ウズベキスタン旅行1

 ウズベキスタンと言うよりも私たち年代の人間には「サマルカンド」という方がよくわかる。1980年代にNHKでシルクロードの放映があり石坂浩二の語りと喜多朗の音楽が流れるとテレビの前に家族も集まってきた。サントリーオールドのCMも夢街道シルクロードだった。実際の放映はカシュガルまでだったがさらにその先にタシュケント、サマルカンドなどのオアシス都市につながっていることがたびたび話題になっていた。いつか行ってみたいと思っていたが1991年の独立まではソ連邦の国でなかなかいくことはできなかった。喜多朗のシルクロード(YouTube)

コロナ禍が一段落したのでどこか海外へと思った時に真っ先に浮かんだのがサマルカンドだった。もう個人で行くのは難しいのでツアーを調べたらタシュケントまでの直行便があるという。「それ!」とばかりに申し込んだ。もう傘寿だという年も考えずに。かなりきつい旅になりそうで、出発前は心配になった。

飛行ルートは成田を出ると能登半島からほぼ真西に向かってソウル上空、北京上空を飛んでいく。きりのないほど広い砂漠の中を飛んでいくと天山の山々が出てきた。このルートを2002年に中山嘉太郎さんは単独で走ってトルコまで抜けた。どんな気持ちがあればこんな砂漠を走ることができるのか。雪山を超えるとすぐに大きな町が出てきた。

中央アジアでは一番の大都市であるタシュケント(石の街)はソ連邦の直轄地でモスクワ、レニングラードにつぐ大都市であったが、独立後はロシア人は引き上げ今はウズベキスタン人の街である。若い人たちの間ではロシア語はまったく通じなくなっている。1966年大地震にあって日干し煉瓦の町は壊滅したが、直ちにロシアはコンクリートのアパートを何棟もたてて復興を果たした。その後ロシア人は出て行ったが、まさにロシアの街のようである。マックもケンタッキーもセブンイレブンなどアメリカ、日本の影はない。世界中どこに行ってもあるはずの中国料理の姿もない。トルコ航空だけが空港にいた。ウズベク語はトルコ語系なのである。

成田を午前11時に出てタシケントには午後4時に着いた。時差は4時間だから東京時間は午後8時。直行便でも9時間かかることになる。早速夕食とホテルへ。おいしそうなスープ肉料理、初日にちょっと食べすぎたのであとがきつくなった。何事も適度が肝心なのだが、出だしから食に、目がくらんだ。

初日は最上級のウズベキスタンホテルに泊まるだけで、翌日はやくウルゲンチ空港に飛ぶ。タシュケント市街見学は帰る日に回すことになっているので、早々に寝た。

ウズベキスタン旅行2:ホレズム王国遺跡

タシュケント空港から2時間ほど国内線で飛んでウルゲンチという町に飛んだ。目の下にはキジルクム砂漠が広がる。見たことがない風景が広がっており興味深い。この地形を見ただけでも中央アジアに来たかいがある。中山嘉太郎はこんなところをどうやって走って行ったのだろう。川の跡があるが途中で消滅している。どちらが上流かわからない。風紋のようなものができているが、これはとんでもない大きさのはずだ。黒い山、白く干上がった湖、いろいろな地形がある。

キジルクム砂漠

しばらくすると突然アムダリアの流れに出会う。水が少ないのは上流で綿花栽培などのために取水しているからだ。昔はこの流れはアラル海に注いでいた。注ぐ水がなくなってアラル海は干上がった。この地のアムダリアの流れを見れば、納得するしかない。カスピ海も同じような運命を遂げるのか??カラカルパクスタン自治共和国

バスはウルゲンチ空港からアムダリア(アム川)を渡った。ここからカラカルパクスタンですとガイドさんが言う。よく聞くとウズベキスタンの中にある自治共和国で、アラル海の河岸にあった地域だという。今はアラル海が干上がり漁業もできなくなり町も人もいなくなったという。

門があるだけで通行は自由のようだが、人々の生活水準にはちょっと差があるような気配はあるが、詳しく見ていないので雰囲気だけである。

ウルゲンチからバスで2時間ほどのところに、古代遺跡がある。ゾロアスター教の人々が住んでいた地区だった。ゾロアスター教(拝火教)はイランの宗教のように思えるが始祖はウズベキスタンの人だそうだ。

トップラクカラ
こんな砂漠の中に紀元前からのホレズム王国の城の遺跡がある。ゾロアスター教の人々が住んでいた場所だ。城の周りは何重もの土塀でかこまれていたという。このスタイルは今も続いている。これから行くヒヴァは現在も土塀に囲まれているそうだ。かなりきつい行程だったが、この遺跡に来たことは意義深かった。

アヤズカラ(古城)
トプラクカラからバスで1時間ほど砂漠の中の道をとおって別の遺跡に行く。ここもホレズム王国の軍の駐屯地だったという。周囲を土塁で囲まれた空間が広がっている。目の下に出城の一つが見える。城の壁は10mほどの高さだが30mの丘の上にあるので砂の中の登山になる。お疲れの奥さんを置いていこうと思っていたが、頑張って登るというので上がっていったが、ツアーのメンバーの皆さんには後れを取った。年には勝てないなあ。写真のように結構な登りです。

