豊岡・植村直己冒険館・玄武洞 と
2012年  植村冒険館  コウノトリ  但馬一宮 ジオ景観     
 第16回 植村直己冒険賞・授賞式
   豊岡にある植村冒険館で2011年の冒険賞の授賞式が行われた。今年の受賞者は斎藤実さん。ヨットで地球周回8回と言う超人だ。特に8回目は西回りで世界一周されたのだから大変な快挙だ。この方はなんと77歳でこの西回りを達成したのだからすごい。すごいという言葉はそんなにしばしば使うものではないが、この年と言うのを差し引いても世界的な快挙だろう。こんな人が日本にいたのだ。世界各国では世界一周ヨットマンは尊敬に値する人だ。外国では数々の賞を受けているが、日本での受賞は初めて。

 わが国では堀江謙一さんが初めて太平洋を横断してサンフランシスコに到着したときに、新聞は「密出国の若者がアメリカに到着」という見出しだった。しかしアメリカの新聞は「世界的快挙、日本の若者がヨットで太平洋横断」と報じた。まさに開拓者アメリカのスピリットを持った英雄と称えた。日本のマスコミは手のひらを返したように「密出国の若者から新しい時代の英雄」になった。探検冒険に対して、日本国は理解がない。私はこの時からマスコミと言うのは何だ、自分の判断がないじゃないかと批判的になった。

 斎藤さんの快挙に対して、日本のマスコミは冷淡だ、というよりも知らないのだろう。マスコミはもう少し、触手を敏感にしてこんな情報を探るべきだろう。今回はじっくり斎藤さんと話をすることができた。共通の話題がないので、私の友人で横浜ヨットクラブのYOKO田くんや教え子でアメリカンズカップのニュージーランド艇にのっていたKATORIくんのことなどを話題にして話をした。自分が大したことがないと、ついつい虎の威を借りて、話題づくりをしてしまう。YOKOTAくん、KATORIくん、ごめん、ありがとう。
 
   
・・・・「単独世界一周レースの最高峰であるBOC、現在アラウンド・アロ‐ン(Around Alone)に3回出場し、日本で、最も世界の海を航海しているヨットマン。総航海距離24万海里以上。ヨット人口の少ない日本では無名だが、1998‐9年第6回アランド・アローンレース終了時の表彰式で欧米のヨット界は彼に「スピリット・オブ・アラウンド・アローン」の称号を与えた。60歳を越えて単独世界一周レースに3回も挑戦し、過酷なレースで多くの挑戦者がリタイヤする中、全てのレースを完走した。そのチャレンジ・スピリットは高く評価された。」・・・・今回の西回り単独無寄港世界一周に出る前の斎藤さんのプロフィール。
下の写真はチャレンジ8 ゴールの時。酒呑童子Uの船体はかなりの損傷  チャレンジ8のホームページから
   
   
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植村直己冒険館のある豊岡市はコウノトリでも有名だ。
コウノトリが住める環境を作ってきた。

 
 授賞式の後、豊岡の自慢のコウノトリの営巣地を見に行った。最近はトキの繁殖で、ちょっとかすんだ感もあるが、こちらは絶滅したコウノトリを地域ぐるみで復活させたことで知られる。まずコウノトリが住める環境づくり、例えば無農薬の水田耕作、稲刈り後も水田には水をはるなど地域が一丸となって環境整備をしたおかげで、ただ今150羽のコウノトリが育っている。豊岡以外でも越前市(武生)などでもコウノトリが育っているそうだ。
 
 コウノトリの放鳥のときに秋篠宮夫妻が立ち会った。そのあと秋篠宮家に長男が生まれた。まさにコウノトリが将来の日本の天皇さんを運んできてくれたのだ。そういえばあの時には、パンダの獣医さんだった増井光子さんが豊岡のコウノトリ館の館長さんをしておられた。その昔たぶん1983年ごろ日本で初めての100kmウルトラマラソンで入賞を争ったことがある。増井さんはその後ヨーロッパでの馬術の耐久レースのさなかに亡くなられた。こちらはコウノトリの御利益はなかったのかな。

 コウノトリは電信柱に巣を作っていたが、いまは高い巣塔を人工的に作ってある。そのうちの相当の塔の上の巣ではひながかえっているそうだ。係りの方に案内していただき、ホテルの屋上から見た巣には3羽のひなが元気よく立ちあがっていた。間もなく巣立ちだろう。もう一か所は塔の上には2羽のひながおり、下の田んぼに親鳥がすっくとたっていた。かなり大きな鳥だ。羽を広げればその大きさは、鶴ぐらいにはなりそうだが、残念ながら飛ぶ姿は見ることができなかった。近くの田んぼにはシラサギがいるが、コウノトリの半分にもならない。立派なとりだ。増えたといってもまだ150羽(飼育されているのが100羽、野外にいるのが50羽ほど??)。復活したといえるまでにはまだ地道な努力がなされなければならないだろう。地元の皆さんがんばってください。 
   
