胆沢城とアテルイ

水沢には緯度観測所の見学にやってきたが、地図を見ると国道4号線の先5キロほどのところに胆沢の柵、胆沢城がある。何回かここを通り過ぎたことはあるのだがじっくり見たことはなかったので、暑い中駅で借りたママチャリをこいで胆沢城址に行ってみた。田んぼが広がるだけでなにもなかった。

胆沢の柵は大和朝廷が蝦夷を治めるために作った城だったが今は何も残っていない。蝦夷のリーダーはアテルイという者だった。中央政府からは軍隊が派遣された。蝦夷はただの農民たちだったので簡単に侵略できると彼らは思っていたが、数回の侵略戦争の結果は中央政府の敗戦(巣伏の戦い)だった。アテルイという知恵者が蝦夷にはいたからだ。平安時代になって坂上田村麻呂がアテルイとの戦いに出てきた。田村麻呂はアテルイを京の都に連れていく。和睦をするためだったが、田村麻呂が亡くなったためにアテルイは処刑される。蝦夷にはもう戦いをする力はなかった。胆沢城は政庁として蝦夷を抑えるための役所になった。

アテルイは日本歴史の中にはほとんど出てこない。それは蝦夷の歴史であっても日本の歴史ではないとされてきたからだ。でも最近はシネマ歌舞伎でも取り上げられ、若者の間ではけっこう人気が出ている。自転車をこいで4号線バイパスを水沢競馬場方面に進むと田んぼアートが出てきた。北上川沿いに物見台のような建物があった。ここがアテルイの砦で巣伏の戦いの現場だ。アテルイの農民軍が中央政府の軍隊を追いやった場所だ。目の前の北上川で大勢の戦士が溺れ死んだそうだ。物見台の上から見ると、ドキンちゃんなど田んぼに絵が描かれているている。アテルイの砦だったが今は平和の象徴みたいな場所。感慨に更けった。珍しく募金箱に自転車の借り賃ぐらいの募金をした。毎年続けてほしいので。