飛鳥の古墳 牽牛子古墳は斉明天皇陵かも?  
 HP 古墳   旅行 2014年  神社 
山梨の一宮でモモの花つみをしていた。花を摘んだら花粉をとって、別の花に受粉する。摘んだ花を
段ボール箱に入れるが、箱の底に敷かれた古い新聞紙の一面に、「牽牛子古墳は斉明天皇陵」
という記事が出ていた。これはけっこう大変なことだろうと思って、切り取って持って帰った。

新聞は2010年9月10日の山梨日日新聞だった。最近私は新聞をとっていないので、そんな重大事件が
あったとは知らなかった。インターネットで見たら、その日はどの新聞も一面扱いだった。

私はけっこうたくさん天皇陵といわれる古墳を辿ってきた。堺にある巨大な大山古墳(仁徳天皇陵)
誉田山古墳(応神天皇陵)、白鳥陵(ヤマトタケル陵)、藤井寺、百舌鳥、飛鳥、佐保などの古墳群を
歩いてみた。斉明天皇陵は気になっていたが、高市郡高取町にある越智崗上陵(おちのおかのえ)
が宮内庁認定の陵墓だが、我々からいうと不便な所にあるので、まだ訪れていない。

2014年4月、恒例の大神(大三輪)神社の春の大祭の後宴能を見るために大和三輪に来るのを
機会に、牽牛子(けんごし)塚古墳など飛鳥の古墳をまわってみることにした。
なん年かぶりに高松塚古墳(上の写真)も訪れて見た。キトラ古墳も近くにあるが、
これは今東京の国立博物館で2014年4月22日から壁画が公開されるというから、
そちらで見ることにして今回はカットした。

明日香村の古墳巡りは自転車がいい。私たちは橿原神宮駅のそばで借りた。
奥さまに電動自転車を勧めたのだが、ママチャりで大丈夫という。しかし明日香村は坂だらけ。
やはり電動自転車にすればよかった。半分くらいは押して歩いたのだから。 
見瀬丸山古墳:これは大きい  
上の草むらは古墳の「前方」部分である。背後の山は畝傍山。桜の時期にこの古墳の上に登った。
岡寺の駅のそばにある大きな古墳が前から気になっていた。
これだけ大きい古墳は天皇陵ではないかと思っていたが、
宮内庁の認定は後円部分だけで、前方のこの場所には勝手に
上ることができる。まあそれほど重要視されていないようだ。

昔はこの見瀬丸山古墳は天武天皇・持統天皇の合葬陵と考えられていたが、今は別のところに
見つかったので宮内庁では見瀬丸山古墳を陵墓から外した。そのために調査をすることができる。

明治初年、お雇い外国人のW.ガーランドは「日本最大のドルメン(横穴式石室)」と評価した。
内部に二つの家形石棺様子を観察した。出土品は多くが大英博物館に保存されているそうだ。

 これが「後円」部。手前の「前方」部の大きさに比べ、円墳の部分は小さい。
 
 この古墳は前方後円墳ではなくて、大きな丘の上にある円墳ではないか。私の最初の印象だ。そう考えた人もいるようだが、昭和30年代に航空写真の判定から、前方後円墳とされるようになった。

 極めて大規模な前方後円墳であり、全長は318m、前方部高さ15m、幅210m、後円部の径155m、高さ21m。奈良県では最大、日本全国においても6位。古墳時代後期後半(6世紀後半)の築造。

 
   横穴式石室の全長は28.4m全国第1位。玄室には家形石棺L字型に置かれている。この大きさは石舞台古墳よりも大きいという。現在陵墓参考地。

 1991年近所に住む子どもが、崩れた開口部を見つけた。その親が中に入って写真を撮った。石棺など参考になる写真を撮り、TVで放映された。しかし宮内庁はすぐに穴を塞ぎ、管理が厳しくなった。写真はインターネットに載せられているというが、私は調べていない。

 結局だれの墓か分からない。天武天皇と奥さんの持統天皇の合装陵とさ、、その後欽明天皇陵とされたこともあるが、現在では「蘇我稲目」の墓ではないかと言われているそうだ。この時代天皇ほどの権力をもった人物は彼しかいなかったということのようだ。

 左の写真は植山古墳で、現在古墳公園として整備中である。まあそれもいいのだが・・・・

 本来の姿と同じようにしてもらいたいが、もともとがどんな形、姿をしていたか、あまりよくわかっていない。それをきれいに整備してしまうと、訪れる人は、古墳ってこんな形だったんだ。と思いこんでしまう。

 なんて文句を言ってても仕方がない。正しく美しく復元して下さい。
植山古墳のすぐ脇にあるスサノオ神社だ。  扁額がかかっていたが、飛鳥美人じゃないよね。 
 

欽明天皇陵(第29代天皇):檜隈坂合陵
 見瀬丸山古墳から植山古墳、八重垣神社を経て、坂道を登り近鉄線の線路を目指して坂道を下った。国道に出る手前に古そうな道があった。少し入ると、左手に上る狭い石段があった。石段の登り口に「欽明天皇・檜隈坂合陵」と書いた、木の柱があった。

