024    相模国一宮2     鎌倉市雪ノ下
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鶴岡八幡宮

祭神  応神天皇 第15代天皇
比売大神 なぞの姫神・本来の祭神
神功皇后 第14代仲哀天皇・皇后
  鶴岡八幡宮は相模の一之宮と称されるが、歴史的にみれば寒川神社が本来の一宮であることには異論はない。1063年源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請したもので、武家の守り神として崇敬された。宇佐八幡、石清水八幡と並んで三大八幡宮と言われる。(鶴岡ではなく筥崎宮との説もあるが) しかし他の八幡宮と異なり、明治政府の付けた社格は最初は県社だった。仏教化した八幡宮寺に対して明治政府は神仏分離を強く求めたからだ。

  鎌倉で幕府の跡を探すのは大変だ。政治の世界は変遷が目まぐるしいが、宗教的な文化の息は長い。鎌倉幕府が作った鶴岡八幡宮は、いまでは鎌倉を代表する施設で、世界中から多くの観光客を集めている。
  
   地図で見てわかるように、海から八幡宮に向かう参道は若宮大路とよばれ、ほぼ南北に向かっている。大鳥居と呼ばれる一の鳥居、二の鳥居から段葛(だんかずら)と呼ばれる一段高い参道、三の鳥居から太鼓橋を過ぎ、舞殿の前に出る。

   静御前が舞った舞殿から大きな石段を上る。石段の左手に大イチョウがあった。陰に隠れた公暁(くぎょう=こうきょう)が三代将軍源実朝を殺した。源氏の支配はここで終わり、鎌倉幕府は奥さんの実家、北条氏の支配が続く。その北条氏の支配も15代で終わると政治の中心は再び京都にもどり、鎌倉は田舎の町に戻る。

  しかし政府は移っても鎌倉五山と呼ばれる寺院や鶴岡八幡宮はのこり、鎌倉文化は続いて行き、今は古都として大勢の観光客を集める観光地となっている。石段の上から振り返ると、今通ってきた道をはるか海まで望むことができる。鶴岡八幡宮でゆっくり歴史を振り返りたいが、いまは人が多すぎて、考えに耽る時間も場所もない。
  私は鎌倉アルプスにあがって、若宮大路の先の海を見ながらのんびりするのが好みだ。  

みごとに一直線状に若宮大路が伸びている。 鎌倉に入るには7か所の切通=峠しかなかった!
北側には鎌倉アルプスが連なり攻め込むのは難しかった。、今は天園ハイキングコース。
一の鳥居、終戦後に復活 横須賀線が通る:向こうに八幡宮
寺はほとんど北鎌倉。キリスト教会は多い 二の鳥居:ここから段葛(だんかずら)
段葛:燈篭、桜もすべて新しい! 太鼓橋:神さまの橋
舞殿:静御前も舞った! 石段脇:公暁が隠れたイチョウの木跡
大階段の脇の狛犬 日差しの加減で両方同じ向き!
拝殿:派手ばでしい色で外国人には人気 回廊に神輿:お金がかかっている
しとみ戸:中は暑そう!  鶴岡八幡の上に立つ丸山稲荷! 

鎌倉の町は外国人観光客でにぎわっている こんな店が案外賑わう

昔の八幡宮の絵などないだろうかとインターネットを探した。すると左の絵があった。大石段の下には多宝塔をはじめ仏教施設が数多く並んでいる。

これは「がらくた置場」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/
というサイトにあった。


※ このサイトはある「老人」が暇つぶしに作ったもので、役に立つ情報はほとんどありません。著作権などの腐った主張は致しません。s_minaga

「がらくた」どころかすばらしい資料があった。暇つぶしにできるものではない。とんでもない識者が、かなり力を入れて作っているサイトだろう。

私はありがたく、左の絵を参照させてもらった。
【がらくた置場】から得た知識。
鶴岡八幡宮寺には12の坊があったというが、明治政府の神仏分離の政策により、12坊の僧侶はすべて復飾(還俗=僧が俗にもどること)し、彼ら自らの手で仏像を破壊し、建物も壊した。個人に渡ったり外国に流出したものもあるがほどんどが灰燼に帰した。

明治政府の最大の愚策で、日本の貴重な財産が灰になった。海外の日本の美術工芸品を取り戻したいなど言う人がいるが、海外で保管してもらったおかげで生き延びたのだ。感謝しなければならない。(私の感想)

派手派手しい八幡宮に外国人観光客は満足している感じだが、私はかなり違和感を感じた。
ここを相模の一之宮としてお参りしていいのだろうか? やはり相模一之宮は寒川神社なのだろうと。
神社の方に聞いてみた。すると「一宮と称してはいません!」とのことだった。たしかに公式ホームページにも一宮と称してはいない。
ただし「全国一宮会」(任意の団体) には加盟しているので一宮なのだろ。
一之宮を名のらなくても、お客はいくらでも来てくれるというおごりのようにも感じる。
一之宮というのは、厳密なものではないので、まあ目くじらを立てるようなものではないか!
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