伯耆国府、総社の狛犬は地震で落下した!

 伯耆の国は大山の麓に広がる地域である。国府国分寺は今の倉吉市にある。倉吉市は天神川と小鴨川の合流地域にできた盆地で、流域には三朝温泉など温泉郷がありその玄関口として賑わった。現在は鳥取県で3番目の人口を持つ市であるが人口は4.5万人(22年3月推定)と少し寂しい。しかし白壁土蔵がいまも残り、観光客はおおい。

国府 国庁
倉吉駅は白壁土蔵の街の中心から離れている。さらに国府地区は国府川を渡った先にある。したがって倉吉駅から国府遺跡に行くには交通の便がない。それを予想して私は携帯式の軽量(6キロ)自転車を用意した。これはなかなか快適であった。倉吉駅から国府地区までの道沿い風景を入れておく。

国府地区に国庁跡の史跡があるがただの原っぱで遺構跡はみあたらない。地図をみて想像するしかない。すぐ近くに法華寺畑遺跡があり、門や囲いが復元されているので、想像の根拠にはなる。

伯耆総社 国庁裏神社
国庁の案内板にもある通り国庁の中にあった神社である。「裏」にあったと読めるが「うち」というのが正解である。しかし今は「こくちょうり」神社と呼ばれる。もともと総社大明神などといわれたこともある。出雲に近いこともあって大貴己神、少彦名神を祀っている。

狛犬も何対かある。昔の写真を見ると台座の上にしっかり立っていたるが、実際に行くと、地面に置かれているものがいくつもある。私の推測だが2016年におこった大地震の被害ではないか。どういうわけか私のカメラではうまく撮れていない。国庁裏神社の建物の写真は賀曽利大明神からお借りしたものである。

国分寺跡
倉吉駅から自転車をこいできた。かなり暑い日で、国分寺の瓦が展示してある地域センターを見つけた時にはほっとした。場所を聞くと坂を昇った上にあるという。冷たいものを飲んで坂を昇る。そこには国分寺遺構があったが、じいさんばあさんがゲートボールに興じていた。「史跡の上でプレーできるなんて豪勢ですね!」というとみなさんきょとんとしていた。山上憶良の歌碑があった。憶良は国司として伯耆に赴任してここで過ごした。同じ万葉歌人の大伴家持も各地の国司を務めた。しかし憶良はこの地にかかわる歌は残していないという。政務に追われていたのだろうか?

国分尼寺跡 法華寺畑遺跡
伯耆の国分尼寺はいい。国分寺と並んで作られていたが発掘状況は国分尼寺の方が良好で、尼寺(法華寺)を中心として伯耆国府の遺跡が保存されている。法華寺という名前は総国分寺=東大寺に対して総国分尼寺=法華寺(ともに平城京にある。)からきている。国分尼寺を見つけるには、法華寺(法花寺)という地名を見つけることである。

伯耆の国府は思いの外、倉吉駅から遠かった。年取って体力がなくなったせいなのかもしれない。倉吉の白壁土蔵の街、賀茂神社の狛犬など見逃してしまった。また来る機会があればぜひそちらも見たいものだが・・・

追加:国庁裏神社の狛犬の落下について倉吉市の教育委員会に問い合わせをしたところ、すぐにお返事を頂いた。鳥取大学では石造物、特に狛犬については全県の調査をしたそうだ。その結果を示したPDFもいただいた。私の疑問は解消した。ありがとうございました。

・・・・お問い合わせの狛犬についてですが、ご指摘のとおり、鳥取県中部地震で国庁裏神社の狛犬は破損していますが、賀茂神社の狛犬は破損していません。その違いとしていくつか要因があるかもしれませんが、その一つとして狛犬の石材(来待石)の劣化が考えられます。来待石は凝灰岩質砂岩で加工しやすい反面、風化し軟質化しやすいという特徴があります。国庁裏神社と賀茂神社の狛犬はいずれも来待石ですが、劣化の程度が異なっていた可能性があります。鳥取県中部地震により狛犬だけでなく来待石製の灯籠や石仏などが数多くが破損しました。製作から100年以上経過したものが多く、劣化が進んでいたものと考えられます。・・・・

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