城の上は下3枚の写真のような広場!ここに都市があったという。後で行ったヒバの場内よりも広いのではないかと思った。ここに数万人が住んでいたというが、ほんどうだろうか?ちょっと疑問だが、ともかく紀元前から町が形成されており、その繁栄をアレキサンダー大王軍が打ち破ったのだ。

この遺跡の手前にテントがある。モンゴルではゲルだが、ここでは「ユルタ」という。中国ではパオだったかな? 中は広くクーラーもあり食事ができるようになっている。しかし水や電気はどこからくるのか??我らはここでお昼を頂くことになった。きゅうりトマトなど野菜が多く出てきたのには驚いた。

このツアーは「青の都」がテーマだったのでこんな古代遺跡を訪れるとは思っていなかった。おかげでこの地域の歴史に大いに関心が持てるようになった。

紀元前4世紀といえばアレキサンダー大王が東征をおこないヘレニズム文化が広がった時代なのだ。アレキサンダー大王はサマルカンドまで来ていた。こんなとこまで来たことは知らなかった。古代ギリシャだけが文明世界ではなかったのだ!

ウズベキスタン旅行3:ヒヴァ

世界遺産:ヒヴァウルゲンチの町を挟んで古代遺跡と反対側にヒヴァの町がある。私たちはバスで行ったがウルゲンチからはトロリーバスが連絡している。30分ほどで土塁の城壁に囲まれたヒヴァの町に着く。城壁の中は「イチャンカラ」(城内)とよび、数多くの神学校(メドレッセ)やモスクが所狭しと立ち並んでいる。1990年、ウズベキスタンで最初の世界遺産になった。

私たちのホテルは城の西門の真ん前にあるので着くとすぐに場内に入りライトアップされた建物を見学した。入場料は150000スム(2000円)である。15万スムと言われると「高い!」と思うがこちらは超インフレ。狭い城内には土産物屋が並びその間をヨーロッパ系の観光客が大勢歩いている。日本で見るような中国人観光客が全くいないのはどうしてだろう。この街には中華料理屋もない。中国との縁が薄い国のようだ。

もともとは小さな村だったが16世紀、アムダリア川の流れが変わりヒヴァは水の豊かな街になった。ここには奴隷市場ができ、おおくの労働力と富が集まった。その財力で狭い城内に20のモスク20の神学校6基のミナレットが建てられた。

下左はイスラムホジャミナレット(45m)で登ることもできるが、私にはムリ!短いミナレットはカルタミナル(26m)。中央アジア1のミナレットを作るはずだったがアミンハーンが亡くなったのでこの高さで中断した。右は名前を聞いたが忘れた。

1876年、帝政ロシアは奴隷解放を名目にヒヴァハン国を攻撃した。その時に解放された奴隷は3万人、うち5千人がロシア人だったという。帝政ロシアは中央アジアに侵略し植民地化していった。各都市は破壊されたが、なぜかヒヴァのイチャンカレだけは無傷で残った。中央アジアで昔の姿が残る城塞都市はヒヴァだけであるという。

ソ連は宗教を嫌ったため神学校やモスクは破壊されたりした。このメドレッセ(神学校)は一番格式のある学校だったが閉鎖され、ホテルへ生まれ変わった。神学生の住む部屋はホテルの部屋にちょうど良かったのだろう。見学可能だったので部屋も見せてもらった。ここで神学生は学んでいたのだろうが、今の時代神学校はどうなっているのだろうか。

翌日の夕方レストランで日が沈むのを見ながら夕食! 緑色の香草を練り込んだスパゲッティがヒヴァの名物という。ここでつい食べ過ぎて、翌日からおなかの具合が悪くなった。楽しくおいしく食べたのはこの日だけで後は様子を見ながらと言うことになった。ちょうどよく食べるというのは難しい。

一日泊まっただけで次に移動したが、考えどころは多かった。

まずカラカルパクスタンと言う憲法を持つ国がウズベキスタン国内部にあることに驚き。

カラカレパクスタンの北半分はアラル海だったが干上がって現在は作物もできない塩ノ原になっている。綿花畑を作るためにアムダリア川の水が採られたためで、カラカレパクスタンの国力は一気に下がりウズベキスタンに取り込まれた。

ヒヴァのイスラム教施設がよくもまあ残っていたなあという驚き。中央アジアを席巻したのはチンギスハンをはじめ諸将はみな都市を破壊しつくした。青の都のサマルカンドもしかりである。

しかしここはほとんどの施設がそのまま残っている。ソ連もこの素晴らしさには手を付けられなかったのだろうか。色々考えるテーマができた。

もう少し反芻する時間が欲しいが、ツアーは非情。夜のヒコーキでブハラに向かう。第2日目終了。

ウズベキスタン旅行4:ブハラ

4:ブハラ(ウズベキスタンの奈良かな?)
 ウズベキスタンの首都タシケントを東京とすれば前の都サマルカンドは京都、さらなる古都のブハラは奈良に当てはまるかもしれない。ブハラの歴史は紀元前からソグド人らが小集落をつくっていた。709年のアラブの侵入以降は様々な王朝の支配下にはいり交易の町として繁栄していたが1220年ジンギスカンが侵入し町は焼かれ人々は皆殺しになった。廃墟を残してジンギスカン軍はサマルカンドに向かいそこも壊滅させた。サマルカンドは全く何も残らないまで破壊されたが、ブハラは少しだけ全盛期の建物が残りそこを中心に16世紀になって町は復活をした。昨日と言うよりも日が変わった真夜中、ウルゲンチからヒコーキでブルサについた。このツアーは交通の関係もあるがかなり過酷な日程になっている。事前にもらった日程表では出発が早朝、ホテル着が夕方などとなっており時刻は書いていなかった。昨日も夜にホテル着ということだったが深夜になった。それでも皆さん頑張って行動をしているが、年長者の我が家はもう限界に近い。ブルサでは連泊することになっているので私たちはこの日自主的に休養ということにした。離脱届を提出しバスで出発する皆を見送りもいちどベッドに戻った。

