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諏訪大社・下社 |
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御祭神 |
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建御名方神 |
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タケミナカタカミ |
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御祭神 |
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八坂刀売神 |
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ヤサカトメノカミ |
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諏訪大社:下社:春宮 |
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諏訪大社は全部で4社ある。諏訪湖の北側の甲州街道と中山道が合流する交通の要衝に下諏訪宿がある。下諏訪宿に諏訪大社下社の春宮と秋宮がある。両社の幣拝殿(へいはい)は同じ形でたっている。国の重要文化財。
この幣拝殿の内側には本殿があるはずだが、この神社には本殿がない。あるのは新旧御宝殿が二殿並立。7年ごとの御柱祭(2016年)にあわせて宝殿を新しくて、神さまがお移りになる。これが諏訪大社の遷座祭である。宝殿は伊勢神宮とおなじ平入りの神明造りだが、古いのを取り壊すのではなく並立したままになっている。格子の片拝殿から中をのぞくと右側の茅葺の屋根はひどく傷んでいる。次の立て替えまで持つかな?
下社はお互いに1キロほど離れているだけなので、神さまだけでなく我々も簡単に行き来できる。神さまお二柱は2月1日から7月31日までは春宮におられ、8月1日に秋宮のお移りになる。半年ごとの移動も遷座祭である。
7年ごとに左右の方への遷座、さらに半年ごとの春秋の遷座というように神さまは移動をする。他の神社と違って個々の神さまは忙しい。 |
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幣拝殿の前に神楽殿。太い注連縄 |
幣拝殿の中の御宝殿:古い方の屋根 |
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下馬橋(下に御手洗川があった。) |
諏訪大社下社春宮 |
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下諏訪駅にあった御柱の引綱 |
春宮境内へ:木落とし坂 |
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下諏訪駅は鳥居の向こう |
狛犬:吽 |
狛犬:阿 |
木落とし坂:境内から見上 |
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幣拝殿正面:ここに鏡が! |
春宮一之御柱 |
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前にも諏訪大社には来たことがあった。しかしその時にはこんなにも謎に満ちた神社だとは意識していなかった。
その1:春夏秋冬の宮があると思っていたが、下社に春秋宮、上社に前本宮があった。
その2:上社は諏訪湖の上流、下社は諏訪湖の下流にある。上社、下社はどういう意味があるか。
その3:社殿の四隅に建てる御柱の意味は何だろう?
その4:本殿がないのはなぜだろうか。大昔はご神体山に神さまがおられるので本殿はなかった。その名残?
その5:注連縄の太さは出雲大社と同じ。祭神は出雲系のタケミナカタ。しかし敗北の将のはず。
その6:なぜ全国に多くの末社を持つ大勢力があるのか。
その7:公式ホームページには、ご祭神は諏訪明神とあるだけで、タケミナカタ神の記述がない。なぜ?
本日は地元のNARUSEさんに案内していただいたので、その疑問のいくつかは解決したが、まだまだ謎の残る神社だった。 |
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諏訪大社:下社:秋宮 |
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下社はどちらかと言えば、秋宮の方が大きい。中仙道と甲州街道の合流点で交通の便もよかったのかもしれない。
幣拝殿の真ん中が本殿の役目をしている。鏡を拝顔することができる。幣拝殿の中には新旧の御宝殿が並立している。
春宮と秋宮はまったく同じ図面で作られているので、写真を見ただけでは春秋宮どちらだかわからない。
御柱祭りの際は、木落とし坂をおりた御柱は、春宮に落とされて、翌日正面の鳥居をでて街中を引かれて秋宮の坂を上っていく。
なので御柱の最終到達点は秋宮ということになる。 |
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境内にはご祭神は建御名方神とある。 |
甲州街道・中仙道の下諏訪宿 |
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坂を上ってきて、境内に入ってもさらに登る |
鳥居の正面に出雲型の注連縄の神楽殿がある |
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下諏訪駅前の御柱 |
上下はない。 |
ご神木は・・・ |
秋宮一之御柱 |
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巨大狛犬:吽 |
巨大狛犬:阿 |
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諏訪湖は日本の最も大きな断層線である、糸静線と中央構造線が交わるところにある。糸静線は西日本と東日本を分ける地質構造線。中央構造線は西日本の外帯と内帯を分ける地質構造線だ。いずれも活断層で、大きな地震を起こすパワーをもつ。 |
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幣拝殿の中の御宝物殿:古い方! |
出雲大社のような大注連縄 |
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朝はやく新宿を出て、鈍行で下諏訪駅まできた。青春18切符がまだ残っていたからだ。
11時15分に下諏訪駅に着いて、さてどこから廻ろうかと考えた。まず前にも来たことがある秋宮に向かった。
朝友人のNARUSEさんに電話したが、待ち合わせ場所は決めていなかった。坂を上がって行くと、「やあ!」とNさんがあらわれた。
どうしてわかったのか不思議だが、諏訪大社はパワースポットとして有名なところ。Nさんは氏子の代表である。私が来るコースなど、手に取るようにわかるらしい。
建御名方神が出雲から敗走して来る前には、土着の神さまがおられた。地元の人たちはその神さまを慕っている。御柱祭はその神さまへのご奉仕らしい。境内に祭神の名前は書いてあるが、公式ホームページの隅々まで読んだが、どこにも神さまの名前は書いていない。諏訪明神とあるだけで、この神が建御名方神であるとはどこにも示されていない。明治の神仏分離令までは、諏訪明神で通ってきたので、明治政府の古事記の神を祀るようにとの方針には従わなかったのかもしれない。 |