12年3月29日(木)〜4月2日(月) 対馬と壱岐に行って来ました。その時のメモです。 llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll

■対馬の厳原へ
 博多港へは空港から天神まで地下鉄、天神北から9番バスでベイサイドプレイスへ行った。年度末なので、珍しいほどの混雑(窓口の人の話)だった。事前に電話予約をした時には、「いつでも乗れますよ!」とのことだったが、ちょっと焦った。ジェットフォイルは250人ほどの定員だがほぼ満員。10時50分発で壱岐島経由で対馬厳原港には13時につく。速くていいのだが片道8000円は少々高い。さらにヒコーキと同じでシートベルトをしていなければならず、船旅の優雅さはない。帰りはちょっと時間がかかっても海を見ながらフェリーにしよう。宿も交通手段も決めなかったので、奥さまは不安そうだが私にとっては気楽だ。外国旅行とは違って日本語が通じるのだから、地元で評判を聞いてから決めたほうがいい。
■お昼はアナゴ丼
厳原港に降りて、対馬は思った以上に広いことに気付いた。上対馬から韓国までは50kmしかない。展望台に上れば夜はプサンの夜景がはっきり見えるそうだ。今回対馬に来た第一目標は全国一宮巡拝の一環だが、それよりも前に国境最前線を見た方がいいと判断しレンタカーをかりた。トヨタやニッサンではなく地元のレンタカーは「わ」ナンバーではなかった。配車係りのおじさんは、北の方で評判のいい民宿「たちばな」を紹介してくれた。お昼は地元の方に聞いて「志まもと」で対馬産のアナゴ丼。昼食後一路、北へ向かったが、途中に対馬の一宮「海神神社」があることがわかったので、寄り道。小船越でアマテル神社、扁額の漢字は見たことがない文字だ。アマテラスと関係があるのか?? さらに日本で一番古いお寺と言われる梅林寺を見学。遣唐使が最初に帰ってきた時に作った寺だというが、それらしいものは何もなし。ちょっと期待外れ。


4月1日から就航のフェリー「きずな」

対馬酸のアナゴ丼

これでアマテル神社と読む

■和多都美神社
 リアス式の多島海である浅茅湾をすぎると、「和多都美神社」という標識があった。「わだつみ」は海の神様。ここが一宮の「海神神社」だと見当をつけて向かう。事前に見てきた地図の位置とは違うが、観光バスも数台きており、大きな赤い鳥居がある。高台から見下ろすと海の中に鳥居が続いている。いま評判の安芸の宮島も海中鳥居があるが、ここも同じで、海から来る神様を導くように神殿に向けて一直線に5本の鳥居が連なっている。なかなかいい感じだ。さらに祭神であり海の神様の娘であるトヨタマヒメの墓があるという。神社の背後の森の岩と巨木の組み合わせがその墓だ。たぶんこれは磐座(いわくら)だと思う。いい神社を発見(?)して嬉しがっていたが、どこにも一宮の表示はない。しかし次から次へと観光バスがやってくる。降りてくる人は全員が韓国人観光客。これには驚いた。大昔海の神様は韓半島からやってきて、いま観光客はまた韓国からやってくる。バスの運転手さんは日本人。聞いてみるとやはり和多都美神社と海神神社は別だそうだ。 和多都美神社があるこの町の名は「豊玉町」トヨタマヒメにあやかったものである。一宮の「海神(かいじん)神社」も祭神はトヨタマヒメだが、豊玉町ではなく、そちらは峰町の木坂という場所にある。

■対馬一宮 海神神社
 小さな御前浜の奥に鳥居があり背後にはなかなかいい木坂伊豆山がある。鳥居の奥に社殿があるのかと思いきや、石段が天にも届くぐらいに上がっている。直角に曲がってさらに上へ、数えてみたら274段あった。こりゃなかなか手ごわい。社殿は和多都美神社よりも立派でなかなか風格があるし、末社もきちんと整備されている。拝殿前のおがたまの木の薄ピンクの花弁が落ちている。この神社の宝物館には国の重要文化財である「新羅仏」があるそうだが、だれもいないので見ることはできない。韓半島から来た神仏は、日本との関係からいえば百済からのものだと思っていたが、新羅との関係も深かったのだろうか? 
ホームページに神社のページも作りました。http//

■比田勝の先、民宿
 対馬訪問の第一目的を果たし、さらにもう一つ、すばらしい「和多都美神社」にお参りできたことは満足すべきこと。時計を見たらもう6時近い。車をとばして、といってもところどころ狭い道なので時間はかかったが、日暮れ前に比田勝の近くの泉集落の民宿「たちばな」についた。東京よりも45分程度は日暮れが遅い。気持ちよく迎えて下さった。いい思いができそうな宿だった。