しかし10時ごろになると、せっかく来たんだから少しだけ観光に行こうよと言うことになり中心街に出かけることにした。町中までタクシー代は10000スム、150円ほどだ。なんか間違えているのではないかと思ったが運転手はOKと言う。おろされたのはラビハウズという場所。ハウズは四角い人工の池の意味だという。砂漠の中で水は貴重。水辺を中心に街は開けるのだろう。さっそく街歩き開始。

イスタンブールやダマスカスのバザールをイメージしていたがここはキャラバンサライ(隊商宿)や神学校などの建物を利用したもので長く店が並んでいるわけではない。ハサミなどの刃物類、絨毯、金属のポットなど細工物が多い。細密画の店もある。奥さんはお皿を買いたいらしいがまだ先は長い。重たいものを背負わされるのはきついので買い物厳禁!見て回るだけにした。

バザールを抜けたところにブハラで一番のカラーンモスクとミナレットがあった。1万人の人が礼拝できる巨大なモスクである。チンギスハンの破壊の程度が低かったものを16世紀になって復元したそうだ。「ハイつきにいきましょう!」ではなく、休養中の私たちはここでゆっくりイスラムモスクの偉大さを味わうことができた。と思っていたら朝バスで出た我がツアーの仲間にであった。「どうして?なんでここにいるの?」と不思議がられた。添乗員さんには申し訳ないが、かってに歩くのは気楽でいい。いい休養ができて明日からの過酷ツアーに復帰できそうだ。

あまりにもゆっくりしすぎてアルク城など有名なところを見なかったのは少々心残りだが、体調が回復したことでOKとしよう。ホテルに戻ってしばらくすると一行が戻ってきた。このあと民族舞踊ショーを見ながら食事だそうだ。私たちも復帰することにした。舞踊ショーの場所は私たちがタクシーで降りたラビハウズのメドレッセの中庭だった。どの神学校もモスクも観光用に供用されているのはちょっと不思議だ。

下の写真をクリックすると動画につながります。

ウズベキスタン旅行5:シャフリサブス

5.ティムールの故郷 シャフリサブス
ジンギスカンは中央アジアの都市を徹底的に破壊したが、ティムールは廃墟を復活させ大帝国を作り上げたウズベキスタンの大英雄である。生まれ故郷はブハラとサマルカンドの間にあるシャフリサブスである。最初ティムールはシャフリサブスを首都とし、巨大なアクサライ宮殿を作った。しかしこの地は交通不便であったので彼は首都をサマルカンドに移した。シャフリサブスはいまは人口5万人の小さな町だが、特別に大きなティムール像と超巨大な宮殿の門、ティムールの墓があり世界遺産に登録された世界的な観光地として整備されている。この朝、バスでブハラのホテルを出た。昨日休養を取ったので少しは回復した。バスの窓から中山嘉太郎さんが走った道路を見る。彼の話のように綿花畑が広がり道端ではスイカ、メロンを売る人々がいる。小さなチャイハナが点々とある。中国の沙漠地たち違って人々の姿が濃いようだ。この道ならば中山さんなら楽しく走って行けたかもしれない。しかし政治状況はバスの中からはわからないので警官とのいざこざは常にあったようだ。私は「よく走って行ったなぁ!」と感心するしかない。今は10月の半ばで暑さは半減しているが、綿花摘みの作業は重労働だろう。広い綿花畑、この作業はいつ終わるのだろう。この畑の脇には灌漑用の水路がついているがそのそばに黄色い(錆びているが)パイプラインが通っている。これは天然ガスの供給用のパイプで、村の家々にもガスがいきわたっている。この国は資源大国でもあるのだ。しばらくバスの窓から道路わきを観察しながらうとうとする。

ティムールについて
ティムールは1336年にシャフリサブス近郊で生まれた。チャガタイハン国の内乱に乗じてのし上がりチンギスハンの一族の女性を奥さんにして「ハン家の婿」という立場で実権を握った。1370年のことであり、この年をティムール朝の成立とする。ティムールはサマルカンドを首都として再構築した。そしてチンギスハンの事業の再現をかかげてイラン、ロシアに遠征し、さらにインドにも侵入した。デリーを占領し捕虜10万人を殺戮した。膨大な戦利品と有能な職人、技術者を多数連行しサマルカンドのモスクなどの造営にあたらせた。さらに1400年にはシリアに侵攻しダマスカスを破壊、アンカラの戦いでオスマン帝国のバヤジット1世を破った。アンカラの戦いからすぐに軍を中国に向かわせた。明の永楽帝との戦いになるところだったが、1405年遠征の途中で酒を飲みすぎて没した。墓所はサマルカンドのグルアミール廟である。ティムールは生涯「ハン」ではなくアミール(指導者)だった。ティムールの宮殿の奥に見事なネギ坊主のドームを持つモスクがある。中に入るとすばらしい彫刻がある。しばらくそこで落ち着きたくなるようなモスクである。瞑想のモスクと言われるとのことだ。ティムールの墓はサマルカンドにあるが彼は死後は故郷のシャフリサブスに葬られたいと墓所を作っていた。その場所は今は地元の男たちの礼拝の場所になっている。シャフリサブスからサマルカンドまで80キロある。高速道路があれば1時間ぐらいだが、途中に2000mもの山がありそれを越えなければつかない。3時にバスに乗ったがサマルカンド郊外に着くころには真っ暗になった。おそらく3時間はかかったことだろう。ホテルはレギスタン広場のすぐ裏だったのでライトアップしたメドレッセを見ることができた。ちょっとやりすぎのライトショーだった。今日もつかれた、一日を反芻する間もなくベッドに入ると爆睡だった。

