宮と香取神宮は関東においては特別の神社であった。今でいえば「なんで関東のはずれにある神社が多くの信仰を集めたのか」不思議な気がする。しかし当時は今の利根川河口あたりは深い入り江でよい港があった。これらの港は海路で西の朝廷と結ばれていた。さらに北関東から東北には蝦夷の民族がおり、彼らへの守をする前線基地でもあった。この時代、常陸、下総の地は大いに栄え、大きな神社を維持する経済力をも持っていたのだ。

 鹿島神宮の主祭神は武甕槌(たけみかずち)神である。香取神宮の主祭神である経津主神(ふつぬしのみこと)と一緒に、天照大神の命を受けて、出雲の国に下り、そこを治めていた大国主命の息子の建御方命(タケミナカタ)を腕力で諏訪に追いやり、出雲の国譲りを成功させた。

 当時大和朝廷で勢力をふるった中臣(藤原)氏は鹿島の神である武甕槌(たけみかずち)を守護神とした。藤原氏の始祖である中臣鎌足はこの神宮の宮司だったとの説もある。鎌足神社もこの地にはある。
毎年50万人を越えるひとが初詣に訪れる。もちろん明治神宮や成田山などに比べれば少ないが
人口の少ない地にあってこれだけの人が集まるのは、只者ではない証拠だ。この楼門は重要文化財
左上は鹿島神宮の正面である。ここに行ったことがある人は、あれと思うだろう。そう、石の鳥居は2011年3月11日の大地震で倒れてしまった。平成26年までには復興するとのことだ。

 しかしここ鹿島神宮は地震の押さえをしている要石で有名な所である。それなのに・・・・・・

上は完成予想図。

左は拝殿。参道は東西に延びているのだが、拝殿本殿は北向きになっている。ちょっと変わっている感じ。背後にある本殿も地震の影響で修理中。

北を向いているのは、北にいた蝦夷に対抗するために作られたからだという。北向きの神社は珍しい。
立派な拝殿。背後は本殿だが、2012年11月、まだ修繕中。本殿は漆塗りの桧皮葺、鰹木は3本、千木は立て削ぎ。 
左は奥宮・この後ろの森の中にに要石がある。
この手前に石段があり、御手洗と書いてあった。
まだトイレの気分ではなかったので行かなかった。

本当に教養がなくて恥ずかしいのだが
御手洗とは身を清めて参拝するための
清らかな泉のことだった。

奥宮の手前でガイドさんが、「このあたりで
本日の参拝を終わります」と説明していたので
ついつい緊張を解いてしまった。
神宮仮殿、本殿を修理するときなど、一時的に神様を
 移す社殿だそうだが、本殿修理中の現在、
こちらに神さまがいるのかなあ??聞き忘れた。
 
楼門手前にある摂社の沼尾社・坂戸社への鳥居。
奥にはこれら神社への遥拝所がある。 

一茶さんの句にもあるが、今度の地震で
「びく」ともしてしまった。
 
カケミカズチがナマズを押さえている
 
これが要石・オオナマズの頭の上にある。

鹿島は昔は香島と書いたそうだ。しかし香島の神の御使いが鹿だったことから
鹿島になったそうだ。サッカーの鹿島アントラーズの本拠地。アントラーは鹿の角のこと。 
奈良の春日大社の鹿も神鹿で大事にされている。ここ鹿島から春日大社に鹿を連れていった。
途中たくさん死んだ。鹿骨という地名ま鹿島の鹿が旅の途中亡くなった場所だという。
鹿島神宮の前を流れるのは常陸利根川、昔は入り江だった。この長い橋が参宮橋。

右の地図で湖岸部分に鹿島神宮一の鳥居とある。
それを探して歩いたら、上の参宮橋の近くで
鳥居の土台だけを見つけた。
これも地震で倒れたのだろう・・・?
2006年の写真には赤い鳥居が写っている。
「鹿島立ち」という言葉はもうほとんど死語だろう。

しかし昔は「旅立つ」こと、「門出」をすることを
鹿島立ちと言った。

 奈良時代、東国から筑紫、壱岐、対馬などの要路の
守備に赴いた防人が、任地へ出発する前に
鹿島神宮の前立ちの阿須波神(あすはのかみ)に
道中の無事を祈願したことに始まり、
のち武士にもこの習慣が伝えられた。

さらに第二次大戦中は、出征する皇軍兵士を
送るのに「鹿島立ち」という言葉が使われた。
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