狛犬行脚-08 子獅子と獅子山

赤坂氷川神社の獅子山と子獅子

東京には氷川神社がたくさんあるがここ赤坂氷川神社はその中で最も大きいものである。もとは武蔵一宮の氷川神社、さらにその昔は出雲の斐伊川にあった神社から神様を呼び寄せたという。溶岩で作った獅子山が鳥居の両側にある。

 赤坂氷川神社には狛犬の奉納が多く様々な種類のものがある。その中で一番興味深いのは「獅子山」である。獅子は子供を千尋の谷に突き落とし生き延びて上がってきた子獅子だけを育てたという故事にのっとったものである。
矢印のところに子獅子がいるのがわかるかな? 右はお母さんで「しっかりあがってくるんだよ!」と見守っているような感じだ。両方とも獅子である。狛犬ではないなあ。 同じような獅子山の子持ち狛犬が西武池袋線の長崎神社にいる。こっちはお母さん獅子が「上がっておいで!」と見守っているように見える。 落合の天祖神社の狛犬であるが獅子山はない。しかし台座の下に子獅子がいるのがわかる。石工は獅子と狛犬の組み合わせではなく両方とも獅子と考えて作ったのだろう。
 こちも子獅子がいるが親は両方ともあたりを見渡して尻尾をあげて威嚇しているように見える。氷川神社はもとは出雲系であるので、威嚇型の名残があるのかもしれない。子獅子を待つ狛犬は尻尾を上げているように見える。 赤坂の氷川神社には7種類の狛犬がいると書かれている。私は何回も見ているが6種類しか探せていない。それはそれとして、写真の狛犬は両方が子供を抱えている。千刃の谷に蹴落とした子獅子が戻ってきた。その子獅子を両親が育てているようだ。 氷川神社の狛犬の写真をもう少し上げておきます。これには子供はいない。両方とも角はないので獅子であろう。ちょっとかわいい豪華な江戸型の獅子である。

ここでは獅子と狛犬を区別したが通常は獅子狛犬の対を狛犬と呼ぶことが多い。私もあまり区別せずにあいまいに狛犬と呼んでいる。次回母親獅子と父親狛犬、狛犬の雌雄について考えてみたいと思う。‥‥23年6月18日

 

狛犬行脚-07 目黒不動にはたくさんの狛犬が!

目黒不動(瀧泉寺)
たくさんの狛犬を見たければ目黒不動に行くとよい。都内最古の狛犬からつい最近奉納された新しい狛犬を見ることができる。狛犬はたいていは神社にいるが目黒不動(天台宗瀧泉寺)のような寺にもいる。明治以前は神仏習合といって寺も神社も一緒だったのだ。 しかし明治政府は廃仏毀釈の政策をとって仏教的なものは廃棄した。五重塔や仏像など文化財は破壊された。一部は外国に売られたりした。ボストン博物館にある日本の文化財はこの時に二束三文で売り払われたものだ。明治政府の幼稚な政策で日本の多くの文化が失われた。もちろん今になって返せと言うわけにはいかない。上の写真を見てほしい。立派な石工が技術を駆使して彫り上げた狛犬である(1841年作成)。台座の彫刻もすばらしいのだが正面から見ると左半分がかけてている。さらにこれは向かって右側にある阿形の狛犬であるが吽形の狛犬の姿が見えない。はっきりした証拠はないが廃仏毀釈によって狛犬も叩き壊されたものだろう。ほかの寺社でもこんな例はいくつもある。3匹の子供を持つこの狛犬も石段の下に寄りかかるようにしているが反対側には相棒がいない。狛犬を単独で奉納することはほとんどないのでこの母親狛犬も夫狛犬を失ったのだろう。
 この二つの狛犬はふつうにみる狛犬とはだいぶ違う。外国産の狛犬ではなく和犬型狛犬で1862年に奉納されている。たて髪豊かな狛犬とは違って何か愁いを持っているような感じだ。私は上のうつむき狛犬を反省型と呼んでいるが、ほかにあまり例はない。獅子狛犬と言われるがこの二つは獅子の要素はなくまさに犬だね。 石段の上には寺なのに山王鳥居がある。その両脇に東京で最も古い狛犬がいる。顔はちょっと怖いが背中の模様などはすばらしく、かわいい感じだ。1654年製というから江戸時代の初め。今から370年ほど前のものだがきれいの保存されている。すばらしい。まだまだ狛犬はいます。
 上の二つは入口の仁王門前と仁王門内側にある。それぞれ1999年と1978年にここに置かれた新参狛犬である。門内にある獅子狛犬は丹波一宮籠(この)神社の石造狛犬をコピーしたものだろう。籠神社の狛犬は日本で最も古い(安土桃山時代)と言われている。(矢印のところを石見重太郎が切り落とした?)東京で一番古い狛犬、日本で一番古い狛犬のコピーまでいろいろたくさんあるのがここ目黒不動である。おまけに3つの狛犬写真をアップしておきます。

