加賀国府 総社 安宅関

加賀百万石の土地だが、古代加賀国は越前国から分かれた「中国」だった。しかし田畑も人口も増えすぐに「上国」になった。その後もよい土地、白山などの山々、北前船の港もあって大きな国に発展していった。国府
加賀の国の中心は今は金沢だが、古い時代、国府は小松にあったようだ。発掘による国府跡は確定していないが国府、国府台の地名から大体の位置は推測できる。古府(ふるこ)の地名は国府村と古江村が合併してできた名前で古いものではない。

総社 石部(いそべ)神社

古府バス停の近くに総社・石部(いそべ)神社があり、この辺りに国衙(国府の建物)があったことは疑いない。安宅の港とは梯川沿いにつながっており、日本各地とのつながりも大きかったようだ。

追加 賀曽利さんの写真です。彼も訪れたのは夕方のようです。(注:確かめたら、これは早朝の写真だそうです)

近隣の神社
古府のバス停までの交通はあった。しかし帰りの便は日曜日だったので最終便が4時ごろだった。バス停に着いた時、小松行の最終バスは平日と違って2時間も前に終了していことがわかり、どっと疲れがでた。しかし恨んでも仕方がない。1時間半も歩けば小松駅に着くはずと歩き出しすと道沿いにいくつかの神社が出てくる。社殿の形はどれも同じ。石造りの五重塔もすべて同じだった。八幡神社の石碑には郡衙と国衙の真ん中にある神社と書かれていた。郡衙は市役所、国衙は県庁の建物という感じだ。歩き疲れたが、寄り道はこの地を知るうえで大変貴重な体験だった。駅の1キロほど手前で親切な人が車に乗せてくれた。加賀国の人は親切だった。もちろん能登国の人も親切だった。車で案内してくれた上にお寿司、アイスをご馳走してくれたもんなぁ。国分寺

古府のすぐ近くに国分寺がある。どう見ても民家だが近づいてみたら「国分寺」の看板があった。玄関にいた住職さんにお聞きすると、昔の本当の国分寺は国府郵便局のあたりにあったらしいが、私の国分寺とは関係がない。戦後に新しく寺を作った時に近所の人と相談して「国分寺」にしたそうだ。東大寺とは関係ない寺である。

安宅関

言わずと知れた義経と弁慶一行を見張るために作られた関所である。弁慶は修験者一行として偽の「勧進帳」を読むが、関守の富樫は義経がいることを見破る。しかし見て見ぬふりをして一行を平泉に向かわせる。歌舞伎の勧進帳の名場面だそうだ。

実はここに関所があったかどうかはわからない。加賀の国府津(港)であり、義経一行もこの津に上陸した。本当は地元の豪族が歓待をして平泉に向かわせたのだろ。正式の関所があったら、見逃したりはしない。歌舞伎のお話だろう。安宅関を訪れたのは2012年、まだ国府、国分寺に目が向いていなかったので、そのまま那谷寺に向かう観光コースを行った。今回梯川を歩いたことで、国衙、郡衙、国府津のイメージがつながった。寄り道は大事だよ!

越前国府 総社 国分寺

 源氏物語の紫式部は生涯一度だけ都を離れた。その場所は越前太介不(たけふ)今の武生である。藤原為時が越前守に任じられたので、父に連れられて20歳のころに越前の国府に来た。住んだのは今の京町のあたりだったようだ。
国府 総社 
国府跡は現在の越前市役所、昔の城府城の場所と考えられている。城の西にある総社の境内に「越前国府」の石碑が立っている。「武生」の名前はJR武生駅に残るが市の名前は越前市になった。地元民の選択だが、歴史、地理好きの人間にとってはかなり寂しいものだ。国府遺跡はこの辺りで一部発掘がなされているが市街地に覆われているのであまり進んでいない。総社は国府跡に城を作った時に現在の地に移動したことが分かっている。

