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氣比(けひ)神宮 |
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祭神 |
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伊奢沙別命 |
いざさわけのみこと |
気比の大神:御食津大神 |
仲哀天皇 |
ちゅうあいてんのう |
第14代天皇 |
神功皇后 |
じんぐうこうごう |
仲哀天皇の皇后 |
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4社の宮 |
東殿宮 |
日本武尊 |
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西殿宮 |
武内宿根 |
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総社殿 |
応神天皇 |
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平殿宮 |
玉姫命 |
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■北陸道の総鎮守 : 日本海側の敦賀湾の奥にある敦賀の町は天然の良港で、日本海側の港や朝鮮半島、大陸からの船が多く集まった。上陸したのちに琵琶湖を通って畿内に通じていた。まさに日本(?)の玄関口としてふさわしい町だった。
■明治時代に金ヶ崎駅がつくられ、後に敦賀港駅との変えた。ここからウラジオストックへは船便があり、ウラジオからシベリア鉄道でパリまで行くことができた。いまは新幹線で米原乗り換えだが、1912年には東京ー敦賀港駅まで直通の接続列車が走っていた。欧亜国際連絡列車といい、杉原千畝が発行した「命のビザ」を持ったユダヤ人がシベリヤ経由でやってきて、鉄道で横浜経由でアメリカに渡ったという。
■敦賀の街は三方が山に囲まれ、出入り口は港だけだった。海を結ぶ流通の時代には重要な場所だった。鉄道の時代になった時、海路と陸路を結ぶために、いち早く鉄道が引かれた。東京と敦賀には直通列車が通った。しかし陸上交通の時代になると三方の山々は大きな障害となった。敦賀と今庄の間のトンネルは日本最長だった。琵琶湖岸をとおる鉄道もとおり、現在は近畿圏、名古屋圏と北陸を結ぶ交通の要衝だが、通過駅になっているのが悩みである。
■気比神宮の主祭神は「伊奢沙別命」である。この神がどんな神かは不明。他に仲哀天皇と神功皇后が祭神になっているが、これはのちに記紀神話に合わせて祀ったものだ。本殿脇に四宮があるがこれも記紀神話によったものだ。 |
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天然の良港:気比神宮はその鎮守 |
気比の松原:御食津のイルカが打ちあがった。 |
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銀河鉄道のモニュメント:原発会社提供 |
敦賀の石炭火力発電所 |
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2013年:鳥居はかなり傷んでいる。 |
2018年6月撮影:新しくなった |
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参道と直交:外拝殿前の鳥居:形はおなじ |
外拝殿:奥に内拝殿と本殿:四宮がある |
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拝殿:本殿:四宮の位置、 |
天然記念物:ユーカリの木 |
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名水「長命水」手水ではない |
入り口手前の猿田彦神社 |
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拝殿東側の回廊:灯篭 |
拝殿西側にある九社の宮 |
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古殿と背後の天開山 |
絵馬堂には船の絵馬が多い |
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■古代から国際都市であった敦賀に作られたのが「角鹿神社」だった。今は氣比神宮の境内社だが、もとは角鹿神社が本家だったかもしれない。あるとき九州から神功皇后の子をつれて武内宿祢がやってきた。その子と氣比大神とが名前を取り換えた。祝いに気比の松原に多くの食料(イルカなど)が打ちあがった。名前を変えた子は都に進軍し、第15代応神天皇となっった。古事記にある記述だが、なぜ名前を変えたのか? なぜ敦賀に来たのか? 元の名前は何だったのか? すべては不明だ。
食料が天皇に捧げられたことから、角鹿は「御食津」(みけつ)の国とされた。
■その後、第26代継体天皇は応神天皇の5代後の孫として越前から敦賀を経て都に上がる。応神天皇の後継者は越前にいたことになる。実は第15代応神天皇も、第26代継体天皇も敦賀から、というよりも敦賀を経由して都に上ったのだ。その前は大陸か朝鮮半島からやってきたとの説がある。古事記の記述はかなり創作が多いが、敦賀は政治的にも重要な場所だったことはわかる。
■氣比神宮:神宮というのは伊勢神宮以外はないはずだが明治時代に、天皇家とゆかりのある神社ということで「神宮」を名のらせた。氣比神宮は明治28年からの名前である。 |
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古殿(土公)前の鳥居:奥に狛犬! |
鳥居奥の狛犬、日本的ではない:2016年 |
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敦賀の名のもと「角鹿」(つぬが) |
2017年4月 角鹿神社 桜 |
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1301年氣比神社を訪れた二世遊行上人は表参道大鳥居の西側が沼地で、参拝者が行き交うのに苦労しているのを見た。
遊行上人は自ら海岸から砂を運び、水の溜まった場所を埋め立てて、参道を整備した。
現在も神奈川県藤沢にある時宗の本山・清浄光寺(しょうじょうこうじ)の法主の交代の折には、「氣比神宮」で「お砂持ち」の儀式が執り行われている、そうだ。 |
遊行上人の行動に感銘を受け、俳句に詠んだのが松尾芭蕉だ。芭蕉は1689年、中秋の名月の夜に氣比神社に参拝した。
気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。(おくの細道)
「月清し 遊行のもてる 砂の上」
「ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月」
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一宮巡りを始めてから、もっとも気になる神社だった。その理由を箇条書きにしておく。
1.敦賀という場所は日本海文化圏を考えた場合、日本国の表玄関だった。
2.表玄関をとおして大陸文化が流入してきた。
3.気比神宮の神さまは渡来の神さまではないか。
4.応神天皇が気比の神さまと名前を取り換えた。なぜそんなことがあったのか。
5.現在の皇室の祖である第26代継体天皇も越前出身である。なぜ日本海側から天皇が出たのか?
6.織田信長は敦賀で手痛い敗戦を経験する。なぜ負けたのか?地の利がなかった?
7.北陸新幹線ははたして敦賀を通るのか? 地形的にかなり難しい!
などなど、あって2018年までに4回も訪れている。
これからも、注目していきたい一宮である。 |
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