和多都美神社 海に立つ鳥居

和多都美神社、背後にトヨタマヒメの墓

全部韓国人観光客

対馬一宮:海神(かいじん)神社

274段を神輿が下ってくる

背後が木坂伊豆山 

■国境の町
教えられたとおり最初に韓国展望所にむかった。鰐浦のトンネルを抜けたところから上り坂、韓国風の門があり、その先にまた韓国風の展望所がある。ここが最先端かと思っていたら目の前に島があり、レーダーが設置され自衛隊の基地がある。今日は見えないが、晴れていたら目の先50キロにプサンの町が見えるそうだ。まさに指呼の間だ。民宿のおやじさんは仲間とカヌーでプサン前行き来しているそうだ。そういえば友人のyoshi岡さんも漕いで行ったっけ! まさに日本の最前線、ここに立つと私でも緊張感を感じる。しかし観光客は私たちだけ。もう少し日本人も国境に関心を持つべきだろうに。

展望所の下には自衛隊の施設。
まさに国境最前線!
■漣の化石
 本日は南部の厳原にとまる予定なので、途中いくつかの見どころを回って、南端の豆酸(つつ)崎へ急ぐ。比田勝の港を少し回ったところに網代という港がある。その海岸に漣痕(れんこん)を見に行く。むかし四国徳島で漣痕化石を見たことがある。そんな規模だろうと思っていたが、これがすごい。頁岩と砂岩の重なった互層になっているがその表面はなみの模様になっている。大昔のなぎさに波がやってきて波紋を残す。その形が消えないうちに火山灰とか砂嵐とかがやってきてその形を覆ってしまう。長い年月そのままになっているうちに化石化していく。その地層が隆岸、最近浸食されて元の渚の面が現れてくる。そこには波の模様が当時のままに残っているというあんばいである。

■対馬の地層
 対馬は山また山で海岸部も急峻でなので、内陸にしか道は作れない。昔は舟で行き来するか、険しい峠道を越えるかしかなかった。いまは各所にトンネルが掘られており、各集落の行き来は簡単になった。地層は頁岩、砂岩の互層部分が多く、地層に沿って崩れやすく、切り開いたところは大規模に土砂崩れが起きている。自然保護の方たちから見たら、とんでもない道路づくりと言われそうだが、地層のせいだからどうしようもない。手を入れなくても地滑り、崩壊は続いているはずだ。一回ずれた所は50年もすれば落ち着くだろうが、それまでは家を建てたりしないでのんびり待つ方がいい。
 砂岩、頁岩は板状に割れる。うまく加工すればブロックのようになり土台石や石塀に使える。場所によっては強い風に備えて屋根に乗せているところもある。

■琴(きん)の大いちょう
 昨日は幹線道路である382号線をとおったが、本日は市道39号、通称もみじ街道を南下する。舟志乃久頭神社を見る。これも何やらパワースポットになりそうな神社だった。さらに下り、琴(きん)集落で大イチョウをみる。樹齢1500年、日本最古だそうだが、・・・琴を過ぎると、ときおり小さな港に出る。港の周辺には集落がある。昔は集落をつなぐ方法は舟しかなかっただろう。
■金田城
 佐賀から浦底にでて国道382号に合流。小船越、万関橋をすぎ、さらに対馬空港をとおり金田城(カナタノキ)跡を見に行く。韓国百済の白村江の戦い(663年)に敗れた中大兄皇子は、唐・新羅連合軍が追撃してくるのを恐れ、国の守りとして築かせた城で、国指定の特別史跡だ。結局は攻めてこなかったが、それから600年ほどたった1274年文永の役で、対馬は元の軍勢にめちゃくちゃにされた。一説によると男は全員殺され、女子供は捕虜にされ、対馬人はいなくなったと言われるが
細道を車でむりやり入ったが、そこからさらに1時間近く山登りをしなければならないので、この先は城跡愛好家の若者yama辺くんにたのもう。
■小茂田神社:元寇の悲劇
1274年文永の役、神風が吹いて、元の大軍は追い払われたと聞いていたが、その前に対馬、壱岐はめちゃくちゃに蹂躙されていた。小茂田浜では元の大軍に対して当主の宗助国の軍84騎が奮戦し、全滅したそうだ。84人じゃどうしようもないよな! 対馬は全土を蹂躙され、男は殺害され、女子供は捕虜にされたという。日本勝利というが、壱岐対馬の多くの人が犠牲になったことは忘れてはならないだろう。その追悼の神社が小茂田浜神社だ。宗家の当主は戦死したが、九州にいた宗一族は明治の時代まで対馬を支配をつづけた。10万石の大名になったが山がちで耕地は少なく、石高はせいぜい2万石しかなかった。朝鮮との交易の特権を持っていたが、徐々に衰退し、朝鮮通信使の接待も重荷になり対馬は困窮を極めるようになったという。

