私は狛犬愛好家である。インターネットには様々な狛犬があり、同好の志がおられるらしい。私はそこらで出会った狛犬を楽しむだけだが、これがけっこうおもしろい。最近廻った出雲系の神社には逆立している狛犬がけっこう多いことが気になっていた。きっと中央政権に歯向かっていた象徴ではないかと思って感慨にふけっていた。ところが丹波一宮の出雲大神宮の写真を整理していたところ、下記のような立札を見つけた。逆立とはちょっと違うかもしれないが、兼好さんの皮肉屋精神がよく表れている。私の感慨も、「考えすぎだよ!」ということかもしれない。立札を読んで、兼好さんに皮肉られたかもしれないが、まだ納得はしていない。人間のやったことなので、逆立狛犬には何か理由はあるはずだ。
徒然草第36段 出雲大神宮(亀岡)の立札
丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかや 知る所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまたさそひて、「いざたまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて、具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。御前なる獅子・狛犬(こまいぬ)、背きて、後さまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。むげなり」と言へば、おのおの怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん」など言ふに、上人なほ床しがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めて習ひあることにはらん。ちと承らばや。」と言はれければ、「その事に候。さがなき童どものつかまつける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、据ゑなほして去にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
吉田兼好:徒然草・第236段 (出雲大神宮にて 2012.11)