大和 山の辺の道 古く大きな古墳を見ながら! |
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毎年大神(おおみわ)神社の春の大祭に合わせて三輪山周辺にやってくる。奥さまが後宴能(ごえんのう)を見たいのと、私が三輪山に登らせていただきたいからだ。今年は朝東京を発ったので、三輪山に登っていたのでは、お昼の後宴能の時間には間に合わない。奥さまには先行してもらい、私は山の辺の道から三輪山の写真を撮ってから追いかけることにした。もともとは三輪山は登らないで、下から拝顔するのが通例であった。
山の辺の道は昨年も天理の石上神社から長柄駅まで歩いた。今回は長柄から大和神社を経て三輪まで歩くことにしたのだが、予想よりも距離が長く、1時の後宴能の開催には少し遅れそうだったが、こんないい天気は珍しいので、山の辺の道から三輪山を眺めることを優先した。
山の辺の道は古代の大道で、そばには古代の宮跡や古墳がいくつもある。その中で一番有名なのは「箸墓」(はしばか)だろう。近年はヒミコの墓とほぼ確定したようだが、宮内庁では第8代考霊天皇の姫である「大市墓」として比定している。姫の名前はヤマトトトヒモモソヒメ。とても覚えられないが、私は何回か訪れるうちに、口をついて出てくるようになった。このヒメは三輪山の大物主の奥さんになる人だから、独身の女帝だったヒミコとは一致しないが、神さまとの結婚は、神婚といって、独身と同じ扱いであるから、問題はないかな。
箸墓の他にも大きな古墳がある。そのひとつはハツクニシラス(初代)天皇である崇神天皇陵、もうひとつは古代ヤマトの英雄であるヤマトタケルのお父さんの景行天皇陵である。この3つがほぼ同じ時期の巨大前方後円墳である。2つの天皇陵は山の尾根の先端に作られているが、箸墓だけは平地に土を盛って造られている。平地の古墳を造るには、山を削るのに比べて格段の人数、技術が必要だった。箸墓は天皇さまよりも偉大な人物の墓だったと考えてよいかもしれない。
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箸墓古墳(ヒミコの墓) |
行燈山古墳(崇神天皇陵) |
渋谷向山古墳(景行天皇陵) |
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今回歩いたコースを示しておきます。長柄駅から三輪駅までは地図で測るとほぼ8キロ。
実際には寄り道をしているのでもう少し長いかもしれません。
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衾田陵(西殿塚古墳)(継体天皇の皇后・手白香皇女陵) |
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衾田陵(ふすまだりょう)は通称で、西殿塚古墳が正式名称。念仏寺近くの五社神社の前から登って行くと上の方に陵墓が見える。森になっている部分は前方後円墳。しかしずいぶん高い場所にある陵墓だ。
ここには第26代の継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)陵と宮内庁が定めている。しかし、この古墳の年代は箸墓と同じ時代のもので、3世紀前半のもの。継体天皇は6世紀の人だから、この比定はまったくデタラメ。
これだけ大きな古墳なのだから、たぶん天皇に匹敵する人の陵墓であろう。
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衾田陵(西殿塚古墳)は、竜王山西麓の幅広い尾根の上に南北方向を主軸にして築かれた前方後円墳で、前方部を南に向けている。前方部の先端は三味線のバチ状に開いている。
墳丘の全長は219m、後円部の径135m、前方部の幅118m。大和古墳群の中では最大の規模をもち、この地域では渋谷向山古墳(景行天皇陵)、行燈山古墳(崇神天皇陵)に次いで大きい。
墳丘頂上で古墳祭祀が行われたらしい。 |
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発掘調査では、古墳の周囲から葺石が見つかり、大型の円筒埴輪が大量に出土した。しかしこれらは発掘調査以前に出土していたもので、この古墳からは埴輪の起源となる特殊器台や特殊壺が見つかった。
したがってこの古墳は埴輪出現以前に築造されたもので、円筒埴輪を出土する渋谷向山古墳(景行天皇陵)、行燈山古墳(崇神天皇陵)より古いとされている。箸墓古墳に近い4世紀前半のものと考えられる。 |
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宮内庁は陵墓としているが、本当はどなたが眠っているのか。すでに盗掘されていたので、被葬者は不明。しかし継体天皇の皇后でないことだけは確か。
継体天皇陵は、宮内庁によれば大阪の茨木の大田茶臼山古墳であるが、考古学では高槻市の今城塚古墳とされている。いずれにしても、大和で活躍した天皇ではない。 |
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行燈山古墳(崇神天皇陵) 第10代の天皇陵! |