上は境内の八大童子まえの岡崎型狛犬、次は女坂途中のブロンズの狛犬である。もう一つは仁王門脇の門柱の上に置かれた石の象。これも狛象と言うのだろうか。同じようなものはしばしばお寺でみる。仏教の起源はインドにあることと関連するのだろう。

これだけ見ればおなか一杯ですが、さらに門前の「八ツ目やにしむら」のウナギを賞味あれ!

狛犬行脚-06 狛犬のルーツはライオン?

二荒山神社の狛ライオン
1999年12月「日光の社寺」として世界遺産に登録された。それを記念して二荒山神社に一対の狛犬が奉納された。それが下の写真である。私はこれは狛犬ではない、ライオンじゃないかと思ったが、説明文を読むとちょっとだけ納得した。 先日中国の上海で見た狛犬?獅子像は日光のものと似ている。上のめずらしいライオン狛犬は中国の獅子、さらにインド、中近東の獅子像を参考にして現代に作られた「狛犬」なのだろう。たかが「狛犬」と言ってもなかなか奥深いのだ! 日光のライオン狛犬は阿吽にはなっていない。ところが上海の獅子はちゃんと阿吽になっている。あれ、常とは逆ではないか。阿吽狛犬は日本独特のものだからこの上海の獅子像は日本からの逆輸入かもしれない。ところで三越デパートの前にはライオン像がおかれていた。たぶん中国の商店の前に置かれる獅子像と同じ発想だっただろう。1914年に開業するにあたって英国トラファルガー広場に置かれた4頭のライオンをモデルに鋳造され、各地の支店にも置かれた。しかし近年廃業に伴いライオン像の保管が問題になった。池袋三越のライオンは浅草の三囲(みめぐり)神社に置かれている。この神社は稲荷神社であるが三井家の守護社にもなっている。社殿のまえにはライオン、狛犬、キツネが並んでおり、さらに奥の摂社には陶器製のちょっとかわいい狛犬がいる。ひとつの神社の中に、いくつもの狛犬がいる。伊勢神宮は庶民からの奉納は受け付けないので賽銭箱も狛犬なども全くない。しかし庶民は神様に何かの奉仕をしたいのが人情である。神社によっては狛犬だらけのものもある。三遊亭円丈さんはもちろん落語家だが、それ以外に狛犬の愛好家、分類者として有名だ。日本参道狛犬研究会(狛研・こまけん)の会長で、各地の狛犬情報を収集していた。残念なことに2021年に76歳で亡くなった。生前この狛犬を見て「立川談志狛犬」と呼んでいたそうだ。よく見ると似ているな!

狛犬行脚‐05 木製狛犬は獅子狛犬!

柞原八幡宮の木造狛犬
全国一宮巡で豊後一宮柞原(ゆすはら)八幡宮を訪れた。神社下まではバスで行くことができるがそのあとは石段を上らなければならない。南大門で一息入れた後真っすぐに石段を上がった。

しかし楼門は開かずの門で今は西門から入ることになっていた。ちらっと中を見ると木造の狛犬がいる。急いで格子の間にカメラを入れて何枚か写真を撮った。その後回廊に上がらせてもらい置き去りにされている狛犬の写真を撮った。

昔はきれいに彩色されていたのだろうが長年の放置で色は剥げている。石像と違って外気に放置すればすぐに劣化してしまう。もう少し丁寧に扱ってやれないものか。むかしの「獅子狛犬」は室内で大事に扱われていたのに!

