|
|
射水(いみず)神社 |
|
御祭神 |
瓊瓊杵尊(ニニギ命)(二上神) |
|
もともとは二上山にあった神仏混淆の社寺であり、二上大権現を祀っていた。二上の神さまの由来はよくわからないが地元にある神様だったのだろう。地元の人たちはありがたい神さまということで、さまざまな祈りをしたことだろう。本来の神さまは二上射水神社に残っており、高岡城址の射水神社は明治になって瓊瓊杵尊をまつる新しい神社だと考えた方がいいかもしれない。 |
|
|
越中には一宮が4つもある。私的には立山山頂の雄山神社が一宮として最も適当だと思うが、地元ではそれぞれ自分のところが本家だと考えているようだ。
ここ射水神社も吾こそ一宮と名のっている。それは上の地図を見ても分かる通り、越中の中心の高岡城の本丸跡に立っているからだ。
しかしここに射水神社が引っ越してきたのは明治維新の後、明治8年(1875年)の9月だと記録されている。明治以前は神仏習合の二上大権現として二上山にあったのだ。
明治の神仏分離令によって射水神社は祭神の二上神をニニギ命とした。それまでニニギ命は祭神ではなかったが、天皇家の祖先を祀ることで、社格が上がって、こんな一等地に引っ越しができたのだろう。
いま越中一宮といえば射水神社とみなされているが、それぞれいろいろ苦労があったのだ。一宮と言えども安閑としていたら、いつの間にか乗っ取られてしまうようなことがあったのは事実である。 |
|
|
拝殿:外から本殿は見えない |
額が立派だ |
|
|
拝殿から一の鳥居を望む |
拝殿を望む。右手は豪華結婚式場 |
|
|
入り口のポスターから |
式場内部の喫茶室から |
|
|
狛犬なし、摂社末社もなし。 |
結婚式に特化した神社みたいだ。 |
|
『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』によれば、遷座の3日後、二上の氏子達は新社殿までの道のりが遠いことを理由に二上山麓の旧社地に分社を創立することを出願し、明治10年(1877年)許可を得て二上射水神社が残されることになった。このため、二上山内には射水神社の摂末社があり、また、古来から伝わる築山神事と獅子舞が二上射水神社のみで催されることになってしまった。
第2次世界大戦の終戦に伴い旧社格は廃止され、二上の射水神社が独立の神社となり、正式名称を「越中総社射水神社」とした。それに対して高岡古城公園の当神社は「越中総鎮守射水神社」と称している。
昭和50年(1975年)、日本書紀に天武天皇3年(674年)頒幣を賜った記述が見えることにより鎮座千三百年式年大祭が斎行され、昭和天皇より幣帛御奉納を受けている。
ところで瓊瓊杵尊は天照大神の孫で、高天原から日本に降臨した最初の神さまだ。奥さんは美人で名高いコノハナサクヤヒメ。姫の親は大山祇神。この神は瓊瓊杵尊に娘二人を差し出したが、容姿がすぐれない石長姫を追い返し、美人の妹だけを娶った。大山祇神は怒って、天皇が長生きできないようにした。ニニギ命は奥さんが妊娠した時に「一夜の契りで子どもはできない。俺の子ではない」という。怒った姫は「神の子なら火の中でも生まれる」と言って産屋に火をつけて猛火の中で3人の子を産んだ。
ニニギ命という人?・神? は思いやりなどまったくない神で、奥さんに比べて人気はまったくない。この神を祭神としている神社は少ない。この神の前で結婚をするのはいかがなもんかと思うが、そんなこと考える人は少ないのだろう。
|
|
|
|
両側はお堀:旧大手門の奥に拝殿 |
城跡公園:お堀 |
|
|
|
高岡大仏 |
ドラえもん:トラム・観光には便利 |
古城址公園内 |
|
ちょっと悪口になってしまったが、高岡の中心街に近く散歩、観光には大変良い場所だ。境内の式場内の喫茶室のお姉さんも親切でゆっくりできた。神さまにはかなり問題があるが、現代的にはいい神社であることは確かだ。 |
|