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山の辺の道の途中に、天理トレイルセンターがある。ちょうどしだれ桜の満開!そこから見た崇神天皇陵。お掘はもともとの池よりも広げてある。溜池に使っていたようだ。いまは整備されて、土手は散策道になっている。
トレイルセンターの桜を眺め、目の前の崇神天皇陵の土手をしばし眺めながら、休憩。
天皇陵墓はすばらしく手入れがなされている。山の辺の道は、天皇陵の鳥居の前は通らず、古墳の裏側、櫛山古墳との間をとおっている。
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これはこの前方後円墳の解説の看板。方位は上が南東方向で、山側。鳥居のある場所が下方の大和盆地を見おろす北西方向である。
前方後円墳というのは丸い山の方が後ろということだ。前の方が方、すなわち四角形というが、この古墳の場合は台形のような感じだ。
人によっては帆立型古墳とよぶこともある。四角、台形の方が前という。ここで丸い山を見て儀式を行ったとのことだが、本当のところは分からない。
天皇陵とされているので、入ったり、ほじくったりはできない。しかし柳本駅のそばにある黒塚古墳は登ることもできるので、古墳の様子を知るにはそっちに寄ってみるのもいい。
前にも行っているので、今回は黒塚古墳はカット! |
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天皇陵への階段。手前には陪塚がある。 |
石段の上にある鳥居。その向こうに堀、後円部がある。 |
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| 左はトレイルセンターのしだれ桜、背後に崇神天皇陵の土手が見える。
上の左は櫛山古墳の入り口から見た崇神天皇陵の後円部とお堀。
上の右は、崇神天皇陵の後円部。4月10日、もう歩くと汗をかくので、こんな格好! |
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| 崇神天皇の宮には天照大神と大国魂大神とが一緒に祀られていた。このこの二神は仲が悪く、国中に疫病が蔓延する原因になった。
崇神天皇は大国魂大神を大和神社へ、天照大神を檜原神社に分けて祭ることにした。それで疫病が治まった。
崇神天皇の皇女である豊鍬入姫(とよすきいりひめ) は檜原神社に祀られた天照大神のお杖先として、一緒に旅に出た。それから何年か後に伊勢神宮に落ち着くことになった。
檜原神社が元伊勢というのはそのためである。
豊鍬入姫のご陵はこの神社の下にある「ホケノ山古墳」であるとされている。
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檜原神社:三輪の鳥居と豊鍬入姫のお宮 「山の辺の道」の大神神社から1キロのところにある。眼下には箸墓など! |
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渋谷向山古墳(景行天皇陵) 第12代の天皇陵! |
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第12代の景行天皇は、ヤマトタケルのお父さんとして有名だが、かなり意地悪で、息子を寄せつけづ、冷遇し続けた。最終的にはヤマトタケルが日本の支配体制を造るのだが、彼は大和には戻してもらえなかった。
ヤマトタケルは「大和は国のまほろば、たたなずく青垣、山籠れる・・ 大和しうるわし」と望郷の歌を残した。ヤマトタケルの白鳥陵は大和には造られなかった。・・・藤井寺にある。 |
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景行天皇の宮は巻向にある。この宮跡のさらに上の方に兵主神社がある。その境内には相撲の祖である野見スクネが当麻のケハヤと戦ったとされる場所がある。下の写真は宮跡から見た景行天皇陵。山稜の裾に造られていることがよくわかる。 |
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兵主神社参道の右手にある相撲神社。土俵入りの像は最近建てられた。
野見のスムネは当麻のケハヤに勝った。当麻のケハヤは当麻寺の門前にその像が造られたいるが、勝った方の野見のスクネを顕彰するものはこの地にはなかった。
桜井町では野見のスクネをなんとかPRしようと頑張っているようだ。相撲神社の社殿も像も新しい。 |
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景行天皇陵から三輪山へむかう山の辺の道。ここに
額田王の歌碑がある。万葉集
「三輪山を しかも隠すか 雲だにも
情(こころ)あらなも 隠さふべしや」
額田王(ぬかだのおおきみ)、この名前から男の王さまだとばかり思っていたが、天智天皇、天武天皇の二人の天皇に寵愛された才能あふれる超美人だったという。
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箸墓:ヤマトトトヒモモソヒメ大市墓 ヒミコの墓?? |
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この写真はWikipedia にあったものです。ライセンスはフリーとあったので使わせてもらいました。 |