この狛犬はどちらも角がないので獅子である。通常木造の狛犬の場合獅子と狛犬ははっきりと区別できることが多いが、柞原八幡宮のものは新しいのか、獅子狛犬の区別ができない。

手向山八幡宮

奈良の東大寺の裏山にある神社であり、東大寺の大仏さんを作るときに大いに貢献したことで知られている。ここにも狛犬が多くいるが、拝殿内には木造の狛犬がいる。遠いのと邪魔物があるのでなかなかうまく写真が撮れない。これは角のある狛犬と阿形の獅子の組み合わせである。

但馬一宮 出石(いずし)神社

出石は豊岡市の一地方であるが昔は一宮があるにぎやかな場所だった。この神社にも木造の狛犬がいるが拝殿の縁側に置かれ雨露にさらされているのでかなり傷んでいる。両方に角があるので両者ともに狛犬であるが、首につけた鈴は中国の影響であろう。中国のものは両方とも獅子だが・・・

 木造や乾漆造りの獅子狛犬があることは知られている。上賀茂神社は本殿を見ることはできないのだが隣にある社殿の中にいるのは遠目に見ることができる。それらはたいてい文化財として保護されており、石造りの狛犬のように親しくなでたりすることはできない。(上賀茂神社 狛犬がいるのわかるかな?)どこかで写真集などを作って欲しいが、見せてくれないなら仕方がないな!

櫛田神社の室内の狛犬 すばらしい

「お櫛田さん」の愛称で親しまれる博多の総鎮守。博多祇園山笠が奉納される神社で、飾り山笠が6月を除き一年中展示されています。祇園とある通り京都の八坂神社と同じスサノオ神を祀っています。 室内に置かれた狛犬は雨風に逢うこともないので優雅な姿を残している。年代は確かめなかったが最近奉納されたものだ。もう少し由来を聞いておくべきだった。 尾張一宮の大神(おおみわ)神社には指定文化財の木造狛犬がある。外にはないので見ることはできなかったがこんな説明がなされている。昔は高貴の方が自前で屋敷内の魔除けとして使っていたが、江戸時代以降は庶民によって神社に奉納されるようになった。たいていは石造で神社参道などに置かれたが、木造のものは拝殿の縁側に置かれることが多かった。この神社では文化財になったので社殿内に置いているようだ。

狛犬行脚‐04 徒然草の獅子狛犬

兼好法師はかなり嫌味!

前回「徒然草」に獅子狛犬のことが書いてあると記した。
京都の聖海上人は大勢の人を連れて丹波の出雲神社にお参りをした。御前の獅子狛犬は後ろ向きで立っているのを見て「なんとすばらしいことか、背を向けているのはほかの神社では見たことがない。なにか深い理由があるのだろう」といって感涙にむせんだ。皆も「都の戻って感動的だった」と土産話にしようと語っていた。ところが宮司が出てきて「また近所のガキどもが獅子狛犬を動かしてしまった」と言って元の向きに戻してしまった。聖海上人の涙はいったい何だったのか。知ったかぶりをするもんじゃないよなあ!と兼好法師は皮肉っている。 丹波亀岡の出雲大神宮の拝殿前に大きな狛犬が居りその脇に「徒然草236段」の看板が立っている。兼好法師の時代、狛犬は「獅子狛犬」と言ったことが、この文章からわかる。しかしこんな大きな狛犬をガキどもが簡単に動かすことができるのかと疑問に思った。この狛犬は江戸型と呼ばれる形でたぶん昭和の時代に奉納されたものだろう。兼好法師の時代の獅子狛犬はもっと小型で子供でも動かせるものだったのだろう。 拝殿に近寄って奥を見るとそこにも狛犬が見えた。平安時代に狛犬が中国からもたらされた時には木造で室内の高貴な方の御簾に置かれたという。今は建物の門番と言う役割だが当初は偉人に近い関係だったようだ。拝殿から詳しく見ることができなかったが、この大きさなら子供でも動かすことができるだろう。