ウズベキスタン旅行6:サマルカンド

今回の旅のハイライト「青の都」サマルカンドである。吉田拓郎の曲に
サマルカンドブルー」ってのがある。私たちの時代シルクロードとか胡人なんてのが人々の会話の中にも上がっていたのだ。青くなっているところをクリックするとサマルカンドの音が聞こえてきますよ!この地図を見てもサマルカンドは天山山脈の支尾根から流れ出る川に沿いブハラの間にある砂漠との間と言う好位置にあることがわかる。中央アジアの乾燥地帯にありながら水には恵まれていたのだろう。中国のオアシス都市を結んできたシルクロードはサマルカンドでイラントルコに続く平原に出るのだ。この地はソグド人(胡人)の商人たちが都市を作り貿易で大いに栄えていた。
紀元前4世紀マケドニアからやってきたアレキサンダー大王に支配されたこともある。この地に中央アジア人とギリシャ人文化が融合したへレニズム文化が花開いた。しかし大いに繁栄したソグドの国は13世紀モンゴルからやってきたチンギスハンによって何物も残らない廃墟になりソグドの人々は殺された。ほんの数%の人が各地に散らばって行った。その後ティムールによって町は再建されたがその時にはすでにソグド人はおらずゾロアスター教もなくなり、チュルク系のイスラム教徒が支配することになった。この3つの建物が「青のサマルカンド」を象徴している。真ん中の広場はレギスタン広場と呼ばれている。私は「レジスタン」だとばかり思っていたが「砂の土地」と言う意味だそうだ。昔のサマルカンドは少し離れた土の高台にあったが、ティムールのサマルカンドは川が運んだ砂のある低地だったということらしい。

ウルグベク・メドレッセこれは360度カメラで撮ったウルグベク神学校(正面左)のは内部の博物館だ。ウルグベクはティムールの孫でサマルカンドの繁栄を築いた。さらに彼は世界でも例のない大きさの天文台を作った学者でもあった。この建物の天井には彼らの星座が描かれている。

左上の写真が今回のもの。後は古い写真と絵画である。ちょっと短めのミナレットは本来もっと高かったことが絵画からわかる。倒れそうだったミナレットを縄で引っ張って元の位置に直したこともわかる。現在でもそれぞれの塔はまっすぐ立っているわけではない。

シェルドル メドレッセ

右側のシェルドル神学校(メドレッセ)の内部である。まさに宝石をちりばめたような美しさ。ずっと眺めていたい感じである。この部屋ごとにイスラムの神学生が住んで学んでいたのだ。しかしソ連のころは神学校はすべて廃止され現在は土産物店が内部にひしめいている。

この広場はシルクロードを行く隊商が通っていた。その様子が描かれている。広場の真ん中には昔は池があったらしい。ところでこの門の上にライオン?トラ?が描かれている。イスラム教は生きているものを描くことはご法度である。アラブ人が入ってきたときに教義に反すると怒った。しかしトラの首は切り離されており、人の顔に見えるのは太陽である、と抗弁した。太陽はゾロアスター教の影響を残そうとした職人の仕業であったというが真相はわからない。しかし偶像を描いた門はここだけだという。ティムール朝のイスラムとアラブのイスラムの違いは今も残っているようだ。

ティラカリメドレッセこれは正面に立つティラカリメドレッセの内部の黄金の間を360度カメラで撮ったものだ。このメドレッセは変な門を作ったことを詫びて王様が謝罪のために作ったものだそうだ。今では正面にあり中心建物のようだが一番最後にできた神学校である。

現在は建物の左手に緑色のネギ坊主(ドーム)があるは古い写真には青いドームはない。最近作ったことがわかる。ここも隊商の宿になっていた時期もあるらしい。いまは建物内まで土産物屋である。ところで横から見るとミナレットはだいぶ傾いているなぁ!「サマルカンドの斜塔」で売り出すといいかも!

