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四国遍路第10回 2018.5.10-14

■今年3月に、5泊6日で76番の金倉寺までまわった。後半の2日は雨の中、弥谷寺の555段の石段登りはかなりハードだった。帰ってきてしばらくは体調が戻らなかった。ほぼ1週間、休みなしに歩くのはきつい年齢になったことを悟った。次回は交通費はかかるが2泊3日ぐらいにしたいと考えた。

■今年中に何とか88番まで回りたいと考えていたが、残り1回で12札所をまわるのはムリになった。そこで暑くならないうちに6札所をまわり、残り6札所を秋に回り完成させることにした。全部札所をまわれば結願ということになるが、我が家は仏さまになんの願いもしていないので「結願」とは言えない。そこで歩き旅の完成ということにした。

■東京駅を7時10分の「のぞみ」で出発したら多度津に11時40分には到着する。
4時間半で四国の年に着くのだからすごいものだ。ヒコーキでもこれぐらいはかかる。
5月の最初は暑い日が続いたが、本日は日差しはあるもののかなり涼しい。
暑さにはたいへん弱い我が家の奥さんでも十分に歩くことは可能だった。

多度津駅から30分、距離は1.5キロほどだが駅前にあった太胡石を見ていたら遅くなった。
この石は先日訪れた上海で見た石だった。
説明文を読むと友好都市になったので上海のなんとかいう町から送られたとのことだった。 
太胡石(石灰岩):なんのモニュメントか? SLが走っていた:多度津駅前:歩いて行く 

    第77番 道隆寺 

多度津駅から行ったので、寺の裏手にでた。76番から歩いてくる場所が正面なのでぐるっと回って大門前に出た。
道隆というのは領主さまの和気道隆から名をとった。

彼は怪しい光を放つ桑の木に向かって矢を射た。その矢は乳母に当たってしまった。
それを悔いた道隆は桑の木で薬師如来を彫った。

息子は唐から戻った空海に頼み、さらに大きな薬師如来を彫って、その体内に道隆の薬師如来を本尊とした。
本尊は「眼直し薬師」として今も信仰は厚い。眼がよくなってご典医になった京極左馬造の御廟がある。


77番 道隆寺 大門(仁王門) 仁王門から本堂を見る
立派な多宝塔 西国33か所の観音様 
弘法大師の大師堂  目直し薬師さん 
弘法大師に許しを請う衛門三郎像 大師堂:本堂から見る

本日は丸亀で宿泊 丸亀へ
寺の裏から国道に出る。目の前を本格的お遍路さんが歩いて行った。少しだけ後をついて行ったが、大きな荷物を担いでいるのに早い。いや、我々が遅いのだろう。

途中民家の壁にこんな看板があった。ちょうど森友学園の件で、財務省幹部のパワハラ、セクハラが報道されているさなかだった。お遍路をしていると人間ができてくると言うが、どうも世の中に不満や不平がどんどん増してくる。人間ができていない。

本日は丸亀のホテルに泊まることにしているので、駅のロッカーに荷物をあづけて先に進んだ。行けるところまで行って電車でもどることにした。明日はそこまで電車で行って歩きだそうとする。

こんな荷物でも速い! 丸亀周辺は四国工業地帯
お願いだ! 途中にはいい神社があった

宇多津には宇夫階(うぶしな)神社があった。
宇多津を通り越し県道の下をくぐってすぐにわき道に入る。気を付けていないと見過ごす。
少し登って下るとなにやら不思議な神社前に出る。

宇夫階(うぶしな)神社と名前が付けられているが石段を登るといくつもの鳥居があり、
かなりの神社が集合している。末社や摂社ではなく並立しているようだ。
伊勢の社をもらってきた社殿もあるし金毘羅さんもある。

本殿の裏に回ってみると巨大な花崗岩がある。注連縄がはられているので磐座(いわくら)だと分かる。
これぐらい大きいと何となく神秘性が感じられる。

ここに神さまが降臨されるのだろう。私は無神論者ではない。
人知を超えた偉大な存在があると考える方が合理的で自然だと考えているからだ。

宇夫階神社を見たところで丸亀に戻り、競艇場脇のホテルに入る。駅からは競艇場行のバスに乗る。

丸亀付近には富士山型の山がある 宇夫階(うぶしな)神社:狛犬
二つの神社が並立 社殿裏の巨石(磐座いわくら)



