■ 小松の町に入ってみた。ここには芭蕉の跡があった。下の写真は小松空港に入る直前の上空からの写真。古墳が見えるが、昔から人々が住んだ、豊かな地域だったことが分かる。「土地」は人々が長年かけて作ったのだ。
芭蕉さまは「奥の細道」の旅で、小松に滞在する。ここで「むざんやな かぶとの下の きりぎりす」と詠む。
 |

多々神社現在の祭神は、衝桙等乎而留比古命・・・・何て読むのかわからない?秋鹿郡多太郷の地名起源説話に登場する神。以前は、大田田根子命が祭神と考えられていたらしい。 |

兜の八幡様とも呼ばれる。この兜は、斉藤実盛の着用していたもの。実盛は、寿永二年源平の合戦の時、加賀の篠原の地で
73歳で討死にした平家の武将。 |
 |
 |

斎藤実盛
初め源氏の義朝に仕えたが、平治の乱後、平家の宗盛に仕え武蔵の国に居住した。幼少の木曽義仲の命を救った。平家敗亡の軍の時、手塚の太郎に討たれた。 |

武者の黒髪を訝って首を洗ったところ、白髪が現れたという。
謡曲では「あなむざん・・・」 芭蕉も最初は「あなむざん・・・・」としたが、「奥の細道」では「むざんやな・・」とした。 |
|

街中には神社がいくつもある。日吉鳥居!! |

なんかごちゃごちゃあって御利益がありそうだ。 |
 |
 |
 |
■那谷寺 白山信仰の寺・・・・・高野山真言宗・別格本山
神社だけでなく立派なお寺もある。行く先と反対だが、小松ドームの先の山の中にあるお寺に寄ってみた。 |
 |
|
■養老元年(717年)泰澄法師が、越前国に千手観音を安置したのが始まり。寛和2年(986年)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を見て、求める「観音霊場三十三カ所」はすべてこの山にあると考えた。西国33観音の一番「那智」と33番「谷汲」の山号から、「自主山厳屋寺」を「那谷寺」へと改名したそうだ。高野山真言宗の別格本山というが、真言宗とは違うのかな?
■南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃した。近世に入って加賀藩主前田利常が再建。この時の大工は気多大社拝殿を建てた山上善右衛門である。前田利常は那谷村付近を隠居領としたので加賀藩領となった。が後に領地交換で大聖寺藩領となる。
■元禄2年(1689年)奥の細道の松尾芭蕉は弟子の曽良と山中温泉で別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中参詣し、奇岩霊石がそそりたつ遊仙境の岩肌を臨み句を詠んでいる。・・・・・曽良の墓は先日訪れた壱岐島の勝本にあった。
・・・・・石山の 石より白し 秋の風 芭蕉 ・・・・・・
■文化財 多数あり。
本堂(大悲閣)- 岩窟内に造られた本殿、その手前の唐門、拝殿の3棟からなる。
三重塔 - 寛永19年(1642年)建立。護摩堂 - 慶安2年(1649年)建立。鐘楼 -
慶安2年(1649年)建立。
■私の興味はもっぱら奇岩遊仙境。これはなかなかすごい。白色の凝灰岩のようだが、どんな時代のものか、調べていないのでわからない。でもなかなかいい風景だ。 |
 |
 |
 |
 |

奇岩の上の自生稲荷神社 |

山上・鎮守堂 ここからの眺めがいい! |

奇岩・白っぽい凝灰岩 |
 広大な境内に西国33か所がある。 |
 |
 |
本殿;岩窟内に「十一面千手観音」 重文 |
三重塔 重文 |

自然智の奇岩 遊仙境・・・岩石の説明もして・・・・ |
 石山の 石より白し 秋の風 芭蕉 |
朝9時には小松に着いたのだが、周辺でうろうろしている間に午後になり、奥さまは「お昼てべていない」とご機嫌が悪くなってきた。木場潟の道の駅で「小松うどん」で遅いお昼。二人ともちょっと体重が増えてきているので、今回の旅行の食事は押さえておこう!! と決心したが、最初だけ。
今晩は和倉温泉の、かの有名な加賀屋・・・の隣の旅館に泊まった。仲居さんは連休を前にして5年ぶりに復帰したという我らよりも年上の方。食事はまあまあだったが、年寄りには多すぎるなぁ!! お隣の加賀屋の賑わいとは違って静かな夜を過ごすことができた。 |