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阿弥陀寺(七日町駅前)
明治元年の戊辰戦争での戦死者の遺骸は西(官)軍の
命で放置されたままになった。
幾度もの懇願で翌 年やっと遺骸はここ阿弥陀寺と
長命寺に埋葬されることになった。
西軍も会津には恨みがあったのだろう が
ひどいことをしたものだ。
すばらしい「しだのれ桜」だったが、
寂しい気持ちになった。 |
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鶴ヶ城の中に「荒城の月」の碑があった。
「ありゃりゃ」あの曲は滝廉太郎の故郷である大分県竹田の岡城がモデルと聞いたような気がするが・・・・。
聞いてみたら、作詞の土井晩翠の言葉のようだ。彼は仙台 の青葉城が故郷で、青葉城が詩のモデルと言われている。どこにも会津の鶴ヶ城は出てこない。
しかし昭 和21年に会津の友人が開いた音楽祭の時に、参加者全員が荒城の月を歌うと土井晩翠は「この詩の基は皆 さま方のあの鶴ヶ城です」と言ったそうだ。初めてそのことを聞いた主催者はすぐに歌碑を建てた。
文字 は晩翠の自筆だから、単にリップサービスではないようだ。しかし作詞から50年近くたってからの話だ。 その間なぜ公表しなかったのだろうか・・・・??? |
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大龍寺は観光バスがこない寺なので、静かでいい。八重さんの実家山本家の墓所である。畑の作業をしていたおばさんに聞くと、ここのしだれ桜は三春の滝桜の子孫だそうだ。たしかに姿かたちは似ている。
今回駅で聞いたら本物はもう散ってしまったとのことだったので行かなかった。しかし帰ってインターネットをみたらまだまだ十分見事だった。自分で確かめず人の話を信じたのが悪い。悔しいかった!
でも まあその子孫が見れたのだからいいか!
ところで、この左の写真・・・・なんのことだろう。NHKのドラマに出てきた話なのだろうか???
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◆ 飯盛山へは行きたくなかったが、観光客がどんどん上がっていくのでついつられた。
白虎隊の少年たちがこの山の上から、炎上する鶴ヶ城みて自刃した場所だ。子どもたちを道連れにした会津の殿様は、
どのように言おうとも許せない気持ちだ。
殿さまはじい様かと思っていたが34歳の若者だった。子どもたちは大勢死んだが、明治になって殿さまは華族に叙せられ、
日光東照宮の宮司になった。
時代背景があるとはいえ、白虎隊の子どもはあまりにもかわいそうで、その墓所を観光地にするのは許せない気がするから、
登りたくなかった。でも怖いもの見たさなのか上がってしまった。・・・・白虎隊の皆さん、ゴメン!
山川三兄妹は明治になって活躍した士族の子孫。白虎隊の生き残りの健次郎はアメリカ留学後東大総長にもなった。妹は北海道に渡った後に、津田梅子とらとともにアメリカに11年間滞在し、帰国後会津鶴ヶ城を攻撃した大山巌の妻になった。彼女はNHKの八重さんとは違って背が高く帳美人で「鹿鳴館の花」と言われたそうだ。八重さんよりもこちらを主人公にした方が、おもしろかったのでは・・・・・・山川兄妹や八重さんら、逆賊となった会津の士族も落ちぶれただけでなく這いあがった人たちも多かった。明治という時代は、なかなかおもしろくすごい時代だったのだ。私は今の方がいいけど・・・・ |
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さざえ堂と言うお堂が飯盛山中腹にある・・・・上の写真
飯盛山からの下り道で見学。
らせん状の階段が外側についている。
むかしバグダットの近郊のサマラというところで見たカタツムリ党と構造は似ている。
もっともあちらは日干しレンガでこちらは木造だが。 |
石部桜・・・・エドヒガン桜 いまが満開!! |
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飯盛山を降りて、石部桜を見に歩く。本日はすでに1万五千歩を歩いている。この桜はエドヒガンの畑の中の一本桜。後ろを歩いている外国人が「さくらは1本だけなの?
」とガイドさんに聞いている。鶴ヶ城を見たあとでは拍子抜けだろう。なんで1本だけの桜を見に長い距離を歩くの???という感じ。てんこ盛りの美ではなく、1本だけの侘び、わかんねえだろうな! と言いながら、私もちょっと・・・・・という感じ。
ガイドさんは「有名だから!」と説明していた。NHKの「八重の桜」のオープニングシーンに使われたのだそうだ。
今日は時間があるので珍しくゆっくりお昼。地元の方と一緒になり、いろいろ伺った。天ぷらはその方のお勧め、するめとニシンの天ぷら。お蕎麦は・・・・・戸隠そばの方がうまかったかな??
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ごぞんじ会津磐梯山! 明治21年1888年大爆発で、山頂が吹き飛んだ。泥流は裏磐梯に流れ、美しい湖をいくつかつくりだした。会津盆地のシンボルだ。深田久弥さんの日本百名山。この山を見ながら本日は日帰り。4時半ごろに会津若松を出て、家に戻ったのは7時半。新幹線のおかげで近くなったんだ。 |