上野国府 総社 国分寺 尼寺

上野国は「うえの」国ではなく「こうづけ」国と読む。前回の下野は「しもつけ」で、もともとは両方合わせて毛野国だった。毛の国という名前は「両毛線」「上毛新聞」などに残るがこの地方を毛州ということはない。上野国は上州、下野国は野州である。
上野国は親王任国(天皇の子が太守)であるために次官の上野介が最高の官位であった。この地には古くから多くの古墳が残り、律令時代の後も上野国は重要な国で、上野介の名前は権威があった。
私は榛名山の山麓からの眺めが気に入り30年ほど前に上野国に移住すべく土地を確保し週末農家もどきをしていた。しかし高齢になり移住はあきらめた。長年の上野国通いの間に多くの友人もでき、今回は地元のKOさんご夫妻に案内していただいた。

上野国府
国府の位置はおおよそ分かっている。しかし「ここだ!」と断定できる発掘はまだない。小さな宮鍋神社の境内に国庁の案内板がある。詳しく説明してくれる資料館が宝塔(ほうとう)山古墳と蛇穴(じゃけつ)山古墳との間にある。この地には総社古墳群(6-7世紀)があり東山道を通して畿内と多くの交流があったことがわかる。

上野国総社
宮鍋神社の南に現在の総社神社がある。国庁のそばに国司が祀る総社が作られていた。この地域の神社を集めてある。有力な六社を集めた六所神社が多いが、ここでは九九社とあり数多くの神社を勧請している。ちなみに上野国一宮ははるか西にある貫前神社で、全国の一宮と一緒に祀られている。

国分寺 国分尼寺

2万5千分の1の地形図に土地利用を示した地図である。茶色は畑地、水の流れは用水路である。火山灰の土地なので水路は重要だった。国分寺は整備され版築(はんちく)の塀も復元されているが、関越高速道路をはさんだ国分尼寺は石柱が立つだけでまったくの畑。

この七重の塔は国分寺わきにある資料館のなかに置かれている。どの国分寺にも七重の塔が作られたが今残っているものはない。

ところで上の関越道の写真。ここは土手ではなく橋になっている。たぶんこの辺りには遺構が埋もれているに違いない。将来発掘作業ができるようにと関越高速道路を持ち上げて地表での作業はできるようになっているそうだ。

さすが文化を重んじる上野国、前橋市と高速道路公団。ちょっとごますりかな。

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