敦煌から西域(サイイキ)が始まる

 

敦煌の博物館にこんな地図があった。これだけ大胆に作った地図はなかなかない。しかしこれでシルクロードのおおよそのルートは分かる。字が小さいのと読めないので、私のわかる範囲で文字を載せてみた。

長安は中国の千年の都。秦の始皇帝陵もあり玄宗皇帝と楊貴の宮殿もあった。日本から遣唐使が派遣されたのもここ長安で、阿倍仲麻呂、空海などもここで学んだ。現在の西安にはほんの少しだけ長安の名残がある。中国は政権が変わると前の王朝の建造物を破壊することで前の歴史を途絶させる。いまの西安は千年の都長安を引き継いだ町ではないそうだ。 長安の城門から旅人は西へ旅立つ。河西回廊をとおって蘭州で黄河をわたり酒泉を通って敦煌に出る。南側は祁連(きれんさんみゃく)山脈、北側は万里の長城が境しているので、ほぼ一本の道になっている。今回の旅で西安からのヒコーキはこの祁連山脈の上をずっと飛んで行った。山また山どころではない。ヒコーキで一時間以上にわたって人跡、動物跡は何もない山々が連なっていた。山が終わったところから砂漠が始まる。そこが敦煌の町だった。

敦煌から西へ大きく分けると3本の道が通っている。19世紀ドイツの地理学者のリヒトホーフェンは著書「China](1877年)で東西交易路のことをザイデンシュトラーセンと呼んだ。「さまよえる湖」を探した探検家ヘディンが、それを英語でシルクロードとよんだ。

漢の武帝(BC2世紀)が張騫を派遣して西域を調査させた。しかし張騫は匈奴にとえられ13年間も幽閉された。しかし生きて戻り、情報をもとに匈奴を追い払って西域に進出した。その最前線が敦煌であった。漢の最前線として、万里の長城を延長し、敦煌の近くの玉門関まで長城が作られた。漢時代の建設なので「漢の長城」と言われる。高さは3mほど。河岸に沿って作られているので、西方から見るとかなり高く見える。(下の写真は張騫の像と漢の長城)

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