箸墓は檜原神社の急な坂道を下った先にある。このあたりの古墳は纒向(まきむく)遺跡の箸中古墳群とよばれている。箸墓はその中で一番大きく、古い古墳と考えられている。
時代は3世紀半ば。大型の前方後円墳だ。これまで見た崇神天皇陵、景行天皇陵などは、山の尾根の末端に作られていたが、この箸墓は平地に盛り土をして作ったものだ。これほど大きな古墳をつくるには、そうとうの技術、資金それに多数の作業員が必要だったろう。天皇様をしのぐほどの人物というか神様というか、そんな方が祭られている。
宮内庁は第7代考霊天皇の皇女のヤマトトトヒモモソヒメの墓としている。この規模の古墳から、ただの皇女の墓とはとても思えない。最近はほとんどヒミコの墓と確定したように言われているが、「そうなんだ」と納得したくなる。
ヒミコが亡くなったのは西暦248年といわれる。この古墳の築造年代は3世紀末から4世紀初頭と言われていた。したがってヒミコノ墓である可能性は小さいと言われたそうだが、最近はヒミコノ墓の可能性が高い近い3世紀の中頃から後半とする説が主流になっているそうだ。私の感覚からいえば、50年や100年は誤差のうち、と思うのだが、考古学、書誌学の世界では、5年10年でもこだわるようだ。だいたいヒミコ人が、何時亡くなったかは、推定でしかないのに・・・
現在は宮内庁は、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみこと おおいちのはか)として管理しており、墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。
倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』の名称で、崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹とされている。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命となっているそうだ。・・・・日本書紀も古事記も、翻訳しか見たことはないので受け売りでしかない。
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迹
日
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もうここがヒミコの墓と確定したような雰囲気で、各所にこのような碑が立っている。
私もここがヒミコの墓だと確定されればいいとは思っているが、そうなると素人のなぞ解きの楽しみがなくなる。
やはり「ヒミコの墓」かもしれないなあ! と言うのがいいのだが。でも考古学には期待したいし、墓の調査もやって欲しいところだ。 |
箸墓伝説:三輪山伝説 『日本書紀』崇神天皇19月の条に、説話があるそうだ。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)は大物主神(おほものぬしのかみ)の妻となる。しかれどもその神さまは昼は来ないで、夜にだけやって来る。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「あなたは昼は見えずして、夜のみしか来ない。あなたの顔をはっきり見ることができない。できたら昼間も来て欲しい。あなたの美麗しい姿をぜひ見たいので」といふ。
大物主神はこれに答えて、「あなたの言うことはもっともだ。私は明日の朝あなたの櫛笥(くしげ)に入って待ってます。でもね、私の姿を見て驚いたらいけませんよ」とのたまふ。 ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。
大神は恥じて、人の形とになって、その妻に言った。「驚いてはいけないと言ったのに、あなたは、私に羞(はじみ)をかかせた。私は還りて あなたに羞をかかせるぞ!」とのたまふ。大空をかけて、御諸山(三輪山)に登ってしまった。
倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。
「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。」
インターネットに載っていた訳だが、あんまりよく分からないが、何か意味がある説話なのだろうか。
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三輪神社の桜、大鳥居を見おろす。遠景の山は耳成山、左の山は畝傍山。遠景は葛城山系。箸墓は右手下。 |
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今年も三輪神社春の大祭の後宴能に合わせて、やってきました。でも私は「山の辺の道」を歩いていたので、遅れてしましました。でもこの道を歩くと、不思議なことに古代の人々の霊みたいなものが語りかけてくるような気がします。そんなこえに耳を傾けていると、どんどん時間が過ぎて行きます。
得意のランニングで、話半分ぐらいにして逃げ出さないと、玄賓庵のおじさんのように、女装の神さまに取り付かれたりしそうです。適度なころあいで行ったり来たりするのがよさそうです。
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2014年4月10日 |