 「エエーッこんなところに?」と思ったが、上って行くと、畑の下の方に陵墓が見えた。参道からははるか下に見下ろす感じになっている。尊い方の墓にしては、不思議な場所にある。こりゃおかしいのでは??
 花粉症でマスクをした奥さまの背後が欽明天皇陵のお濠だ。この濠は周囲を囲っておらず、半周だけだ。この写真の奥の方は山の一部になっており、濠は巡らせてはいない。
どうにも中途半端な感じがする。

 奥さまと並んでいるのはお猿である。この写真の左手に「吉備姫」の陵墓である「檜隈墓」がある。こちらは「檜隈墓」、欽明天皇陵は「檜隈坂合陵」、名前だけから言っても、檜隈陵の方が本家のような気がするのだが。

   万世一系と言われているが、実際には紆余曲折があり、現在の天皇家は第26代の継体天皇から始まる。

 第25代天皇は武烈天皇で、日本書紀には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、最悪、悪劣なる天皇として描かれている。

 たぶん、だから追放して新たな天皇を迎えてもいいい。という雰囲気を出すために、悪者に仕立てたのだろう。

 継体天皇(26代)は日本海のどこかからやってきた。たぶん朝鮮半島からだろう。それまでの天皇家とのつながりは24代の仁賢天皇の皇女を妻としたということだけである。

 さてその継体天皇の子どもの一人が欽明天皇(29代)だ。その子どものうち4人が天皇になっている。推古天皇(33代)、用明天皇(31代)などで、聖徳太子は用命の子どもで、欽明天皇の孫ということになる。

 さらに欽明天皇のひ孫が吉備姫で、皇極、考徳、斉明(皇極が重祚)を生んだ母である。しかしなぜ欽明とひ孫が同じ敷地に祀られているのか。わからん。

 欽明天皇陵の上の畑に吉備姫の陵がある。この姫は欽明の子で第30代の敏達天皇の孫のである。なぜここにひ孫とひいじいさんが一緒に祀られているのはどうしてだろう?
■この写真は岩屋山古墳の上から超望遠で撮った。
由緒は不明だが、この陵墓の中に「さる石」という韓国系の石像が二つある。(下の写真) 後から入れたのだが吉備姫と韓国との間に何らかの関係があったことを暗示させるものだろうか。ちょっと興味はある。

 岩屋山古墳:石室だけしかない!
  方形墳と推定されているが、封土の西半分は削り取られている。石室は南面に開校する横穴式石室で、花こう岩の切石を用いて構築されている。石室の規模は全長16.7m、玄室は長さ約4.72m、幅約2.7m、高さで、側壁、奥壁に団に切石を津見、下段はほぼ垂直に上段は内側に傾斜している。
 羨道(ぜんどう)は長さ12m、幅1.9mで入り口側の側石は二段積みとなる。羨道南端の天井石には閉塞施設のための溝が切りこまれていることや、一段高くなっていることにも特徴がある。また玄室南側の床面には、集水のための円形の掘りこみがあり、ここから羨道のほぼ中軸に並行して排水溝が設けられている。 明日香村。
近鉄の飛鳥駅。
村の名前は明日香。

このあたりは7世紀の古代史の中心となる地域で、欽明天皇陵、文武天皇陵、天武持統合装陵や高松塚古墳、キトラ古墳など有名な古墳が集まっている。

天智、天武天皇の母である皇極天皇(吉備姫の娘)は一旦考徳天皇に譲ったが、再び天皇になって斉明天皇になる。

 斉明天皇の墓は・・・にあるが、最近牽牛子(けんごし)古墳が斉明天皇陵というになりつつある。

牽牛子塚古墳:斉明天皇陵?(第37代天皇)
 この古墳は終末期古墳(7世紀末)で、1923年(大正12年)国の史跡に指定された。指定時には「あさがおつかこふん」と言われた。「牽牛子」はアサガオの別称だそうだ。2009年(平成21年)〜2010年にかけての発掘によって、八角形墳 であることが判明。飛鳥時代の女帝で天智と天武の母とされる斉明天皇の陵墓である可能性が高まった。

 舒明、天智、天武・持統の天皇の墓はいずれも八角墳である。牽牛子塚古墳も当時の皇族の陵墓に特徴的な八角墳である。そう言えば聖徳太子の墳墓も八角墓だった。

    
黒いシートのところに玄室の入り口がある。
いまは閉じられているが、公開時には多くの
人が見学に来たとか。
 
   
 ところで宮内庁は西南西の方向へ2.5km離れた「越智崗上陵」(車木ケンノウ古墳=考古学的な名前)を
斉明天皇陵としている。宮内庁書陵部では、牽牛子塚古墳が有力だとの説があることは認めているが
陵墓治定を見直す必要はないとしている。
  牽牛子塚古墳のすぐ近くに鑵子塚古墳がある。私たちは牽牛子塚古墳から上方に上り尾根道を歩いて向かった。
上の写真のように案内板があった。

 この古墳も円墳のように見える。八角墓ではないかと見渡したが、木々が茂りその範囲は良くわからなかった。
発掘跡は残っており、羨道の入り口も見える。ここも何か意味のある古墳ではないかと思うが、これほど沢山
古墳があったら、明日香村の単位ではとても調査はできないだろう。国家的プロジェクトは必要かも。
世界遺産にして、このあたりの全古墳を調べたらいのに。
 円墳のように見える。墳墓に上がる石段があるが、いまは入ることができない。
 ちょっと長くなったので、続く!!