もともとは室内に置かれていた この後訪れた京都の仁和寺で木造狛犬を見ることができた。左側の阿吽の吽の頭の上に角がある。こちらが狛犬で右側の口を開けている阿形が獅子である。高貴なお方の館では、二つを合わせて「獅子狛犬」と呼ぶことが多かったようだ。 京都では獅子狛犬の伝統を引き継いだものがある。先日の祇園祭の際、四条通のデパートに展示されていたものだが、仁和寺のものと同じ様式で角アリの狛犬、阿形の口開けた獅子の組み合わせである。もともとはこのように彩色されていたのだろうが、仁和寺のものはかなり色ははげ落ちている。

仁和寺の巨大な仁王門、仁王様の裏側に獅子狛犬がいる。仁和寺の木造狛犬やデパートの乾漆造は古いスタイルを残す「獅子と狛犬」である。角の有り無し、うず巻き毛と房のような毛、阿吽、それぞれがはっきり違っており、両者は獅子と狛犬という別の聖獣であることがわかる。

狛犬行脚‐03 狛犬は高麗犬か?

高麗神社に狛犬がいるか?

 狛犬の「こま」は高麗に由来するとの説がある。さっそく高麗神社に行って確かめてみた。高麗神社の案内には高句麗からの渡来人千数百人が719年に埼玉県の飯能の近くに土地を得て住み着いたと記されている。ここに朝鮮半島独特の狛犬がいれば面白いのだが・・・

 ところが高麗神社にいたのは上のような狛犬だった。神社自体は古いが鳥居も狛犬も新しいものであり、高句麗風なところはない。鳥居前にいたのは最近作られた花崗岩製の岡崎型のごく普通の狛犬だった。ちょっと残念な気持ちのまま隣の高麗寺に寄ってきた。ふつう寺には狛犬はいないが、代わりにこんな狛ヒツジがいた。これは韓国ではよく見かける石像で、上野の国立博物館の入り口にもあった。しかしこれは狛犬のルーツではないだろうな。たった一つの経験からではあるが私は高麗から来たから高麗犬、それが変化して狛犬となったという説にはあまり説得力がないと判断した。本当は獅子狛犬が正しい 
それならこれはどうだろう。中国本土や台湾には次のような狛犬ならぬ獅子がいる。どこに行ってもいるので大変ポピュラーなものらしい。
日本でも中華料理屋にもいるが東大の資料館の入り口や寺社にもいる。 実は日本の狛犬はもともと「獅子狛犬」と一対にものとして呼ばれたそうだ。それは唐の時代に輸入された文化の一つで唐獅子、獅子舞などにその名前が残っている。「徒然草」では「獅子狛犬」と表記されているがいつまにか両方合わせて「狛犬」になったと。近年文化庁では文化財としての呼び名を「狛犬」から「獅子狛犬」と本来の呼び方に変えた。私たちはまだ「狛犬」のままで呼び続けるだろうが、公式には獅子狛犬というのが正しいようだ。

狛犬行脚‐02 出雲には恭順狛犬がいる!

