能登の旅・・・・その2            能登二宮・飯川神社・能登国分寺
                  須曽蝦夷穴古墳
・・・・・これはすごい
12年4月26日(木)〜28日(土) 
26日は和倉温泉の、あの有名な加賀屋・・・の隣り大観荘という旅館に泊まりました。海が見える
よい部屋でしたが、泊り客は数組。和倉温泉は加賀屋だけでもっている温泉地の感じでした。
■ 能登の一宮は羽咋市にある気多(けた)大社である。気多大社は高岡の一宮にもあり、そちらは越中の一宮を名のっている。(越中には一宮が4か所もある)。前回はまず一宮に詣でた。今回は地図に能登二宮という駅があったので、それを確認に行った(26日夕方の話)。近くまで行ったが、どこだかわからなかったが、「石動山」の登山道をちょっとはいったところに天日陰比盗_社があった。元は、石動山山頂にある伊須流支比古神社の下社であったが、いまは里に近い天日陰比盗_を祀る、この神社が二宮なのだそうだ。祭られている神様がどなたなのか、私にはなじみがなかった。

■ 能登二宮あたりの古い町並みはなかなかすばらしい。街道に沿って大きな屋敷が並んでいるのだが、商店ではないし、何かを造っている感じでもない。そんな道脇の飯川神社に巨大なケヤキの木があった。七尾市の天然記念物だそうだ。このあたりの豊かさを象徴するかのような木だった。この神社も苔むしてなかなか趣がある。

■ 飯川神社からさらに七尾線を北に上がっていくと、能登の国分寺跡にでる。国分寺は国府がある場所に作られたが、さて一宮は国府とは離れている。神社は国府とは関係ないのかな?? 
■ 東京の国分寺は国府、府中のそばにある。しかし一宮は埼玉県の大宮氷川神社で、はるかに離れている。国府と国分寺はたいてい一致するが、一宮は国府よりも古い時代からあったのだろう・・・・・・。まあそれで納得。

■ いくつかの疑問を残したまま、和倉温泉へ。越中、加賀、能登には火山はないが温泉はいくつもある。さてこれらの温泉が何に由来するのか・・・・・今は火山はなくても、数百万年以前にはあった。玄武岩、安山岩など火山に由来する岩石はいくつもあった。これら岩石についてはこの後に・・・・・
 ■能登の二宮 天日陰比盗_宮

天日陰比盗_、ひめ神社なので千木は内削ぎになっている。
祭神は屋船久久能智命とある。草木や建造物の守護神だそうだ。
10代崇神天皇の御宇御鎮座の官幣社で 2千百余年の歴史をもつ延喜式内社であります。また往古より菊御紋を装飾した郷十八カ村の総社氏神でもありました。建長4年4月(鎌倉時代)には能登国の二宮となり 文徳天皇より 後圓融天皇まで九度の神位を受けております。社殿後山は天日加氣山と云い大御前峯社は 羽咋鹿島両郡の雨乞所跡であり中御前は 崇神天皇の御廟跡で 印色入日子命(垂仁天皇の御子)の御陵墓跡とも伝えられております。61年目毎に 羽咋鹿島両郡市 諸難退散祈願祭が執行され 両郡市より多数の参詣があり 盛儀を極め 現在に至っております。
 例祭 六月十五日 春祭 四月十八日   夏祭 七月十五日 秋祭 十月十五日   石碑の文から・・・・・
■ 飯川神社 町並みと大ケヤキ

■ 能登の国分寺
ガイドブック勝手に要約
 今から1250年ほど前、平城京を中心に全国60余ヶ所を国にわけて治める律令政治がおこなわれていた。当時国内には伝染病や飢饉がおこり、人々は生活に苦しんでいた。聖武天皇は世の乱れを神仏への祈りによって救おうと国ごとに国分寺を造り、都には全国の国分寺をまとめる東大寺を建立した。
 能登国分寺は、天平13年(741年)の詔が出てから100年後の承和10年に、すでにあった大興寺を格上げして金光明四天王護国之寺とした。以来400年ほど能登の仏教の教えの場として栄えたが、武家社会の足音が聞こえる平安時代の終わりには国立の寺院としての役割を終え、長い眠りに就いた。800年間埋もれていたが、昭和45年から発掘開始。昭和49年に史跡として指定を受け、現在も発掘は続き、南門と塀が復元されている。(下の写真)
■ 能登島 須曽蝦夷穴古墳
 この古墳は珍しい形をしている。日本には例が少なく、高句麗系のものだそうだ。昔の能登地方は大陸に向かって開けていたのだろう。島には数多くの古墳があるが、きちんと整備されているのはここだけ。
 
七尾湾内に浮かぶ能登島の南岸の須曽の背後、標高約80mにある珍しい形の古墳だ。1981年(昭和56年)、国の史跡に指定された。造られたのは、畿内では古墳はほとんど作られなくなった7世紀中頃とされており、被葬者は不明。

一辺が20m程度、高さ約4.5メートルで、古墳時代後期に属する横穴式の方墳であるが、石室が二つ有ること、横穴が石室の長辺に接続していること、石室の天井部は隅三角持送技法によりドーム状になっていることなど、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えている特長がある。

 二基の石室とも長い羨道部をもち、全長約7メートル前後ある。雄室と呼ばれる東側の石室は平面形はT字形で、雌室の方は
逆L字形に造っている。石室用材は能登島に産出する安山岩室板石である。

七尾湾から蝦夷へ向けて出陣する越の国・国主・阿部比羅夫の水軍

現在の七尾湾

二つの玄室・珍しい

玄室の内部・立ち入り許可されている




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