ビビハヌム モスク
サマルカンドはティムールの帝国の首都である。ここに彼を象徴する巨大なモスクが建設された。彼がインドに遠征している間に第一夫人のビビハヌム妃が指揮をして建てたと言われるモスクだ。レギスタン広場と旧サマルカンドのシャーヒズンダ廟の間にある。このモスクの中は広くすばらしいがまだ復元工事中である。

グリアミール廟
まだまだ見どころがあるけど、もう一つだけ。それはティムールの墓所、グリアミール廟である。彼は故郷に埋葬されたかったが1405年に急死したため、戦死した孫のために作った墓所に秘密裏に埋葬された。私が見たサマルカンドの廟、神学校、モスクの中で最も青が美しい場所だった。バザールなど
サマルカンドではイスラム建築だけの写真を撮っていたわけではないが結果的には、ほとんどがメドレッセやモスク、廟の写真だった。人の写真もバザールの写真も撮っている。ほんの少し載せておこう。

サマルカンドで秋を見た!
明日はタシケント、もうイスラム建築は見ることができないが、まあ十分に堪能した。あまり気にしていなかったが木々の葉は紅葉していた。2023年の黄葉はサマルカンドだと記憶に残るだろうな。

ウズベキスタン旅行7最終章:タシケント

タシケントがウズベキスタンの首都である。これまで見たイスラム教の観光都市とは全く違って生産、流通、教育などすべてをもつ近代都市である。1966年に大地震があり古い隊商都市の建物がすべて壊れた。ソ連邦の大都市であったためにロシアが威信をかけて復興がなされた。街はロシア風に生まれ変わった。サマルカンドなどで見るイスラム建築はほとんどなく東京タワーよりも高いテレビ塔があり近代的ホテルがたち中央アジアではめずらしく地下鉄が走っている。

中央アジアの乾燥地だがタシュケントは水に恵まれている。それを誇るかのように各地に噴水が作られている。ちょっともったいない気がするが豊かさの象徴なのだろう。

今タシュケントの人口は260万人いるという。昔はロシア人が70%近くいたが、1991年のソ連崩壊以降はロシア人は15%以下になっている。街の看板などの表記はウズベク語(ローマ字表記)、ロシア語(キリル文字)、英語などである。ウズベク語はトルコ語とよく似ており、私も少し理解ができる。真ん中の写真の文字はウズベク語、O’Z はウズベキスタンの「ウ」=「Ö」、 havo yollari はトルコ語では hava yollari(点のないi) で空港のことだ。中山さんはロシア語が通じなかったと言っていたが、2001年当時はソ連から離れたばかりでワザとロシア語を使わなかったのかもしれない。

中山さんはタシュケントでおいしい「ポロウ」を食べたと言っていた。ガイドブックには「プロフ」と書いてある。耳で聞けば中山さんの方が正しいのだろうなぁ。タシケントのプロフレストランには驚いた。五右衛門ぶろで作っている感じ。

日本人墓地
タシケントには日本人墓地がある。第二次大戦の終了間際、突然参戦したソ連は満州にいた何十万の日本軍人を捕虜にして、労働力としてシベリアの各地に送った。もちろん国際法違反である。ほとんどの日本人は食べ物もなく重労働、寒冷気候に耐えられず亡くなった。タシケントには2万数千人の日本人が送られた。彼らはナボイ劇場の建設などに従事させられた。生き残って帰還した人は
「シベリヤ送りになった人に比べればタシケントの人は優しくて助けられた」   という。
人々は優しかったかもしれないがソ連という国は人権に関してはまったく無茶苦茶な国だった。ロシアのプーチン大統領はそのソ連を復活したくてウクライナに侵略している。敵国の人々に対する人権などお構いなしというのは今も同じだ。
いま日本人墓地はウクライナの篤志家の方々によって守られており日本政府も力を入れているのできれいに整備されている。私たちもしっかりと抑留者の思いを受け止めて来た。

2001年にシルクロードを走った中山さんの話ではウズベキスタンでは一番沢山検問を受け不愉快だったという。中には警官だとだましてわいろを要求する輩もいたとか。彼らの顔は日本人によく似ていたと書いている。今回私たちは中山さんのような地元の人たちとの付き合いはできなかったが彼らの暮らしを少しは眺めることができた。20年前とは違ってウズベックの皆さんは穏やかになっていると思った。その背景には恵まれた地下資源を使って近代化を図っている結果ができているからだろう。日本人と似た人も多いがやはり西域という感じはする。

今はタシュケントでも観光客は珍しくないのだろう。我々日本人がウロウロしていても興味深く寄ってくる人は少ない。時々背中に「鬼滅の刃」のイラストを描いたTシャツを見せに来る若者もいたが町中には日本の影、トヨタやホンダの車はほとんどない。お隣の韓国は大韓航空が来ていることもあって日本よりも親しみを持たれているようだ。
日本国とは違って圧倒的に影響力があるのはトルコ国のようだ。空港にはトルコ航空の赤いマークが見える。聞くところによればトルコ語とウズベク語は方言のようなものでお互いにすぐに通じるという。トルコ国はソ連邦を離れた中央アジアの国と縁を深めようと様々な交流をしている。中国の一帯一路のように汎トルコルートを作ろうとしているようだ。
トルコとはよい関係のようだが、中国とはどうなんだろう? ウズベキスタン料理に飽きた私たちは中華料理を食べたいと思ったがタシケントの町中には中国料理店はなかった。そのことはある程度の中国との関係の推測の役に立つかもしれない。

今回のツアーでは仏教伝来のシルクロードに接する機会はなかった。どこかで三蔵法師に会わないかと思っていたが、仏教遺跡があるのは北側のフェルガナ盆地、最南部のアムダリア(川)のほとりのテルメズという町であった。残念ながら私たちの体力ではもうそこへ行くことはできそうもない。寂しいが仕方がない。
しかし文化人類学者の加藤九祚さんは91歳で亡くなるまでテルメズで仏教遺跡の発掘を続けていた。なんだ私たちの年齢の11年も先ではないか。もしかするとテルメズで三蔵法師に会えるかもしれないな。

2023年 ウズベキスタン紀行 終了!

