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住吉神社 |
ご祭神 |
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第1殿 |
住吉大神 |
三柱の荒魂 |
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第2殿 |
応神天皇 |
八幡大神:第15代天皇 |
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第3殿 |
武内宿祢 |
高良明神 |
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第4殿 |
神功皇后 |
応神天皇母 |
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第5殿 |
建御名方 |
諏訪明神:大国主命の子 |
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この上の写真のように本殿が5つ並立している。1370年に大内弘世により造営。国宝になっている。
室町時代の建築で、5社殿を合の間で連結した九間社流れ造り。檜皮葺の屋根に千鳥破風をのせ
春日造りと流れ造りを組み合わせたような建物だ。
大阪の摂津一宮住吉神社は3殿が縦にならび4殿が一つだけ横にあるという並び方だ。
春日神社は4殿が並立している。やはり神功皇后を祀る宇佐八幡は3殿並立。
しかし5殿で九間流れ造りというのは私は見たことがない。
西暦200年ごろ? 神功皇后が三韓征伐を行ったときに住吉大神が
「私の和魂があなたの寿命を守り、私の荒魂は軍船を導かん」
と教示した。そのおかげで神功皇后は無事に三韓を服属させた。
帰国後、住吉大神は「我が荒魂を穴門の山田邑に祀れ!」と神託した。
日本書紀にある記述なので、戦前はそれを歴史として教わっていた。
穴門=長門 と考えられ、この神社が日本書紀にある「住吉神社」とさえている。
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鳥居横:の池(国道沿いに濁池が) |
一の鳥居(?) |
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立派な楼門:石段 |
拝殿:五本の鈴緒が並ぶ |
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楼門下:ブロンズ狛犬 |
戦争で徴用、やっと復元 |
石段上 |
両方とも玉が |
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拝殿:毛利元就寄進 |
本殿:第1殿、第2殿 守護大名大内氏寄進 |
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神功皇后と武内宿祢 |
裏手にモダンなジャズ喫茶 |
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この神社へは新幹線でやってきた。新下関でとまる列車は少ないので、広島、新山口で乗り換えた。
しかし小倉まで行って在来線で戻る方がはるかに早かった。
新下関駅からは当然歩いて行くが、車道を行ったので30分ほどかかった。
住吉神社が一宮になっているのは筑前一宮、摂津一宮とここの三社である。
いずれも神功皇后が活躍したという神話が残っている。関門海峡の要衝を抑えていたのだ。
しかし、他の住吉さんが海辺に立つのに、ここは山の中である。海の神さまにしてはおかしい?
上の地図をみると、長府の街がもとは港で、そこから逢坂を越えたらすぐに住吉神社に出ることができる。
自分の足で歩いてみると、案外近い。長府の街には忌宮神社がある。
実はこれが神功皇后と仲哀天皇の豊浦宮だったそうだ。
私は長いこと豊浦宮が気になっていたのだが、一応これで納得がいった。歩いてみるものだ。
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住吉神社の裏手に小学校がある |
住吉(逢坂街道)バス停は国道) |
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すばらしい城下町 |
忌宮神社:豊浦(とゆら)宮 |
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長府の街は仲哀天皇と神功皇后が、三韓征伐をするときに宮を置いた。仲哀天皇は三韓征伐に反対したために神の怒りで亡くなった。三韓征伐ののちに戻ってきたとき、仲哀天皇のご遺体を祀った。神功皇后は韓国で身ごもった子を筑紫で産んだ。その子を伴って豊浦宮から浪速に向かって進軍した。
その子は亡くなったっと、偽装して大和に戻るが、息子は武内宿祢に連れられて敦賀に向かい、そこで名前を交換して大和に戻って来る。その子が第15代応神天皇である。何かあやしい。豊浦宮は聖徳太子の宮と同じ名前である。何か意味があるのか? 豊浦に来てみると応神天皇と神功皇后のことが分かるかと思ったが、そう簡単なんことではない。
長府の街には乃木神社があり、立派な町だった。埋立地には神戸製鋼の会社があり、巨大な煙突が建っている。いまは海は見えないが、この神社のまえまで昔は海だったのだろう。 |
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長府駅は町の近くにあるのかと思ったら、「ここから歩くのはムリだよ。駅には何もないよ!」と言われた。
今はバスで新下関へ出るようだ。 私は昔、山陽道を京都から小倉まで走ったことがある。
そのころ「厚狭」の駅前に泊まった。ちょうど新幹線の厚狭駅を作っている最中だった(1999年)。
厚狭から長府へはほとんど山陽本線沿いに走ってきた。まもなく本州も終わって九州だと感慨を新たにしたことを覚えている。
長府から鉄道は新下関に行くが、海岸沿いの方が近いので、長府の街には入らなかった。
昔は寄り道もせず突っ走っていたなあ!友人が「ただ走ってなにが楽しいの?」と言ったが、確かにそうだ。
もうちょっと寄り道人生を送ればよかったなあ。でも今になっては遅い。
これから、寄り道をしようと思っているが、今度はもう時間が無くなってきたなあ!
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