国分寺
国分寺は総社と細い路地を挟んだ場所にある。周りにある多くの寺と比べると小さい。総社と同じく武生国府内にあったようだが、現在の地に移って昔の国分寺の法灯を守っている。しかし国分寺は大虫寺に移ったとの記録もある。

大虫廃寺跡
地図を頼りに大虫寺跡に向かった。近くまで来たがどうしてもみつからない。史跡であるからどこかに案内があるはずと探し回ると、あった!なんと新しくできた大きな工場の中だ。史跡をこんな感じに私物化していいのか。守衛所で許可を得て中に入って写真を撮るが、なにか釈然としない。しかし大企業に守ってもらうからまあいいのか?

朝早いので出勤者の車の渋滞に出会った。その中に制服姿で歩いてくる一団があった。外国人労働者だ。群馬県の太田や三重県の亀山でも大企業に向かう制服の外国人労働者に出会った。地方都市では普通の光景だが、これもなにか釈然としない感覚になった。
30分ほどかけて町中にもどり少し歩く。お寺も多く、いい感じの街並みがある。ギャラリーの看板のネコは本物。2か所の国分寺は新と旧の場所にあった。

伊賀の国府 国分寺

伊賀国府
伊賀国庁跡は2009年国の史跡に指定された。それまで府中町辺りにあるのではと考えられていたが、坂之下字国町(こくっちょ)の台地の上を発掘して確認された。JR関西線の「佐那具」(さなぐ)駅のすぐ近くである。
伊賀一宮の敢国(あえくに)神社と国分寺には2018年に行ったが、その時には国府には行かなかった。今回関西線に乗ることになったので途中下車して次の列車(ここは電化されていない)を待つ間に伊賀国庁跡を見に行った。結果はすでに埋め戻され一面の畑と水田になっている。何年か後にここは整地され、史跡公園になる計画があるようだがいつになるか。

総社 府中神社?
伊賀の総社はないと書かれている。近くに伊賀一宮の敢国(あえくに)神社があり、総社は必要なかったとの説明だ。この府中神社には古い歴史はないようだが私が考えるに国庁にすぐ近い。神様を集めたのは明治時代なので総社というわけにはいかないだろう。この総社は私的に「総社だったらいいな!」という程度。

伊賀一宮 敢国神社

国分寺 国分尼寺
佐那具駅のそばにある伊賀国庁遺跡の北側に楽音寺があった。この寺が聖武天皇の詔で作られた国分寺であった。しかし現在の国分寺跡に移転した寺が後継寺があったようだ。国分寺跡は史跡として整備されている。 国分尼寺は長楽山廃寺らしいが整備はなされていない。

能登国府 総社 国分寺


能登国は古くからあった国だが越前国に併合されたり離れたりした。律令の国になった時には「中国」として独立した能登国となり、元の越の国は5国になった。現在いずれの国府も確認されていない。能登国も国府は不明だが、七尾市に「古府(ふるこ)」町「府中」町があり、国府の地ではないかと思われている。

国分寺の発掘は行われており「のと里山里海ミュージアム」が作られており、資料が展示されている。私は2008年、2012年に国分寺跡の見物に来ていた。その時にはこんな立派なミュージアムはなかった。

国府 印鑰神社
能登の國衙の印璽を保管したのがこの印鑰神社である。印は土中に埋められていたが文緑年間に郡奉行の三輪藤兵衛の夢告により発見したという。オオーツ! わが身にも関係があるのだと嬉しくなった。印鑰(いんにゃく)神社は「府中」にあり、このあたりに国府があったことが推定される。

印鑰神社は「でか山」の組み立て神社で、境内には写真のようなとてつもなく大きな車輪が展示してある。5月に行われる青柏祭(せいはくさい)で練り歩く山車で、高さ12m、重さ20トンの日本一巨大な山車だという。鍛冶町、府中町、魚町の三台の山車が七尾の街を引き回されという。ぜひ見たい祭りだ!