 

 

金婚旅行!

我が夫婦は昨年の11月で結婚50周年を迎えた。 金婚式を祝うはずだったが、母が大腿骨折し入院を繰り返した。昨年の正月には年賀状を書いたりパーマをかけに行くなど普通の生活を送っていたが一気に100歳の年齢相応の介護度5になった。皆さんのアドバイスのおかげで我が家から徒歩3分の特養に入ることができた。最初は毎日食事手伝に行ったが、安心したので母は自分で食事ができるようになった。2,3日行かなくても騒がなくなった。安心して特養の方々にお願いできるようになった。

私も安心して金婚旅行に行けるようになった。我家の新婚旅行は1970年万博の年ボルネオ島のキナバル山に行った。ヒルのいるジャングルや4000mを越える高度を考えると夢よもう一度というわけにはいかない。そこで40年前に子づれで初めて行った台湾に行くことにした。その時に圓山ホテルに泊まったが今回また行ってみようと考えた。40年前、貧乏時代にあの高級ホテルによく泊まれたなあと思う。今でも金婚旅行でなければとても泊まれない。

24日は旧暦の大晦日25日は新年だった。考えなしだったが南部の高雄で暑い新年風景を体験できたことは面白かった。高雄は日本統治時代の名残が多く残っている。ハマセンという場所は昔の浜線が走っていたところ。そこに2017年に新しいトラムが開通した。なかなかいい。日本の地方都市にはこんなトラムが走ったらいいのになあ。富山、高岡にあるが規模はこちらの方が大きい。

翌日台中に行ったが途中とんでもなく珍しい田寮月世界(バッドランド)を体験することができた。カナダのカルガリーや四国の土柱も似た風景だ。厚く堆積した泥岩層が強い雨によって浸食されて多くの谷ができたものだ。これだけ侵食が速いといずれは平らな平地になってしまうだろう。

ところで海底にたまった泥岩層は褶曲して地表にあらわれたものだ。褶曲の背斜部分には石油やガスがたまる。実はこのすぐ近くに背斜構造(ドーム)にたまったガスが噴き出した泥火山地形があると聞いた。時間がなくて行けなかったがもしまた来る時にはぜひ行って見たい場所だ。

高雄で新年(春節)を迎えた。商店はみな休みだったが初詣の場所は賑わっていた。私たちも多発詣での真似事。すばらしくキンキラのお寺だった。私の好みの狛犬もいた。中国の狛犬は阿吽にはなっていない。阿吽は日本の特徴。

台中ではちょっと奇をてらってSOFホテルに予約をしておいた。

奥様が喜ぶかと思ったが、雨が強いしバッドランドでは2万歩も歩かされたりして機嫌が悪くなっていた。そんな時にこのホテルは間が悪かった。怒り心頭、「なんでこんなホテル予約したのよ!別のホテルに行く!」今話題の廃墟ホテルだ。外側はボロボロ、でも中はシンプルライフでいい感じなんだが、いったん怒り出したらもう大変。何とかなだめたが、夕食も食べずに寝てしまった。こりゃまずかった。

翌日は再び圓山大飯店。お正月の賑わいがあった。さらに故宮博物館もゆっくり鑑賞してやっと機嫌は直った。しかし本日も歩き回って2万歩を越えた。ガイドさんを雇えば効率的には見て回れるのだが、自分の足で歩きながら面白そうなところを見つけるというのが私のスタイル。今さらツアーには入りたくない。しかし奥さんは「もう年なんだからツアーに入ろう」というのだが・・・

今回台北に行った理由はもう一つあった。1昨年お遍路の途中で台湾の同年齢の女性に出会って住所交換をしていた。その方に会いに行くことも目的だった。電話は通じないので住所を頼りに探したら繁華街の真ん中のビルに住むお金持ちだった。とても喜んでくれごちそうになった。

歩き旅はいい出会いがこれまでも何回もあった。これがあるから旅はやめられない。ツアーじゃダメだろうといまだに私は思っているのだが。5日間で10万歩を越えた。お遍路さん並みだった。奥様、よく耐えたなあといろいろ感謝している。27日夜に無事帰国。日本国はコロナウイルスで大変なことになっていた。

 

上海に行ってました!

長いことブログを更新しなかったので、皆さんにご心配をかけました。すみません。しかしこれは私のせいではなく、中国政府が通信をブロックしているからです。といいわけをしておきます。

中国に行った人は、FacebookやGmail、Lineはまったく通じないことを実感されたことでしょう。通じるのはWeChat と呼ばれるLineと同じ通信方法です。値段は高いけど電話は普通にかけることはできます。

現地にいる人やビジネスマンはどうするのか?? これにはちゃんと抜け穴はあるようです。現地の友人はFacebookをやっているので、私は日本からFacebookで連絡していました。しかし現地に行ってみて通jないことがわかり、連絡方法がなくなりました。ということで直接お宅に行ってみて会うことができました。