前回出雲の象徴的狛犬は「威嚇する狛犬」と書いた。国を奪われたことに「反抗するかのような姿」であると私は考えているが、一方ひたすらあなた様には従いますという感じの狛犬も同じ神社内にいる。このあたりはかなり複雑な感情があったのではないだろうか? 写真は揖屋神社石段上にいたおとなしそうな狛犬である。出雲の狛犬は来待石というやわらかい凝灰岩で作られている。細工は容易なのだが風化が激しいので顔がすり減っているものも多い。  八重垣神社はスサノオ神が八岐大蛇の生贄になりそうだった稲田姫を救い出した場所だ。今は縁結びの神社として有名だ。下の写真のように鏡の池に半紙を浮かべ上にコインを乗せる。速く沈むと早く縁が結ばれるそうなので重いコインを乗せるといいみたい。出雲大社よりもご利益は多いようで観光バスも何台も集まる。八重垣神社で結ばれたスサノオ神は須我神社で新居を持つ。ここで「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作その八重垣を」という和歌をよむ。これが日本最初の和歌と言われているそうだ。須我神社のかなり奥に立派な磐座(いわくら)がある。ここがスサノオ夫婦の新居の土台であったというが???ところでスサノオ神とオオクニヌシ神との関係は本来はないはずだが、今はスサノオ神の娘をオオクニヌシ神が嫁にして出雲の国を継承したことになっている。 出雲大社の本殿にはオオクニヌシ神が祀られているが、本殿の奥には創立者のスサノオ神が素我社として祀られている。ぬぬーっ!蘇我一族のもとはスサノオ神だったのか?? 素我、須我、蘇我 どれもスサノオ神と関係するのだ。

出雲の恭順型の狛犬はいくつもある。出雲の四大神社の一つ佐太神社の狛犬もその一つ。円座の上に載っているのは須我神社の狛犬と同じである。もう一つ挙げておこう。出雲から少し離れるが美保半島の根元にある美保神社である。国を譲って隠居したオオクニヌシ神に高天原から新しい奥さんの三穂津姫が送られた。ちょっと離れた美保神社から出雲のオオクニヌシ神を見張っていたのだ。ここには威嚇する狛犬ではなく恭順の狛犬がいるのは当然のことだろう。

狛犬行脚‐01 出雲の威嚇する狛犬

 黄泉の国の入り口を黄泉比良坂(よもつひらさか)という。島根県松江市の揖屋神社の近くにありパワースポットとして知られている。私が訪れた時女子大生グループと行き交った。嬉しそうにはしゃいでいたがパワーにはマイナスのものがあることを知らないのか?

私はパワーを吸い取られないように密かに訪れて揖屋神社に戻った。神社の入り口には上から見下ろすように狛犬が威嚇していた。普段狛犬を気にすることはないがこの日は狛犬が放つパワーを痛いほど感じた。それがマイナスかプラスかはわからないが黄泉の国パワーなのだろう。

黄泉の国とは死後に行きつく冥土のことで地獄もそこにある。蜘蛛の糸をつたわって脱出しようとしても「黄泉帰る(よみがえる)」ことは難しい。
揖屋神社の狛犬に威嚇された後、出雲の国の神社をいくつか回った。ご本家の出雲大社に狛犬はいなかったが出雲国一宮の熊野神社、縁結びで有名な八重垣神社、出雲総社の六所神社には揖屋神社と同じ姿の狛犬が周囲を威圧していた。

出雲の神社の狛犬に圧倒された後に各地を歩くと狛犬が気になるようになった。私の狛犬遍歴は出雲の狛犬パワーから始まった。もう10年以上続いているのは出雲でもらったのがプラスパワーだったおかげだろう。

出雲型の狛犬は後ろ脚と大きな尻尾を逆立てて身構えている。そばによると今にもとびかかってくる感じがする。各地を歩くとこの形の狛犬は出雲系の神社にはかなり存在する。出雲の狛犬は同じ石工が作ったのかもしれないが、各地のものはこの姿をまねて作ったものだろう。

なぜこのような形になったのかは、太古の時代に出雲国が伊勢のアマテラス神に国を奪われたことに起因するのではないか。出雲国は、皮を剥がれた白兎を優しく治療したオオクニヌシ神がつくった国である。オオクニヌシを慕う民は多くいたが、突然アマテラス神の孫が高天原からやってきて(天孫降臨)国を譲らされたのだ。

敗北したオオクニヌシ神の息子のタケミナカタは日本海を北上し姫川にいた母のヌナカワ姫のもとに逃げた。そのせいなのか出雲の威嚇狛犬は日本海側の神社に多いことが知られている。

八戸三社と根城

八戸市の中心は新幹線の八戸駅周辺ではなく「うみねこレール八戸市内線」の本八戸駅の近くである。駅前の馬淵川の低地から段丘崖を上がると「龗」神社にでる。難しい字で読み方を聞くと「おがみ」神社だそうだ。この神社が八戸三社の一つである。

八戸城跡(三八城神社)
おがみ神社の並び、八戸市役所の横に八戸城の大きな石柱がある。南部氏の居城だったが今は神社になっている。現在の八戸の町並みは八戸城の城下町だった。その街並みが良く残っている。この神社は八戸三社ではない。

神明社

市内の小さな神社であるが、ここが八戸三社の一つである。大きなイチョウがすばらしい。八戸三社の一つ!