   
   
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日本のジオパーク 玄武洞
  冒険賞授賞式の後、冒険館のさらに奥の但馬ドーム近くにあるブルーリッジホテルに泊まった。そこで再び斎藤さんを囲んだ二次会。市長秘蔵のこうのとり米で作ったお酒をいただいた。翌朝は江原駅まで送ってもらい、8時4分の普通列車で豊岡まで。本日の予定は「ジオパーク」に選ばれている玄武洞見学。地図を見ると玄武洞という駅はあるのだが、玄武洞そのものは円山川の対岸にある。船で渡るとのことなので、列車はあきらめる。土日曜日のバスはない。タクシーはよほどのことがない限り乗りたくない・・・・・。ということでちゃりんこ。円山川の堤防を5キロほど走ると、広い平野から川幅が急に狭まる場所が見えてくる。この川は下流に平野が広がるのではなく、中流部に平野は広がり、海への出口あたりで急に山が迫る。

 玄武洞の場所で巾着状になっているので、大雨が降ったりすると狭隘(きょうあい)部がダムになり、平野は湖状態になる。数年前円山川は氾濫して、バス屋根にのって助けを求めていた衝撃的な映像が思い出される。その狭隘部を作っているのが大昔に噴火した火山から流れ出した溶岩だ。その溶岩はケイ酸分が少なく、流れやすいのでこのあたり一帯の山を作っている。ケイ酸分が少ないのは鉄分が多いということ。そのために黒色、褐色をした玄武岩になる。玄武岩や安山岩などマグマが冷え固まった岩石は急激に冷えると、収縮してひび割れる。板状に割れたり柱状になったりする。ここ玄武洞では五角形の柱状に割れた様子が見られる。冷えるときにできる割れ目を節理というが、ここではみごとな柱状節理がみられる。
もともとは石切場だったが、あまりにも見事な景観なので「天然記念物」に指定され、さらに2009年に日本ジオパークに認定され、マスコットキャラクターの玄さんもあらわれた。江戸時代にはすでに「玄武洞」と名付けられていたが、明治になって地質学者の小藤文太郎がこの石に「玄武岩」という名前を付けた。・・・・その昔は何とよんでいたんだろうか??・・・・。

 さらにここ玄武洞は地質学の発展に多大な貢献をしている。昭和初年に京大の松山基範が地磁気の逆転をここで見つけたのだ。玄武岩は鉄分が多いので磁石になりやすい。磁石のNS極は、マグマが固まった時代の地磁気の方向を示している。松山さんが玄武洞で測ったら、現在のNSの方向とは逆の方向を示したのだ。つまり玄武洞ができた160万年前に方位磁石があれば、今とは逆を指示していたことになる。これは大変重要な発見で、その後の大陸移動説への証拠につながるのだ。例えば南米とアフリカはかつては繋がっていたとされる。両大陸にある玄武岩の地磁気を調べると、今はばらばらの方向を指し示すのだが、大西洋を狭めて両者をくっつけると、両大陸のその時代の地磁気の方向は一致する。いまはプレート説としてまとめられているが、その証拠の地磁気の移動説はこの玄武洞にはじまったのだ。私も・・・・と思って磁石を持って行ったが、このレベルの測定ではなにも見つけることは出来なかった。まあ当然と言えば当然なのだが・・・・。でもこのクリノメーターを譲ってくれた森崎くん、ありがとう。
 もともとは石切場だったが、あまりにも見事な景観なので「天然記念物」に指定され、さらに2009年に日本ジオパークに認定され、マスコットキャラクターの玄さんもあらわれた。江戸時代にはすでに「玄武洞」と名付けられていたが、明治になって地質学者の小藤文太郎がこの石に「玄武岩」という名前を付けた。・・・・その昔は何とよんでいたんだろうか??・・・・。

 さらにここ玄武洞は地質学の発展に多大な貢献をしている。昭和初年に京大の松山基範が地磁気の逆転をここで見つけたのだ。玄武岩は鉄分が多いので磁石になりやすい。磁石のNS極は、マグマが固まった時代の地磁気の方向を示している。松山さんが玄武洞で測ったら、現在のNSの方向とは逆の方向を示したのだ。つまり玄武洞ができた160万年前に方位磁石があれば、今とは逆を指示していたことになる。これは大変重要な発見で、その後の大陸移動説への証拠につながるのだ。例えば南米とアフリカはかつては繋がっていたとされる。両大陸にある玄武岩の地磁気を調べると、今はばらばらの方向を指し示すのだが、大西洋を狭めて両者をくっつけると、両大陸のその時代の地磁気の方向は一致する。いまはプレート説としてまとめられているが、その証拠の地磁気の移動説はこの玄武洞にはじまったのだ。私も・・・・と思って磁石を持って行ったが、このレベルの測定ではなにも見つけることは出来なかった。まあ当然と言えば当然なのだが・・・・。でもこのクリノメーターを譲ってくれた森崎くん、ありがとう。
   
 

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