七世紀までは東北地方は蝦夷の住む地であった。大和政権は勢力を拡大し和銅元年(708年)に出羽郡を置いた。さらに712年陸奥国から置賜、最上郡を譲られて出羽国ができた。733年に出羽柵(秋田城)が現在の秋田市に置かれたが蝦夷の反乱によって国府は酒田市の城輪(きのわ)柵に後退した。秋田城に国司は置かれず武士の長である城介(のちの征夷大将軍)が鎮守した。
従って出羽国府は秋田城跡と城輪柵跡であるとされている。
国府1 秋田城跡
秋田駅から秋田港にすすむと八橋の帝石前をとおり高清水の台地上に出る。八橋は日本には珍しい油田のあったところである。台地の上に護国神社があるがその地域は古代の秋田城があった場所である。その発掘現場の一角に歴史資料館が作られている。
ブラタモリでこの場所が紹介された。その時の注目施設が古代の水洗トイレである。古代の渤海国の施設が使ったことがあるそうだ。その証拠は当時日本にはなかった豚食民族特有の寄生虫の卵が見つかったそうだ。タモリさんも喜んでいた。
総社
総社神社という名前の神社はあるが、国府に付属した総社ではないだろう。たくさんの神さまを祀った神社なので総社と名乗ったようだ。もとは千秋公園のなかにあったそうだ。
国府2 城輪(きのわ)柵跡
出羽柵(秋田城)は奈良時代には秋田の高清水地区にあったが蝦夷の反撃が激しく、出羽柵は再び元の酒田市の城輪柵跡付近まで後退せざるを得なかった。秋田城には秋田城介(のちの征夷大将軍)を残し城輪柵で出羽国司が政務をとった。
遊佐駅から南の田畑の中にある。5月4日に訪れたが雪解けの鳥海山が雄大に見えた。蝦夷は鳥海山を越えては,やってこなかったのだろう。
総社
城輪柵跡の近くに城輪神社があった。この神社が総社かと思ったが、酒田市にある六所神社が総社であるとの資料があった。訪問時には、しらなかったので先に進んだ。機会があたら行ってみたいが、酒田まではちょっと遠い。来年の鳥海山登山の時に行くことにする。とりあえず城輪神社の写真を入れておきます。
出羽国 国分寺 国分尼寺
出羽の国分寺は山形県東根市の東根国分寺とされている。しかし今回は友人の旅行に便乗したので、あちこち探しまわることはできなかった。総社と同様に次に予定することにした。
国分尼寺は当初から建設されなかったと思われる。
山形の歴史から:
国分寺薬師堂は山形市薬師町に境内を構えています。国分寺の創建は天平13年(741)聖武天皇が仏教の力により国家安寧を導く為、各国一宇づつ設けた寺院の1つで行基菩薩が勅命により開山したと伝えられています。国分寺は国府の近くに設けられる例が多く、当時の出羽国の国府は秋田城(出羽柵)に置かれていた事から当初は現在の秋田市周辺に境内を構えていたとも考えられますが、記録上も遺跡などもそのような形跡が見られません。延暦23年(804)に秋田城が停止された事から、庄内地方に出羽国府が移ったと考えられ、国分寺も随行したと思われますが、その場所についても旧東田川郡渡前村、旧飽海郡本楯村、旧最上郡豊里村など諸説あり、酒田市の城輪柵跡が出羽国府の有力地である事から酒田、鶴岡付近とも考えられます。
記録的には承和13年(846)に安慧(天台宗の高僧)が国分寺に講師として派遣された事が記載され平安時代には寺運が隆盛していた事が窺えます。平安時代末期から鎌倉時代初期に国府が山形市北方の府中に移った記録がある事から国分寺も府中周辺に移り、東根市にある東根国分寺も当初は護国山薬王院国分寺と称していたと伝えられています。