新羅神社
1678に八戸藩藩主南部直政が建てたのが始まり。祭神は新羅三郎である。本殿・拝殿は県の重宝に指定されている。毎年2月17日には冬の郷土芸能「八戸えんぶり」の奉納舞が行われる。また8月の八戸三社大祭ではおがみ神社より神輿の渡御が行われ、8月2日には騎馬打毬の一つ「加賀美流騎馬打毬」が行われます。

根城
八戸城からほど近い段丘上に「根城」がある。ここも南部氏の居城であり、整備がよくきれいに保存されている。隣には八戸市の博物館がある。博物館で調べてみるとここは根城南部氏の居城であるが三戸にいた南部氏が八戸を支配し根城南部氏を遠野に追いやったそうだ。同じ南部氏でも本家や宗家などいろいろあったらしい。今の八戸城下町はもとは根城の城下町を移転したもので八戸の人たちは根城南部氏びいきが多いそうだ。八戸城は草ぼうぼうだが根城はすばらしい。八戸の人々の思いがこもっているのだろう。

南部一之宮 櫛引八幡宮

  全国の一宮は全て回ったつもりだった。しかし青森県の八戸市の櫛引(くしひき)八幡宮に来たらここも一之宮と書いてあった。一宮は律令国( 701年から)に一つづつあったが、近年は我こそが一宮と名乗る宮が複数あるため100ヶ所ほどの一宮がある。

八戸のあたりは律令制のできた頃にはまだ蝦夷地であった。神社の方に聞くと、律令国ではなく、「南部藩の総鎮守、南部一宮です」とのことだった。古代の陸奥国の多賀城の北方は実質的にはアテルイらの英雄が支配する蝦夷の国だった。

陸奥国の一宮は仙台の塩釜神社で、その北の岩手県、青森県に大和政権は支配が及んでいなかった。坂上田村麻呂ら征夷大将軍の力によって支配地は徐々に広がって行ったが、陸奥国が陸前、陸中、新陸奥に分かれたのは明治になってからだ。

陸前一宮は塩釜神社、陸中の新一宮は水沢市の駒形神社とされた。しかし新しい陸奥国には新一宮は認められなかった。八戸市の櫛引八幡宮は南部一之宮と称しているが新一宮には入っておらずローカル一宮である。
 しかし大変立派で東北には数少ない「国宝」の鎧もある。私は新一宮に昇格させてもいいのではないか!と感じている。

雨が降っていたのでかなり端折っての参拝だったが拝殿本殿にはここが発祥の駒犬が居り、警備をしていた。普通の石の狛犬のほかに灯篭の間から顔を出したかわいい狛犬も珍しい。通常弁天様がいる水辺には河童がいる。なかなか興味深い神社であった。もし可能ならもう一度寄って南部氏との関連をもう少し掘り下げてみたい。

肝心の祭神を忘れてはいけない。八幡宮と言うことからわかるように「八幡大神」(誉田別命)を祀っている。

 

 

琉球国一宮 波上宮


全国一宮巡りは一応終わったが、明治以降に新たに加わわった新一宮があることを知った。東北地方はまとめて陸奥国だったが明治になって津軽国、岩代国などが追加された。それらの国の一宮も巡ったが沖縄はどうしても同等にできないとおもっていた。。沖縄の新一宮は波上宮とされているが、その神社の元は琉球国の重要なお城であり信仰の場所でもあった。琉球国は律令制の国とは違ってれっきとした独立国であった。それを明治政府がムリヤリ日本国に組み込み神社として古事記の神様を祀ったのだ。新一宮とされているが武蔵国とか越後国など旧国(律令制の国) と同じレベルではない。琉球国に対してリスペクトがあれば私は新一宮とすることに異論はない。祭神に昔の琉球の神様を追加してくれれば、私はなんとか納得するのだが!沖縄の人が納得するかどうか、それはわからない。

