■4-5 日向四代目、神武の船出

「宮崎」という地名は宮崎神宮の前にある町としてつけられた名前で、明治以前には「日向」と言った。宮崎「神宮」とある通り、初代の神武天皇を祀る神社である。昭和天皇をはじめとして皇族の方々の参拝も多かった。しかし江戸時代には地方の小さな社だった。明治維新の王政復古「神武創業の始め」の大号令がかかり急に脚光を浴び、明治六年には神武天皇の最初の宮として特別待遇をうけ、八年に国幣中社、十八年には官幣大社へと破格の大出世をした。

2013年にここを訪れるまで、日向一宮は当然この神社だろうと思っていたが、実際は少し北にある都農(つの)神社が一宮だった。都農神社は天津神ではなく国津神の総帥大国主神を祭っている。このことはどう説明すればいいのか。宮司さんは
「都農神社の大国主神にお祈りをして、神武さんは美々津から船出したんですよ」
と説明してくれた。

今でこそ宮崎神宮の方が格上だが、神武のころにはまだ都農神社しかなかったのだ。美々津港から神武軍は船出した。港の脇には「日本海軍発祥の地」が立っている。   耳川河口の立磐神社にある神武天皇が座ったという腰掛岩に触ってみた。大きな岩だ。神武天皇はさぞ身長も高かったのだろう。
近くのレストランの展望テラスでは、地元のおじさんが
「神武天皇の船はあの岩の向こうを回って出て行ったんだ!」
と沖の岩を指して、見てきたような説明をしてくれた。
この地では神話は完全に歴史とされている。神話を身近に感じて生活する。心の中にご先祖様を描きながら生きるのは悪いことではない。なかなかいい感じだ。

ワカミケヌ命(のちの神武天皇)は兄の五瀬(イツセ)命と相談をした。
「ご先祖の天照大神との約束の地である出雲に行こう」
日向を発って、まず豊(トヨ)の国の宇沙(うさ)に向かう。豊前の宇佐神宮のことである。辺鄙な田舎に住む兄弟が、巨大国家の出雲に向うのだから、各地で仲間を集めなければならない。当時宇沙には大きな勢力があった。

イツセ命と神武の兄弟は、宇沙から出雲に行くために関門海峡を抜けて、北九州の岡田の宮に向かった。しかし彼らは岡田の宮から再び関門海峡をもどって瀬戸内海にはいり、安芸、吉備に向かう。
関門海峡は狭くて流れも速い。今でも航海の難所である。そこを古代の船で行き来するのはあまりにも危険が伴う。なぜ関門海峡を行きつ戻りつをしたのだろう。

情報が少なかった田舎出身の神武軍は玄界灘に面した岡田の宮で
「国の都はいまでは出雲から大和に拠点を移っている」
という新情報を得た。
日本海沿いに出雲に行くためにやっとのことで関門海峡を越えたが、目的地を大和に変えて再び海峡を戻って瀬戸内海をへて浪速に向かったのだ。神武が難所の関門海峡を行き来したことへの私の説明である。

この後、神武天皇は安芸のタケリノ宮、吉備の高島宮を経て大和へ向かう。その間の話は次章に譲る。

この章では天孫降臨した日向の国での三代にわたる歴史をたどった。しかし日向各地を回ってみて、宮崎県の高千穂以外の「歴史」はとってつけたような気がして、違和感がある。それは天照大神、大国主神の物語がまるで感じられないからだ。私の「三輪の神紀行」に日向三代はなくてもいいかなと思った。

しかしよく考えると神話というのは時間と距離は関係なく様々に話が展開するからおもしろいのだ。初代天皇のお父さんはワニから生まれたなど突拍子もないことが描かれるのが神話である。ワニは爬虫類だから子どもは産まないなどと目くじらを立てることはないのだろう。

第4章 日向三代はこれで終了。日向三代の活躍の地は広かった。おかげで南九州各地を走り回ることができた。かなりの時間はアメリカ大陸を走って横断したジャーニーランナーの下島伸介さんに助けてもらって実際に走った。自分の足で地面を測るといろいろなものが見えてきた。もう一人忘れていた。アキレス腱断裂後松葉杖で韓国岳に登った時には三輪倫子さんにも介助をしてもらった。それぞれ感謝!

第5章では瀬戸内海を大和に向かう神武天皇の話である。その他にもう一つ九州から大和に向かった神功皇后の話にも踏み込もうと思っている。乞うご期待!

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