第3章 豊葦原瑞穂の国の抗争劇

■3 出雲の平野は遠くから引っ張ってきた!

三輪山に鎮座する大物主神、大国主神、少彦名神の三柱の神は出雲出身であると聞いた。そこで神さまのふるさと出雲に行ってきた。しかしそこで見聞きしたことは、私の先入観とは大きく違っていた。
大国主神は国津神の総帥で大物主神と少彦名神が協力して出雲の国をつくったとばかり思っていた。ところが出雲では大国主神の姿は少なく、スサノオ神、伊邪那美神など天津神の活躍ばかりがめだった。

私の思い違いの一つは、今の出雲市と古代出雲の場所が違うことだった。古代出雲の国府は意宇(おう)の風土記の丘の近くにあった。そこには条里が整った広い平野、豊葦原瑞穂の国が広がっていた。この広い平野は太古の時代からあったものではなく中国山地から流れ出した土砂が積もってできた沖積平野である。新しく作られた土地であることを古代の人たちは知っていたのだ。出雲神話に新しい陸地ができたことが語られている。

この地に住む八束水臣野命(ヤツカミズオミツノミコト)という神が三瓶山を杭にして大綱で朝鮮半島から日御碕を引っ張ってきた。その大綱が国引き浜(引佐の浜)である。さらに弓ヶ浜を大綱に見立て大山(だいせん)に足をかけて、「よいしょ」とひっぱった。
「やったぜ! おう!」と言ったかどうかはわからないが、この地は「意宇」(おう)と呼ばれるようになった。
引っ張ってきた陸地(島根半島)と本土の間には海峡ができたが、両側には大綱に見立てた砂州が伸びていき、海峡の両側を塞いで、平野ができたのである。豊葦原の瑞穂の国は神さまの「国引き」のおかげで成立したのだ。

 埋め立ての進行には時間差があった。最初は意宇に広く豊かな平野はでき、のちに現在の出雲大社のある場所に豊かな国が作られた。意宇にあった出雲国造(昔の国主)家も新しい出雲大社(当時は杵築大社と呼ばれていた)に移転した。
もしかすると大昔に意宇国と出雲国があって勢力争いをした結果、政治の中心が出雲大社に移ったことを示しているのかもしれない。

いずれにせよ、豊葦原瑞穂の国は豊かであったために勢力争うがしばしば起こったのだ。影の薄かった大国主神も大物主神も少彦名神も一時期勢力を持った一族の長(おさ)だったのだ。

出雲を訪れてみたら、出雲神話はスサノオと八岐大蛇との抗争、大国主と因幡白兎連合との抗争、大国主とスサノオの抗争、大国主と天照大神との争いなどの抗争を物語したものだということがよく分かった。豊かな国というのはいつの時代も周りから狙われるのだ。