とりあえず今の波上宮の様子を写真で示しておきます。もう少し考えたい。

都内超低山登山 第22座 御田亀塚山

 今回は京浜国道と国道1号線の間に挟まれた狭い尾根道の上にある亀塚古墳に上った。尾根道は二本榎通りに続く聖坂と呼ばれている。この道に面した亀塚公園から見ればわずか高度5mほどの高度だが、第一京浜国道に面している御田八幡神社から上ると20mほどになる。国道から見たらかなりの高度になる。暑い中での登山?は階段上りだけで面白くもない。

 御田(みた)八幡の先は昔は海だった。その様子は広重の浮世絵にある「月の岬」、ちょうど同じような場所にテラスがあったので写真をとった。海なんか見えないし、妖艶そうな女性ではなく、私と同じような徘徊おじさんが体操をしていた。
 今回の一番の見どころは古墳前の二本榎通りを東海大学方面に向かったところにある承教寺の狛犬(狛件)、いったいこれはなんじゃ!
 人面で胴体は牛、この辺りには牛供養碑もあるようで牛と人間の合体狛犬ができたのかもしれない。でもやっぱり気持ち悪い。なんでこんな狛犬を作ったのか置いたのか、もう少し調べてみよう。
Wikipediaをみるとこの動物は「件(くだん)」というそうだ。人編に牛という奇妙な想像の動物らしい。件は時々一言だけ発する。その言葉は決して嘘ではなかった。そのために人々はこの獣を大事に扱ったという。
ところで書状の最後に「件の如し(如件)」という定型句を付けることがある。「くだんのごとし」は枕草子にも使われている言葉という。件が嘘をつかなかったことから、この書状に嘘はありませんという意味で「如件」と書くのだそうだ。私は証文など書いたことはないのでこの言葉を使ったことはないが、友人のビジネスマンは使ったことはあると言っていた。

小松左京は1970年の大阪万博をてがけ「日本沈没」という大ベストセラーを書いたSF作家だ。「くだんのはは」と作品がある。私は当然「九段の母」だろうと推測していたが実は「件の母」というホラー小説なのだそうだ。私は怖いのは嫌いなので読んでいないが、「件」(くだん)という言葉は結構使われている言葉だったようだ。でも私は使いたくないな。

都内超低山登山 2301 池袋富士

 昨年から都内超低山登山をやっています。超低山は3mほどから50mほどの山に登ろうということです。3mなんて登山とは言えないと言われるだろうが、足腰の弱った老人にはこれくらいでも若い人が高尾山に登るくらいのキツサガあります。先日登った大泉の中里富士(10mくらい)では両手を使ってやっと上り下りをしました。

まあ上り下りはそれほど大変ではないのでなるべく遠くからそこまで歩いて行くとそれなりに運動になります。中里富士にはたいていは大江戸線の光が丘駅から4キロほど歩いています。

さて今回は1月2日で初詣で「池袋富士」に行きました。我が家からほぼ2キロの池袋氷川神社分の境内にあります。昔はいつで7mほどの山頂に登ることができたのだが、2011年の東日本大震災の折に山頂付近に亀裂ができて、現在は修理中。登ることはできなかった。

いまは周辺にマンションが立ち並んでいるが昔は谷端川の崖上の場所に立っていたので周辺からはよく見えただろうと思う。本日は裏手に回ることができたので小御岳神社の洞穴を見ることができた。

ところで私は超低山登山家であると同時に狛犬の愛好家でもある。この神社の狛犬はなかなかユニークな感じだ。いつもは片側だけ日が当たっていい写真が撮れなかったが、本日は夕方なので両方同じように撮ることができた。帰りは谷端川の谷に降りて、といっても緩やかな坂なのであまりよくわからないかもしれない。私は昔自転車で通勤していたので坂があることはわかっていたが・・・ 谷端川を渡ると東上線の線路に出る。昔はここに転車台があったが今は電車の車庫になっている。

