筑前国・大宰府・国分寺

 7世紀の筑紫国にはヤマト政権の出先機関である大宰府がおかれていた。663年白村江の敗戦で、大宰府は防衛ラインの最前線になり「水城」がつくられたりした。もともとは西の都として諸外国との交流、祖国の防衛などの任に当たっていた。しかし菅原道真など都での政争に敗れ大宰府に左遷される貴族が何人もあり、反乱などが起こったため大宰府の役目は縮小された。律令制の施行とともに筑前、筑後の国に分割され、それぞれに国府がおかれ国司が派遣された。筑前国府はたぶん大宰府の広大な敷地にあっただろうが、発掘はされていない。

大宰府 国府?
西鉄線の二日町駅から都府楼駅の間に大宰府の敷地があったようだ。今も朱雀などの地名も残っている。大宰府という駅は天満宮の参道にある駅で大宰府跡からは少し離れている。

総社不明なので榎社
総社の存在自体がわからない。一宮は住吉神社だがここからは離れた博多区にある。近くにある太宰府天満宮は総社にはなりえない。大宰府の敷地の端に菅原道真が住んだという榎社があるが、もちろんこれも総社ではない。ということで総社は不詳だが榎社の写真を入れておく。

国分寺
都府楼駅から水城小学校のわきの国分寺通りを上がっていくと突き当りに八角灯篭がありその奥に国分寺がある。国分寺わきには国分寺跡の礎石がいくつもあり広い敷地も確認できる。さらに奥には博物館(文化ふれあい館)がある。博物館の庭には国分寺にあったはずの七重の塔の復元模型があった。なかなか立派でいい。

国分尼寺
尼寺跡の礎石は一個だけ。地区の施設に保管してあるそうだ。

太宰府天満宮
左遷されて大宰府に来た菅原道真だが、怨霊になって都人に危害を加えるようになった。しかし今見ても大宰府は立派な都だったように思う。菅原道真はそれなりにこの地を楽しんでいたのではないかと私は思うが、怨霊になってもらわないと困る人たちがいてでっち上げた話ではなかろうか。それはともかく、今年は三大天満宮、京都の北野、防府、大宰府と廻った。今は怨霊などどこにも感じないいい神社だ。コロナでまだ海外旅行は解禁になっていないのだが太宰府天満宮は浅草以上の賑わいだった。しかし聞こえてくる言葉は韓国語ばかり。まあどこの国の人でも賑わうのはいいことなのだろう。

観世音寺
空海は遣唐使として長安の都に行くが20年滞在予定を2年で切り上げ戻ってくる。見つかると死罪なのでここ観世音寺に膨大な経典とともに隠れ住んだ。この経典の価値を様々な方法で表し嵯峨天皇のお許しを得て京都に戻ることができた。空海の生涯においてこの観世音寺は重要な場所である。空海ファンとしては何としても見ておかなければならない寺である。

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