能登国総社
国分寺の公園の東の山麓にこの神社がある。社殿の形は印鑰神社と同じ。本日はとんでもない暑さだたが、この森の中の神社は清涼、案内をしてくれたONOGUCHIさんは冷たい飲料、アイスを用意してくれた。生き返った。

国分寺
南門から回廊の塀を見る。これは2012年の時にもあったなあ。左手に新しいミュージアムができている。下の写真(右端)は2012年、外側からの写真。

国分尼寺の跡は見つかっていない。もしかするともともとなかったかもしれない。

これまでは七尾の駅から歩いてきた(2キロほど)が、今回はとてつもなく暑いので、地元在住の友人の車に乗せてもらった。
「こんな暑いのに何やってんの?」
「何回も来るなんて、あほじゃない? 意味わからないよな!」
と褒められた。
意味わからないと言いながら、お昼は地元の有名なお店で豪華お寿司をご馳走していただいた。
七尾の駅からは豪華列車ではなく、普通の列車で金沢へ! もう一枚の写真は印鑰神社の前のフィッシャーマンズウォーフから見た港。

能登の二宮
能登の一宮は気多神社で羽咋市にある。国府からはかなり遠い。能登二宮駅は七尾からは近い。この神社には2012年に訪れている。なかなか珍しい狛犬がいたのでよく覚えている。空を飛んでいるのかな。

但馬国 国府・国分寺

豊岡市はジェンダーギャップの解消を他に先駆けてきた。しかしこの政策を掲げた市長は21年4月の選挙で敗れた。この地域の人は但馬国にはジェンダー問題はないと選択したようだ。
しかし但馬国には国分寺、国分尼寺の両方が残されていた。他国では国分寺跡があるが国分尼寺跡は消えたところが多い。豊岡に国分尼寺跡が残るのは「ジェンダーフリー」の象徴のように見えるのだが。

但馬国府

JR山陰線の豊岡駅と江原駅の間に「国府(こくふ)」という無人駅がある。さらに府中新、府市場など国府をイメージする地名がある。昔の文書には国府は気多郡にあると書かれている。旧日高町役場の「祢布森遺跡」に国衙があったのではないかと思われているようだ。

その場所に「国府・国分寺館」がある。日本国では唯一の「国府・国分寺館」だったが2015年「豊岡歴史博物館」となった。国府国分寺Fanにとっては残念なことだ。このブログのタイトルは15年以前のものである。現在の看板は下に表示してある。

総社 気多神社
植村直己さんの生家のすぐ近くに総社、気多神社がある。参道はもっと長かったはずだが今は堤防の下になっている。社殿の彫刻がすばらしい。中井権次という名前を継ぐ彫師の作である。但馬、丹波地域の神社には権次作の彫刻が見られる。もう一つの写真は竹野の天日神社のもの。

国分寺

旧日高庁舎の裏手に国分寺跡がある。ここには後継の寺である国分寺もある。金堂跡、回廊跡 礎石など発掘調査記録は国府国分寺館に残っている。七重の塔は国分寺館に縮小復元されている。

私は2006年の但馬国分寺跡を訪れていた。その時の写真を追加しておきます。

国分尼寺
国分尼寺が残っていることは少ないが、日高東中学の駐輪場前に石碑があった。礎石がいくつか残っているが、その範囲は中学校の敷地内である。学校になっているのは尼さんも許してくれるだろう。国分尼寺は法華寺という。

但馬一宮 出石神社

但馬には一宮が二つある、一つは粟鹿神社だがこれは和田山にあり但馬の国府からかなり離れている。一方出石神社は豊岡市にあり、国府との関係は深かったと思うので、ここに並べておく。但馬一宮は別にアップしてある。

但馬を開いた天日槍(あめのひぼこ)神を祀る。新羅の王子で赤い玉から生まれたアカル姫と結婚する。しかしアカル姫は気分を害して難波に去ってしまう。彼女を追って日本に来るが難波には入れず但馬に来てここで国を開いた。