■ 78番郷照寺(本堂と庚申堂)
宇夫階(うぶしな)神社の鳥居前は参道になっている。まっすぐな道が付けられている。
宇夫階神社の鳥居からすぐのところに立派なお寺が、きっと郷照寺に違いないと思ったが、
実は別の寺だった。

郷照寺はその先、右手に入り少し登ったところにあった。 一番下には鐘楼がある。
そこから宇多津の街が一望できる。坂出の街は峠を越えた向こう側らしい。
鐘楼から石段を上がると納経所がある。本堂はさらに数段あがり、さらにその上に大師堂がある。

1日目でまだ石段登りに慣れていないので庭園脇の緩い坂を上る。立派な池を巡る庭園があった。
なかなかいい感じだった。大師堂のさらに上には淡島様がある。女性の守り神様だ。

奥さまはお参りしたが、私はちょっと近づきがたく、地下にある観音堂に降りて行った。
小さな観音の像が千体万体並べらられている。奉納した方々の気が満ち満ちているようで、
急いで外に出た。まだ修行が足りないのでどう対処してよいかわからない。

宇夫階神社の参道から入る 入り口に閻魔様がいた
遠くに瀬戸大橋がみえる 大師堂の格子天井画
立派な庭園がある。 
地下の万体観音堂 大師堂


札所は寺のはずだが三輪鳥居がある 明日行く白峰山 崇徳天皇の墓がある

天皇とは第75代の崇徳天皇だという。ちょっと調べてみたら小倉百人一首の
『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ』
の詠み人で、文化人らしい。
しかし崇徳天皇は平将門、菅原道真をしのぐ大怨霊であるとされている。

崇徳天皇の祖父は白河天皇、父は鳥羽天皇だが、実際は祖父の子だったようで、父は崇徳のことを忌み嫌った。権力者だった祖父は息子の鳥羽を上皇にし、崇徳を天皇にした。

白河法皇がなくなった後、鳥羽上皇は崇徳天皇を廃して近衛天皇をたてた。近衛天皇はすぐに亡くなるが、崇徳が呪い殺したという噂が立った。近衛天皇の後に立った後白河天皇は平清盛と組み戦いを起こした。「保元の乱」である。負けた崇徳上皇は四国の讃岐へ流された。

自分の血をとって書いた写経を京都に送り、帰還を願ったが、破り捨てられたのを知り絶望して、1164年舌をかみ切って死んだ。「日本国の大魔縁となって、天皇を民とし民を天皇となさん」と呪ったという。その後、後白河法皇の近親者に次々と不幸が襲った。崇徳が予言したように武士が台頭し、天皇の地位は地に落ちた。

その後100年ごとに起こる大きな事件は崇徳上皇の呪いだとされてきた。怨霊をおそれた明治天皇は崇徳天皇の御霊を京都に戻し白峰神宮を創建してから即位した。亡くなって800年後の1964年には、昭和天皇が崇徳天皇陵に勅使を派遣し、霊を鎮めた。そのおかげで東京オリンピックは無事成功したという話も残っているそうだ。


のんびりとした遍路道 本堂ではなく本殿!神社
第79番天皇寺:本堂 高照院が本当の名前
大師堂 鐘楼 ちょっと傷んでいるなあ! 

  着       
第10回    東京7:10 岡山10::24 のぞみ9号    
岡山10:35 多度津12:07 しおかぜ7号   12:10
多度津 第77番道隆寺 歩き 0.5q 12:30
第77番 丸亀駅 歩き 4.5q 2:00
丸亀駅 第78番郷照寺 歩き 4.0q 3:15
第78番 坂出駅 歩き 5.0q 5:00
坂出駅  第78番天皇寺 歩き 2.0q 6:10
八十八場駅 丸亀(ホテル) 列車、タクシー   7:00
      16 q 6 時間
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