というようなことで、15日の夕方戻ってきましたので、これから前にさかのぼってブログを書いていきます。ご心配をかけて申し訳ありませんでした。

揚子江は巨大!黄浦江に入る

荒れた海をぬけると水の色が変わる。と言われたが寝ていたのでよくわからなかった。帰りのヒコーキの上から見ることができた。確かに泥色はすごい。こんなに泥を流すと陸地は消えちゃうんではないかとおもうが中国は広いし山は高い。心配しなくてもよさそうだ。揚子江に入ると船足は遅くなる。浅いのと船が多いことが原因だ。揚子江河口から上海までは6時間かかる。川岸は発電所、工業地帯が並ぶ。びっしりと貨物船が荷受けをしている。こりゃ神戸港がいくつあってもかなわないや。

小さな灯台を右手に見て、黄浦江に入っていく。大きな船がこすりそうになって近づく。遠くに見えていた栓抜きビルが右に左に移る。黄浦江は大いに蛇行している証拠だ。近くに海警の船がいる。軍艦も停まっている。写真を撮ると怒られそうな距離なので、カメラを隠す。

上海の街を海からゆっくりと見物するのはなかなかいい。いつも見ていた景色とはちょっと違う。超々高層ビルがあるが、その一つは森ビルだそうだ。昨年も同じ時期に来た。今年も桜(八重桜)が迎えてくれた。上陸後は遠くから見えていた栓抜きビルの87階でランチ。50階建てのビルがはるかに下に見える。それでもまだ高いビルがあって見上げている。

 

玄界灘は波高し!写真も撮れない!

予想通り玄界灘に出ると風雨が強まった。夜が明けたころに目の前に島が見える。GPSの地図を見ると済州島だ。北西の風のため、高い山がある済州島を風よけにしているらしい。部屋から出ると吹き飛ばされそう。とても外に出る気にはならない。昼食には10人ぐらいしか出てこない。皆部屋で横になって我慢をしているようだ。

この船の乗客が少なくても貨物で採算が取れるそうだ。その中で特徴的なのは競走馬を運んでいることだ。日本人は4人しか載っていなかったが、その一人シイナさんは競走馬を運ぶ業を長年やってるという。美浦から4頭の競走馬を専用コンテナにいれて運んでいる。そんなことができる船はこの新鑑真号だけなのだそうだ。馬も酔うのでつきっきりでえさや水を与えている。もう一人の係員の中国人はベッドにもぐりこんだまま。日本人はよく働く!

もう一人の日本人は近江八幡出身の方。小さな子を含めた中国家族と一緒だ。日本の家は処分し、会社をたたんで中国に移住するために家財道具一式を積んでいるのだそうだ。中国のどこですか? と聞くと奥さんのふるさと雲南省の保山というところ。ミャンマーの国境に近い場所だ。一番近い街が大理で、そこまで200㎞あるという。日本の先行きは危ない。家族でのんびりとド田舎町で暮らすのだそうだ。ちなみに一番近い大理には日本人が四人住んでいるが、保山に住む日本人はまだいないとのこと。「なぜこんなところに日本人が?」の番組が目をつけそうだ。この後は橋の写真を8枚。これらの橋の上を何回も行き来した。瀬戸大橋は四国遍路のたびに通ったので生き返りで10回近くは通ったろう。しまなみ海道も海宝さんのマラソンで10回走った。しかし下から見るのは初めてだった。すごい大きさだ。よくこんなものを作った。これからはメンテナンスに時間もお金もかかるだろう。

神戸から船に乗って揚子江へ

現在日本と中国の間には「新鑑真号」というフェリーが定期運航をしている。ネットで調べていると早割で一人4万円のところ2万8千円で行くことができると書いてあった。3月の6日のことだった。9日までにお金を振り込めばOKということだったので急いで5万6千円を振り込んだ。 翌日電話があって、受け付けました。とのこと。こまごまと出発場所、持ち物など教えてくれる。1万5千トンだから乗客は相当いるだろうに、皆にこんなに親切なのかといぶかった。予想通りで始発の新幹線で新神戸に行き、ポートライナーで上海行の埠頭についたが誰もいない。 目の前には巨大な世界一周の豪華客船が停泊し、大勢の乗客が入国手続きをしている。私たちはそれが終わってからとのこと。11時の出航時間近くなってやっと30人ほどになった。「こんなに客が少ないのか?」と話していたら、その方はフェリー会社の社長さんだった。「乗船いただきありがとうございます」とお礼を言われた。社長自らが送迎に出ているなんていい会社だな。 神戸を出港するとすぐに淡路島との間にかかる明石大橋をくぐる。本州と四国の間には三本の連絡橋がある。全部の写真を撮ろうと思ったが、瀬戸内海にいる間の船足は鈍い。見ていればいかに狭い海峡であるかわかる。一緒に乗り合わせた神戸在住の中国人と話をすると、揚子江は瀬戸内海よりも幅は広いという。そんな!と思ったが瀬戸内が狭いことは橋の下を通過してよくわかった。揚子江には橋は架けられないとのこと。 瀬戸大橋、しまなみ海道の来島大橋の下を通過するころには夕闇が迫ってきた。関門海峡は深夜零時過ぎだった。奥さんは起こしてくれと言っていたが、波が高く船が揺れてきたので外には出てこなかった。関門海峡を通過すると玄界灘。結構荒れるんですよと! 中国人の黄さんは言う。確かにかなり雨風が強くなってきた。急いでベットに潜り込む。

鳴砂山・月牙泉

 