淡路国府、総社、国分寺

淡路国
イザナギ、イザナギのご夫婦神が混沌の中に「天の沼矛」を差し込んで引き上げたときにたれた滴が固まってできたのが「おのころ島」である。この島の「天の御柱」を廻ってご夫婦は日本の島々を産む。最初が淡路島、次に伊予の二名島、隠岐の島と続く。地質学的にはもちろん何の根拠もないが神話では日本列島で最初にできたのが淡路島ということになっている。淡路島は「おのころアイランド」と称して観光誘致をしているが、神話の世界では(淡路島=おのころ島)ではない。淡路国府・淳仁天皇陵
淡路国府は今の南あわじ市にあったがその場所は特定されていない。府中とか国衙の地名は残っているのでそのあたりだろうとウロウロした。社殿はないがそこに国司館跡の石碑があった。その近くに淳仁天皇の墓所があった。淳仁天皇といってもわからないが、全国に国分寺を作るように命じた聖武天皇の娘である孝謙上皇が擁立したが途中で僧の道鏡を天皇に仕立てようとして淳仁天皇を廃位させた。天皇は淡路島に流され淡路国司に預けられたがすぐに暗殺された。国司館跡のすぐそばに墓所があるのには理由があったのだ。ちなみに淳仁天皇というおくり名は明治時代になってつけられたものである。

総社十一明神神社
淳仁天皇を祀る野辺の宮のすぐそばにある神社で扁額に、合わせた11神社名が掲げられている。しかしその神名は書かれてはいない。11神社名に淡路一宮の伊弉諾神社名はない。ということは三原郡(南あわじ市)の総社ということなのか、そのあたりのことは不明である。扁額には「當国総社」とあるが當国が淡路国を表すのかどうかはよくわからない。

国分寺
南あわじ市役所の近くに現国分寺と跡がある。寺の区画はわかっているが伽藍配置などはわかっていない。この寺が元の国分寺の後継寺院であり、本尊の木造釈迦如来坐像は重要文化財。丈六の釈迦如来は国分寺本来の本尊で、現在も本尊としているのは淡路国分寺のみである。

国分尼寺
南あわじ市八木新庄の稲荷神社付近に存在が推定されているが、確信はないという。

おのころ神社
淡路一宮は淡路市の伊弉諾(いざなぎ)神社であるが、淡路国府近くにはおのころ神社という巨大な赤鳥居を持つ神社がある。国府との関係はないだろうが観光資源としてはいいかもしれない。近くには天の浮橋跡などがあるが神話を使って町おこしをしようという感があって面白い。

沼島
「ぬしま」と読む。私はこの島が「おのころ島」のモデルだと思っている。それはイザナギ、イザナミのご夫婦神が回った「天の御柱」があるからだ。今回もこの天の御柱、上立神岩を見に行った。昔の人はこの岩を見て天の御柱の物語を作ったのだろう。この島こそ「おのころ島」だと確信した。

旧国 国府巡り 終了

昨年6月から旧国(大宝律令によって制定された国々、明治の廃藩置県まで続いていた)の国府(県庁所在地)と国分寺、国分尼寺をめぐってきました。旧国は五畿七道、68か国になります。
四国遍路は全部歩きましたが、今回はヒコーキ、新幹線、高速バスなど文明の利器を使って回ったので1年半でめぐりました。全国と言いましたが当時は東北、北海道、沖縄には大和朝廷の意向は及ばなかったのでその場所は含まれません。
私に国府巡りをそそのかした賀曽利隆さんは3か月で全部回ってしまいましたが私とは交通手段と財力が違っています。私は我が家の財務省にお暇とお金を頂いて行き来したので時間がかかりました。
国府巡りはブログに投稿していましたが、その成果を一覧表にしました。興味があればちょっと覗いてみてください。下をクリックしてください。