若狭で考えた! 神功皇后

我らの親の時代「三韓征伐」をした「神功皇后」は日本の英雄だった。明治初期、すべてのお札の肖像画は神功皇后だった。日本の朝鮮支配の根拠は神功皇后の業績にあった。明治以前、彼女は初代女王卑弥呼であるとも信じられていた。武運の神である八幡神(第15代応神天皇)の母親であることから武士や軍隊からも支持され、第2次大戦前まではスーパーヒロインであった。

しかし第2次大戦後、歴史書とされていた古事記・日本書紀は抹殺され神功皇后も卑弥呼も教科書から消えていった。朝鮮の歴史に朝鮮全土を古代日本が征服したという記録もない。子どもは15か月もお腹の中にいたとか、夫の仲哀天皇を殺してしまったとか疑惑が多く出て、実在人物ではないとされてしまった。今は年配の人に聞いても「だれ?その人?」という感じだ。でも私は神功皇后=卑弥呼という日本書紀の記述がどうにも気になる。

話を古事記に戻す。

ヤマトタケルの次男、仲哀天皇(第14代)は北九州の香椎宮にいた。なぜ天皇自らがここにいたのか不思議だ。神功皇后が神がかりになって天皇に「朝鮮を征服するように!」と伝えた。しかし仲哀天皇は無視して琴を弾いた。お付きの武内宿禰が天皇の様子を見に行くと、琴が鳴りやみ、天皇は亡くなっていた。神功皇后は自らが武装して朝鮮に向かう。住吉のかみさまは魚に命じて皇后の舟を一気に朝鮮に運ばせた。さらに波は内陸まで侵入した。驚いた新羅の王は日本に従うことを了承し、百済も高句麗もみなそれに倣った。これが三韓征伐である。

三韓を支配下におさめた神功皇后は、臨月のお腹に石を巻いて、生まれるのを遅らせ、凱旋後の北九州の宇美で子どもを産む。この子がのちの応神天皇である。普通に考えたら、朝鮮遠征中に授かった子どもだろうが、それじゃ我が子を天皇にする根拠がなくなる。きっと遠征前に授かったよう帳尻り合わせをしたのだろう。私はどうも武内宿禰という腹心の部下が怪しいと考えるが、それはゲスのかんぐりというものだ。

さて神功皇后は留守にしていた大和へ帰還することになったが、そこでは天皇のいないのに乗じて権力争いが起こっていた。皇后は一計を案じて「子どもは亡くなったので棺を持って帰る」と宣言して、瀬戸内海を渡って浪速に向かった。待ち伏せをしていた忍熊王との間で激しい攻防が行われた。皇后軍の将軍、武内宿根は相手を琵琶湖まで追いやる。忍熊王は湖に身を投げた。

神功皇后は大和に入って天皇家の政権を復活する。この時に天皇、当時としては大王になったとする説があるが、詳しくはどこにも記していない。武内宿禰は、亡くなったとされる御子をつれて若狭へ行き、仮宮殿をたてる。そこに気比神社の神が出てきて、名前を変えようという。

もしかすると本当に亡くなり、棺だけだったのではないか。だからどうしても代理人が必要だった。その代理人の名前は「イザサ和気大神」で、気比神社の神さまと交換したことにしたのだろう。もとの御子の名前がどこにもないのは、もともといなかったからではないか??

気比神社での名前の交換! なんの意味か分からなかったが、なんとかつじつまの合う話になってきた。旅の途中、時々立ち止まって考えてみる…現地集中思考は大事だ。これからは少しゆっくり休み休み歩いてみよう。