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牧聞(ひらきき)神社 |
ご祭神 |
大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと) |
天照大神のこと |
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薩摩半島の先端に標高924mの開聞岳がある。
海からすっくと立っった富士山型の火山である。
鹿児島湾に入る船からは灯台のような目印になる山だ。
海門、開門などと書かれることもあった。
そのすばらしい形をした開聞岳をご神体にしたのが枚聞神社である。
鳥居の後ろに開聞岳の山頂が見える。
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延喜式にはこの名がある。 |
開聞岳頂上の奥宮 |
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拝殿:正面に開聞岳 |
本殿:千木は縦削ぎ、鰹木5本 |
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大きな楠木 |
両部鳥居と随神社 |
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狛犬がいないので代わりに |
拝殿の格天井 |
創祀年代は不詳。
延喜式に枚聞神社と記されているが、多くの史料では開門神となっている。「綿積神社」「和多都美神社」すなわち海神様を祀る神社であるという史料もある。
また山幸彦が訪れた龍宮で、海神の豊玉彦の宮であるする伝承もある。むかしは海の神さまを祀る山の神という感じだった。
また、別の伝承によると、
景行天皇の御代、池田湖が陥没し、開聞岳が出現したと伝えられている。地図で見ると池田湖の形と開聞岳のふもとの円形は似た形である。
いずれにしても天照大神(大日孁貴命)は後に祀られた神で、古くは畏敬する高峰を神とあがめていたということだろう。天照大神はここでは関係ない感じがある。
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竜宮伝説があり、この絵櫛笥は玉手箱であるといわれる。竜宮城に行ったのは浦島太郎。浦島伝説でもある。 |
我が家は東の大山? |
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池田湖からの開聞岳:イッシーはいなかった |
西大山駅から:コ二トロイデ型火山 |
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最後の登りは急登、トロイデ型火山 |
ツバメオモトの群落があった |
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ちょっと軽装過ぎるかな? |
頂上:ジイ、バアの一行と外国人 |
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最近はヤマップという記録計測アプリを使っている。
2万5千分の一の地形図にルートを描いてくれる。
昔は自分でノートに記録を書いていたが
今は自動的にやってくれる。 |
1999年12月に日本縦断の最後を飾って薩摩半島の先端の佐多岬まで走った。最後の何とか道路は自動車専用で自転車や歩きは絶対できないといわれたので、海岸を回って崖を登ってトンネルの下に出た。かなり険しい道だったが、ここを自分の足で行かないと日本縦断は完成できない。日本縦断の人はゲートが閉まった夜中や明け方に通っていた。そんなこと許していいのかと思ったが、鹿児島の財閥の私有道路だったので、みな泣く泣く従っていた。私たちは地元の方に「私が教えたと言わないで!」と念押しされて、秘密の抜け道をとおった。
その後、われらのヒーロー・シェルパ斉藤くんが声をあげて、全国の徒歩旅行者、自転車旅行者に訴えた。私有道路は県に寄付されて一般道路になった。今は昼間に歩いたり自転車で通ることができるようになった。斉藤君ありがとう!
佐多岬は九州最南端。しかし海から来た時には佐多岬よりも薩摩半島にある開聞岳の方が先に見えてくる。開聞岳は924mもある。灯台や目印としては開聞岳の方がはるかに有利である。ということで根占から船で山川港に行き、開聞岳に登って、日本縦断終了とした。今回の開聞岳登山はその時以来、20年ぶりのことだった。
ちなみに鹿児島から佐多岬までの3日間は奥さんが鉄道、バスで先乗りして先導してくれた。伊座敷でその先は走れないという情報をくれたのも奥さんだった。当時はスマホなどと言うものはなかったので、「この道を来そうだ」と判断して待ってくれていた。時には外れてすれ違うことも何回かあった。そういえば疲れすぎて待っている奥さんの顔を見たのに通り過ぎたこともあった。「私の顔をわすれたの?」と大変怒られたことも思い出した。
その時は奥さんも開聞岳を難なく上ったが、今回はもう年なので、待っているといってふもとで3時間半過ごしていた。レストハウスは4時に閉まるとスマホに電話があったので、急いで駆け下りた。4時1分にハウスに到着。1分遅れた。 |
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上の写真は開聞岳登山の途中でみた長崎の鼻と大隅半島
ということで、薩摩一宮枚聞神社のレポートは終了。開聞岳のことに終始した感があるが、
枚聞神社は開聞岳をご神体とした神社。他の一宮でも立山神社、大物忌神社など
は山頂に社殿がある。この神社も大昔は山頂の祠の方が重要だったのではないか
と思っているのでこのような絵ポートになった。
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