■3-6 出雲大社は豊かな出雲の象徴

大国主神がスサノオから継承した出雲の国もすぐに安定したわけではない。まずガガイモ葉っぱの舟に乗って美保岬にやってきたのが少彦名という神である。この神は一寸法師のモデルであるが、彼が最初に大国主神を手伝って国造りを行うのである。
あまり有名な神ではないが、東京の神田明神の神さまである。この小さな神が何の象徴かあまりよくわからない。その神は国が安定する前にすたすたと黄泉の国に行ってしまった。
大国主神が困っているとやはり海のかなたから光り輝いてやってくる神があった。
「私の魂をお祭りしたら、国造りを手伝おう! もしそれができなかったら国造りは難しい」
と言う。大国主神は
「どうお祭りしたらいいのでしょうか?」
と尋ねると
「大和の東の山の上に祭れ!」
と言った。大和の東の山とは三輪山の事である。
ここでやっと三輪山の磐座に三柱の神が祭られて理由がわかった。しかしまだなぜ出雲の国を作るのに、大和の話が出てくるのかどうにもわからない。
ともかく三柱の神々のおかげで出雲国は素晴らしい国になった。

2013年5月10日、出雲大社の遷宮は夜に行われるので、私は昼間のうちに大社のお参りした。昔訪れた国鉄の大社駅は立派だった。国鉄の大社線は廃止され、いま鉄路は一畑電鉄のみになった。観光バスや自家用車でやってくる人がほとんどだから駅からの参道を歩く人は少ない。
出雲大社の参道には四つの鳥居がある。ふつう四は死を意味するので忌み嫌われるが、もともとが「根の国」(黄泉の国)にある神社だから気にしていない。大きな一ノ鳥居を過ぎ、商店街を抜けて、二ノ鳥居のある勢溜(せいだまり)まで緩やかに上っていく。参詣人はあまり気にしないが、歩く人にはけっこうきつい。来た道を振り返ると、ずいぶん高い所にあるのがわかる。
二ノ鳥居は立派な銅製の鳥居で、それをくぐると参道は下り坂になる。その先に銅製の三ノ鳥居、四の鳥居がある。鳥居をくぐった後に拝殿にでる。たいていの神社は参道の先の石段を上るが、出雲大社は下って社殿に行く。私は下野一宮の貫前崎神社で経験したが、下り参道は珍しい。この神社様々な点でふつうの神社とは違って、おもしろい。
拍手もふつう二礼二拍手一礼だが二礼四拍手一礼である。九州の宇佐八幡宮も同じだが、これも珍しい。この時は気がつかなかったが、大注連縄の巻き方もふつうとは反対だという。
さらに出雲では暦も異なっている。10月は神無月と呼ぶが、ここ出雲に八百万の神々が集まってくるので出雲暦の10月は「神在月」である。全国各地の神さまは地元神社を離れ、ここ出雲に集まり、大社の宿泊所に泊まって、一ヶ月間縁結びの作業をする。もちろん中世になって作られた俗説だが、その方がお参りの人には受けがいい。

出雲大社は縁結びの神社として全国に知られている。神さまは、海の彼方から稲佐の浜(国引きをした大綱)に上陸し「神迎え道」を通って神社にお越しになる。高天原の神は「天の浮橋」をとおって地上に降臨されるが、日本古来の八百万の神は舟にのって海を越え、稲佐の浜に屹立する弁天岩を目指してお越しになる。

出雲にお越しになる神様は高天原系の天津神(あまつかみ)ではなく、日本にもともとおられた国津神(くにつかみ)である。国津神の総帥が大国主神ということになっている。

5月10日の夜、大国主神が御仮殿から新装なった本殿へ移られる「本殿遷座祭」がおこなわれる。遷座祭には八千人が招かれているが氏子でもない私たちは宿に帰ってテレビで見るしかない。七時半からNHKで中継するので友人にVIDEOを頼んでおいたが、後で聞くとニュースでちょっと写っただけだったという。天津神の伊勢神宮遷宮は国民的行事だが国津神の遷宮はローカル扱いだ。少々というか、かなり残念なことだ。

拝礼の前から気が付いていたが、御仮殿には注連縄はあるが、前に来た時に記憶していたあの大注連縄(長さ一三・五メートル、太さ八メートル、重さ四・四トン)がない。あの注連縄こそが出雲大社の特徴だと思っていたが、神楽殿には記憶通りの大注連縄があった。
神社の方に聞くと、
「御仮殿から移るとき神さまの頭が引っかかるといけないので小さいのをかけている」
とのこと。さすが芸がこまかい。翌日の映像をみたら、また大きいものに変えられていた。

町の各所で「雲太、和二、京三」という文字を見た。出雲太郎、すなわち出雲が一番という言葉を縮めたのだ。平安時代の建築物のビッグ三を順にならべたもので、出雲太郎が一番、二番は大和の大仏、三番は京の大極殿の順だった。大仏殿は四五メートルあるから、雲太はそれ以上で、四八メートルはあったと言われていた。今の社殿の高さは二四・四メートルだから、四八メートルというのはいまの倍の高さ。
「そりゃ、いくらなんでも大きすぎるよ」
と誰もが思ったが、平成一二年に境内から三本の柱を金輪で束ねた柱の根本が発掘された。これは、大社の宮司で出雲国造の千家(せんげ)家に伝わる図面にある古代神殿の配置図の場所だ。この太さがあれば四八メートルの建物を建てることは可能だと、大林組の技術者がシミュレーションした。言い伝えはウソではなかった。
スサノオが大国主に「はなむけ」として贈った言葉、
「高天原に届くほどの高い宮殿を建てて住むのだ!」
ちゃんと実現していたのだ。