アイコン 5月11日(日)
晴天
佐世保→長崎道路経由→吉野ヶ里→肥前一宮→長崎市街→グラバー園
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◆今回の旅のメインテーマは吉野ヶ里だった。これまで青森の三内丸山、鹿児島の上野原、山梨県釈迦堂など縄文遺跡をいくつか見てきた。弥生遺跡は登呂や唐古・鍵遺跡など、そんなにたくさんは見ていなかった。今回は日本最大の弥生遺跡をぜひ見てみたいと、我が奥様がおっしゃっていた。私は10数年前に来たことがあるが、その後どうなっていたかをみたかった。
◆邪馬台国が九州にあったという説に、私は与している。ここが邪馬台国だったという俗説もあるが、年代はあわない。卑弥呼さんよりもかなり古い時代のものだ。さすがにこの遺跡のキャラクターは「ヒミカ」ちゃんになっている。ヒミコちゃんにするわけにはいかなかったのだろう。(卑弥呼をヒミカと読むこともあるらしいのだが)
◆それにしてもこの時期に九州にはもう立派な階級社会ができあがっていたのだ。まだ周辺を発掘調査中だが、まだまだこれぐらいの規模の遺跡はでてくるだろう。その中の一つが邪馬台国なのだろう、私の説はだんだん真実みを帯びてくる。奈良大和にも古代の階級社会ができていたが、そのもとは九州、さらにおおもとは韓国朝鮮にさかのぼることは、ほぼ確実のようだ。
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 吉野ヶ里は国立の史跡公園になっている。十分に予算があるらしく、立派な家屋が復元されている。それも一つや二つではなく数十という単位だ。

 私が十数年前にみたときには望楼が一つ、家屋が数戸あっただけで、研究施設もプレハブの簡素なものだった。そこで画期的な発見がいくつもなされていた。いまはどうなんだろう。精力的に発掘が継続中だが、入り口の土産物、レストランなどの方に力点が行っているような気がする。まあ子どもたちの教育に寄与するという意味ではいいことなのだろうが、実際の研究もがんばってもらわなければ。

 2008年の2月に北墳丘墓が公開された。この墳墓は方墳だと思うのだが、巨大だ。これだけの墓を作るような社会があったというのは、かなり驚きだ。
◆上の写真は南の内郭の様子、係員のみなさんが吉野ヶ里音頭(?)を練習していた。この家の中はかなり広い。三内丸山の家屋とはかなりの違いがある。右は南内郭からみた北の内郭の遠景。こちらの建物はまた一段と大きく優雅で、よほどの位の高い方がいたのだろう。
◆下の墓も甕を二つあわせた甕棺だが、こんな大きな甕を作る技術もすばらしい。甕はごく薄く作られている。
◆大きな台形の盛り土は墳丘墓とよばれるもので、上から見ればほぼ真四角のようだ。この中に多くの甕棺が埋まっていた。日本各地にある古墳の先駆けなのだろう。内部にはいることができるようになっているが、そこにある甕棺はなかなか立派で、装飾具をいれた甕棺もあったという。
◆ここに葬られている一番ふるく、一番位が高かった遺骨は2100年前のもの。これは卑弥呼よりも300年以上も古い。卑弥呼のひいばあさんよりも古い。
 吉野ヶ里の範囲は発掘によりさらに広がる。この日枝神社の森にも遺跡はあるのだが、この神社は祟りを押さえるために作られたものだから、今の時代でも発掘の人たちは躊躇するようで、まだ手つかずになっている。

 日本の歴史を考える上で、祟りということを無視することはできない。そんな意味で、この神社はおもしろい。しばらくは発掘できないだろう。
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肥前の一宮・・・・與止日女(よどひめ)神社 
 古い遺跡がある場所は、古い時代から開けていたところだ。そこには心の故郷であったお宮があり、たいてい一宮、二宮などと称されていた。

 左手の神社は肥前一宮、與止日女(よどひめ)神社である。與止日女は別名豊玉姫の命、トヨというのは卑弥呼の後継者である。ここは肥前だが筑後川沿いは豊の国で、現在は豊前、豊後になっている。やはり、卑弥呼が出てくるなあ。
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◆宿を長崎市内に取ったので、鯉のぼりがはためく與止日女神社を辞して、ついでに白玉まんじゅうを買って、高速を走る。
◆長崎は坂の町、尾道よりもはるかに広い範囲が市街になっている。耕して天に登る、ここでは酔っぱらったら昇天するという感じだ。比べると怒られるかもしれないが、トルコのアンカラのゲジェコンド、スラム街ににた風景だ。
◆夕食はホテルのおまけのサービス、チャンポン券を使って中華街で食べた。お昼は吉野ヶ里で豪華佐賀牛ランチを食べたので、夕食は軽くすませた。
◆腹ごなしに眼鏡橋方面までお散歩。そうだ、その前にグラバー園をみたのだ。昔はグラバー邸で、英国人グラバーさん屋敷だったが、その後三菱さまが買い取り、三菱100周年の記念に長崎市に寄贈されて、公園になった。今は外国人居留地の建物が移築され、高台から長崎港を見下ろす絶好の展望台になっている。
◆グラバー園の下には大浦天主堂がある。カトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物で、国宝に指定された唯一の洋風建築。正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」
◆浦上天主堂:昭和20年8月9日、この天主堂のすぐ近くに原子爆弾が落とされた。ほとんど爆心地。大浦の天主堂に次ぐカトリックの教会堂。しかし何回も迫害にあった歴史を持つ。とどめは原爆。しかし今また立ち直って、浦上の地にそそり立っている。ある意味では長崎の原爆記念碑だろう。
グラバー園から長崎湾をみる。
眼鏡橋。水に映った橋をみるとめがねのように見えると言うが、ちょっと間延びしているなあ。上に立つのは我が奥様。 
浦上の天主堂 大浦の天主堂
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5月10日(土)
暴風雨
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5月11日(日)
晴天
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5月12日(月)
まあまあ晴天
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