天日槍の子孫に田島間守がいる。奈良の垂仁天皇陵の陪塚はこの人の墓であるとされる。さらに子孫に息気長足姫尊がいる。応神天皇の母、神功皇后である。神話と歴史が入り混じった想像力豊かな地方である。

演劇の街

豊岡は演劇の街も目指している。出石には歌舞伎小屋がある。もとはパチンコ屋になっていたが市の主導で立派に改装して2012年にお披露目があった。片岡愛之助さんが毎年座長で公演している。 さらに2019年平田オリザさんが主宰する劇団も豊岡に拠点を移した。芸術文化の専門職大学も開学し、演劇の街は発展するかに見えた。しかし「演劇の街などいらない!」と第一声を上げた候補が市長になった。せっかく愛之助、オリザという大御所が来てくれたのに「いらない!」などという市長。今後どうなるのか大勢の外部の豊岡Fanは見守っている。

丹波国 国府.総社.国分寺.一宮

丹波の国は京都嵐山から嵯峨野線に乗ってトンネル鉄橋、トンネル鉄橋を何回も繰り返してやっと広い番地に出た所である。大昔は丹波の国は丹後、但馬を含む地であったが、律令制の時代から三つの国に分かれた。丹波の国の国府は亀岡の盆地にあったが、その位置は特定されていない。しかし南丹市の屋賀に国府の小字がある。丹波国 国府

その周辺には「国府」という苗字の日とが多く住んでいるようだ。大欅のすぐわきにある安楽寺に入ってみたら山門再建の際の寄付名簿の石碑があった。国府さんが大変多いことに気が付いた。このあたりが国府の位置だったのだろう。

総社 宗神社
国府さん宅を少し歩き、坂の手前にに「宗神社」がある。どこにも総社の記載はないが、宗神社は総社に通じろ所がある。まあちょっと根拠は弱いが、一応ここを総社ということにしておこう。

国府の小字は南丹市屋賀にあるがここは亀岡市との境界辺りである。近くには大きいため池がいくつもあり農業に適した地にすべく人々が苦労したことがわかる。近くに牧場がいくつもあるので匂いはちょっと異なるが、大和盆地に似た景観である。ちょうど蓮が咲いておりお釈迦様の住む尊い地のように感じた。が変なものが蓮池を泳いできた。ヌートリア、お釈迦様に失礼だろう!あっちへ行けと追い払った。

丹波一宮 出雲大神宮
屋賀の国府付近からヌートリアの池から山裾に上がって行くと景色の良い場所に丹波の一宮の出雲大神宮がある。この辺りは出雲族が多く住む地で、ここから出雲大社に神さまは移って行かれたとの説がある。元出雲と呼ばれるのはそのためである。出雲大神宮については一宮巡りにアップしてある。http://kazmiwa.sakura.ne.jp/ichinomiya/058izumo-daijingu/izumo-daijingu.htm

丹波国分寺

丹波一宮から山裾の道を下って亀岡の市街に向かう途中に国分寺跡がある。ヤマ側には七福神を祭る寺など多くの寺社仏閣がある。信仰心の篤い地域だったことがわかる。国分寺は現在も小さな建物があるが無住らしく話を聞くことはできなかった。広い敷地には金堂や回廊の跡の看板が立てられている。しかし礎石は一部に集まっている。国分尼寺はどこにあるかわからなかった。

亀岡に来たのは3回目、駅前にはとんでもなく大きなドームがあった。サッカーJリーグの京都サンガの本拠地で京セラドームだ。昔はパープルサンガというチームがあったがその後継チームだがJ1だったかな? 京都嵐山までは保津川下りの舟がある。しかし大変な雨が降ったばかりで水量も多い。恐ろしいので電車で京都に戻る。

国府寺跡 

賀曽利さんから
「千代川の案内図」を送りますね。
10番の国府寺跡の「国府寺」は、
丹波国府の国衙跡だそうです。・・・・・ここには行かなかった。残念!