敦煌は砂漠の中のオアシスだ。現在は18万人もの人が住むが、その昔は泉の周りに少しだけの人が住んでいたのだろう。そんな景色が郊外にある。鳴砂山とその間にある三日月型の泉、月牙泉だ。ここは敦煌の最高の観光地になっている。入場料が110元もする。年寄り割引はなかったが、シーズンオフだったので半額。二人で110元。 砂丘の保全なんか考えなくてもよさそうだ。砂除けのスパッツを借りて(15元)皆さんどんどん上がっていく。ここは高さが100mの砂丘だ。二人のすぐ脇に半月。なかなかいい感じに撮れた。 三日月型の池がある。この水は枯れたことがないそうだ。湖畔には道教のお寺が立っている。砂だらけの寺だ。砂漠にはラクダ。こちらのラクダはふたこぶラクダ。乗りやすい。昔は砂漠の船といわれるように荷物運びの主役だったが、いまは観光用。11月寒いのでのる人は少ない。さみしそうに帰っていった。GoogleEarthの画像から見ると、こんな場所。敦煌山荘に泊まった。こんなでかい敷地だったのだ。食事に行くのが寒くて大変だった。となりの雷音寺もでかい敷地。下のくしゃくしゃは砂丘!

 

玉門関:陽関をいずれば故人なからん

敦煌から西域に行くには二本の道がある。南の陽関をでると楼蘭をでて西域南道、あるいは漠南道をへてホータンにでてヒマラヤを超えてインドに向かう道。一方北の玉門関をでると西域北道をハミからウルムチに向かう。ウルムチからは天山北路、天山南路に分かれキジ国からカシュガルにでてさらにタジキスタンに向かう。今回は敦煌(人口18万人)から北西に100㎞ほど離れた玉門関と南西に80㎞はなれた陽関に行ってきた。数十年前なら一日がかりだったろうが、今は舗装道路が続いており1時間ちょっとで行くことができる。もちろんバスなどはないから車をチャーターする必要がある。最初に玉門関に。途中送電線が張り巡らされている場所を通った。砂漠に太陽光発電所を作り敦煌に工業団地を誘致するとのことだ。今敦煌はブドウ、アンズなど果物だけが換金作物。あとは観光収入だけだから、工業を誘致しようというが地の利は悪い。あまり望まない方がいいのでは・・・・道路の上に料金所がありその先に玉門関の立派な博物館があった。周辺にあるのはこの建物だけ。ここは万里の長城が果てるところ。3mほどの高さの壁は砂漠の中に消えている。漢の時代に作らたので「漢の長城」と呼ばれている。博物館からはシャトルバスがでており、大方盤城遺跡に行く。ここが一番の見どころだろう。粘土で固めた大きな建物は数百人が住んでいた要塞かもしれない。玉門関から陽関までほぼ100㎞を車は走る。陽関の村でお昼。壁に王維の「西出陽関無故人」の詩が書いてあった。簡体字だがまったく味わいはない。
お昼を食べて陽関へ。ここにも博物館があり、城門も復元?創作!されている。門の向こうには王維が手を振っている。王維に見送られてシャトルバスでのろし台に向かう。この高台に上ると反対側が見える。玉門関と違って平坦な場所にある関所ではなく、山の向こうははるかな大平原。まさに関所として最高の場所だ。この向こうに楼蘭がありホータンがあった。心の目で見ようと思ったが、とても届かなかった。
この茫漠とした地を、わが友人の中山嘉太郎は単独で走っていった。いったい何を考えていたのか。いや考えたらこんな広大な場所を走る気にはならないだろう。私には偉大というよりも狂気としか見えない。とてつもなくすごい人と友達だったのだ。

敦煌山荘にいます!

私たちが泊まっている「敦煌山荘」です。町から外れたところに広大な敷地を得て香港資本が作った観光用のホテルなので異国情緒たっぷりに作られています。値段は東京のビジネスホテル並み。それでも敦煌では最高級。私は並みのホテルでいいのですが奥様は洋式トイレのないところは嫌!しかし残念ながらウォッシュレットはありません。もっとも上海でもウォシュレットはなかったなあ。目の前にはこれまた驚くほど大きな寺があります。北周(隋の前)の時代の寺だと説明があります。しかし敦煌にはそんなに昔からの寺は残っていない。その時代にあったらしい寺を復活させたということらしい。なのでこの場所かどうかは全く不明。西域ちょっと時間がたてばすべて砂に埋まってしまうので、地上に遺跡はほとんど残らない。西域の遺跡発掘はほとんどが20世紀の探検家によってなされたものだ。私たちが敦煌に下りた前の日に雪が降った。敦煌山荘から見える砂丘は雪をかぶっている。すばらし景色だ。この砂丘の高さは200mもある。これは山ではなく砂が吹き上げられた砂丘であり、風の吹き方によって姿を変える。

見るからに寒そうな景色だ。本日の気温は最高が2℃、最低が零下10℃だ。かなり寒さ対策をしてきたが、それでもしんしんと冷える。食堂は景色のいいテラスに面しているのでいったん部屋から出ていかなければならない。中国は北京時間に統一されているので敦煌は日の出が8時30分、朝食は7時からなので深夜に食べている感じ。テラスからは雪で白く浮かんでいるような幻想的な砂丘が見える。月明かりがあると輝くだろうが本日は残念ながらなし。明けの明星の光では暗すぎる。とてつもなく寒い。これは道教の寺。砂漠の中にある月牙泉のわきにある。この塔の上からの砂丘と砂漠の眺めはいい。