能登の旅・・・・その1      安宅の関・多太神社・那谷寺
12年4月26日(木)〜28日(土) 
小松空港からレンタカーを借りて能登へ行きました。昨年11月に見残した続きです。奥能登は桜が満開でした。
■ 昨年(2011年)11月に金沢に来た。その時は倶利伽羅峠ランニングと能登の一宮である気多大社に参詣することが目的だった。しかし気多大社は能登の入り口で、さらに奥の方に本来の能登の国が広がっていることを知った。先日壱岐対馬に行ったが、その時に日本国は、今でいえば裏日本、山陰が本来の表玄関だったのではないかと感じた。
 下に乗せた北陸大学の広告地図では、日本海が中心になったような形をしており、まさに能登のあたりが日本の表玄関のように見えた。能登の奥は奥能登ではなく「表能登」があり、さらに朝鮮半島につながっているのだと思った。
■ 天皇の歴史をみると、現皇室は第26代の継体天皇から始まっているそうだ。その前の系統は25代の武烈天皇だが、子孫はなかったので終了。豪族の大伴氏、物部氏らは越の国(福井県あたり)から、応神天皇の血を引くとされる地方豪族のオホド王を天皇に推挙した。この方が継体天皇になるのだが、本当の素性はよくわからない。越の国が本拠なのだから、もとは朝鮮半島からの渡来系だったろう。
■ 古代には能登半島は天皇を生み出すほどで、今よりもずっと重要な場所だったのだろう。今回私の興味だけであちこち回ってみたが、すばらしい縄文遺跡はあるし立派な古墳も見ることができた。重要な地であったことを再確認した。 

小松空港にあった北陸大学の広告壁画:
■■ まずは安宅の関から・・・
 小松空港から能登を目指して出発したのだが、空港を出たたころに「安宅の関」の案内があった。急きょそちらに向かう。空港からすぐ近くの場所だ。関所跡はなく、安宅住吉神社がデンと構えている。この関所は奥州へ逃げようとしていた源義経主従を捕えるために臨時に設けられたにものだった。 地形を見れば、わざわざこんなところを通らなくてもいくらでも道はあったろうに。物語のために作った話なんじゃない?? 私たちの推測ではたぶん舟で越前海岸をここまで来て上陸した。しかしここに関所が作られた情報はなかったので焦った。弁慶は白紙の巻物を「勧進帳」と見せかけたが、そんなの簡単に見破られたはずだ。
 ところで義経一行だとわかっても武士の情けで通してやった関守の「富樫」はその後どうなったのだろう。わざと逃がしたので、おとがめを受けたのではなかろうか??

義経    弁慶     富樫

安宅住吉神社 本殿は改築中

巫女さんと、関所はこの神社の裏手にあった

安宅住吉神社の森と安宅の港:立派な家々

関所を通らなくても内陸を行けるのでは???
■ 小松の町に入ってみた。ここには芭蕉の跡があった。下の写真は小松空港に入る直前の上空からの写真。古墳が見えるが、昔から人々が住んだ、豊かな地域だったことが分かる。「土地」は人々が長年かけて作ったのだ。
 芭蕉さまは「奥の細道」の旅で、小松に滞在する。ここで「むざんやな かぶとの下の きりぎりす」と詠む。

多々神社現在の祭神は、衝桙等乎而留比古命・・・・何て読むのかわからない?秋鹿郡多太郷の地名起源説話に登場する神。以前は、大田田根子命が祭神と考えられていたらしい。

兜の八幡様とも呼ばれる。この兜は、斉藤実盛の着用していたもの。実盛は、寿永二年源平の合戦の時、加賀の篠原の地で
73歳で討死にした平家の武将。

斎藤実盛
 初め源氏の義朝に仕えたが、平治の乱後、平家の宗盛に仕え武蔵の国に居住した。幼少の木曽義仲の命を救った。平家敗亡の軍の時、手塚の太郎に討たれた。

武者の黒髪を訝って首を洗ったところ、白髪が現れたという。
謡曲では「あなむざん・・・」 芭蕉も最初は「あなむざん・・・・」としたが、「奥の細道」では「むざんやな・・」とした。


街中には神社がいくつもある。日吉鳥居!!

なんかごちゃごちゃあって御利益がありそうだ。
■那谷寺 白山信仰の寺・・・・・高野山真言宗・別格本山
神社だけでなく立派なお寺もある。行く先と反対だが、小松ドームの先の山の中にあるお寺に寄ってみた。
■養老元年(717年)泰澄法師が、越前国に千手観音を安置したのが始まり。寛和2年(986年)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を見て、求める「観音霊場三十三カ所」はすべてこの山にあると考えた。西国33観音の一番「那智」と33番「谷汲」の山号から、「自主山厳屋寺」を「那谷寺」へと改名したそうだ。高野山真言宗の別格本山というが、真言宗とは違うのかな?
■南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃した。近世に入って加賀藩主前田利常が再建。この時の大工は気多大社拝殿を建てた山上善右衛門である。前田利常は那谷村付近を隠居領としたので加賀藩領となった。が後に領地交換で大聖寺藩領となる。
■元禄2年(1689年)奥の細道の松尾芭蕉は弟子の曽良と山中温泉で別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中参詣し、奇岩霊石がそそりたつ遊仙境の岩肌を臨み句を詠んでいる。・・・・・曽良の墓は先日訪れた壱岐島の勝本にあった。
・・・・・石山の 石より白し 秋の風  芭蕉 ・・・・・・
■文化財 多数あり。
本堂(大悲閣)- 岩窟内に造られた本殿、その手前の唐門、拝殿の3棟からなる。
三重塔 - 寛永19年(1642年)建立。護摩堂 - 慶安2年(1649年)建立。鐘楼 - 慶安2年(1649年)建立。
■私の興味はもっぱら奇岩遊仙境。これはなかなかすごい。白色の凝灰岩のようだが、どんな時代のものか、調べていないのでわからない。でもなかなかいい風景だ。

奇岩の上の自生稲荷神社

山上・鎮守堂 ここからの眺めがいい!

奇岩・白っぽい凝灰岩

広大な境内に西国33か所がある。
本殿;岩窟内に「十一面千手観音」 重文 三重塔 重文

自然智の奇岩 遊仙境・・・岩石の説明もして・・・・

石山の 石より白し 秋の風  芭蕉
 朝9時には小松に着いたのだが、周辺でうろうろしている間に午後になり、奥さまは「お昼てべていない」とご機嫌が悪くなってきた。木場潟の道の駅で「小松うどん」で遅いお昼。二人ともちょっと体重が増えてきているので、今回の旅行の食事は押さえておこう!! と決心したが、最初だけ。
 今晩は和倉温泉の、かの有名な加賀屋・・・の隣の旅館に泊まった。仲居さんは連休を前にして5年ぶりに復帰したという我らよりも年上の方。食事はまあまあだったが、年寄りには多すぎるなぁ!! お隣の加賀屋の賑わいとは違って静かな夜を過ごすことができた。


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