琴の大イチョウ  

■石屋根 石の屋根は重たそう!
小茂田浜神社の近くの椎根には石屋根の高床倉庫が並んでいる。対馬の石は板状に割れやすい。これを利用したものだが。重いので頑丈な柱が必要だったろう。最近のものは瓦屋根になっている。小茂田浜からも山の中をトンネルでくぐるため、海岸線沿の道はまったくない。安徳天皇陵墓参考地というのがあった。壇ノ浦で二位の尼に抱かれて、8歳で入水したのではなかったかな?
■豆酸(つつ)
さらに南下して豆酸(つつ)の集落から豆酸崎へいく。断崖の上には灯台があるが、最南端ではない。最南端は浅藻集落の先の神崎である。宮本常一の「忘れられた日本人」の中に、「梶田富五郎翁」という文がある。昭和25年に宮本先生は、同郷の周防大島久賀(くか)からやってきた漁師で、豆酸村の浅藻集落を作ったころを知る唯一の人、梶田さんに会いに行き、明治のころの話を聞かせてもらった。神崎の沖一里に大瀬があり、そこが鯛の漁場だった。久賀の鯛漁師はここまで行き来していたが、明治20年ごろには浅藻に納屋を建てて定着したようだ。周防大島のとなりの沖家室(おきかむろ)からはブリ釣りの漁師がきた。さらに佐連(され)から瓦師を連れてきて瓦屋根を作ったそうだ。「対州名物トンビにカラス、屋根に石」と言われたが浅藻には瓦屋根が並んだと言う。
 宮本先生の名前は対馬では有名だ。昨日の民宿のおやじさんも「宮本さんは対馬の恩人だ」と話していた。対馬新聞というローカル紙が宮本常一の連載を続けており、宮本先生の名前が対馬の人の間で話題になっているのだろう。いいことだ。
■西山寺
 20数年前に私は対馬に来た。その時厳原の西山寺に泊ったことがある。当時はユースホステルをやっていたからだ。今も宿泊できると言うので泊めてもらうことにした。立派な別館が建てられており、旅館のような雰囲気。料金も民宿並みになっている。朝食のみ、夕食に出て行きたいのだが夕方から風雨がひどくなってきた。目の下にある厳原の港も雨に煙って見えない。雨風の音が激しい。明日は壱岐に行く予定だがフェリーは大丈夫だろうか。ご住職に聞いたら「この程度ではなんでもないですよ」とのこと。地元の人たちは揺れに強いのか。

とりあえず、対馬の項目は終わり!! 壱岐は次ページ 

■別れ
 3月31日(土)、朝8時50分厳原発の博多港行のフェリーに乗った。年度末の最後の日、高校生、自衛隊など多くの人が博多に向かおうとしている。対馬高校のブラスバンドが校歌を演奏し、島を出る卒業生を送っている。マストには正月にしか使わない旗だそうだが、それがたなびいている。船員さんも今日は特別な日だと配慮したのだ。普段の出港時とは違う、まさに感動的な場面に立ち会うことになった。ゆっくりと船が向きを変えるときに埠頭の先まで見送りに来ていた若者が、この寒いのに服のまま海に飛び込んだ。船の上の若者たちが泣きながら大声を出している。また次の若者が飛び込んだ。切り立った埠頭にはつかまる所もない。どうやって戻るのか心配していが、ロープを付けていた。発作的に飛び込んだのではなく、ちゃんと準備をしていたので一安心だが、身をもって別れを悲しんでいる心情はよくわかった。船の上では小学生らしい子どもが両親に付き添われてしゃくりあげながら泣いている。どれぐらいこの島で過ごしたのか知れないが、その土地を離れるのはつらいことなんだ。つらいことだけど、ここの若者には新天地での希望がある。
無理やり地元を離れさせられた三陸、福島の人たちの子どもたちは・・・・・。
■壱岐芦辺港
 厳原で乗って芦辺で降りたのは私たちだけ。他は全部博多港に向かった。ここでの出発は厳原とは違い、静かなもの。港がいくつもあることと、ジェットホイルなら1時間で着くことも関係しているのだろう。この島は博多港に近いので、ちょっと移動という感じで悲壮感はない。島自体も平地は多く、田畑も豊かだ。昨日の対馬の細い道に懲りて、壱岐では軽自動車を借りた。しかしこちらはどこも道はよく、排気量の小さい軽ではちょっと不満で、小型車にすべきだった。レンタカー会社はフェリーの降り場から目の前。
■ウニ丼・壱岐神社
 港の近くにまっ白な鳥居が立っている。まず最初は壱岐神社に行く。昨夜の暴風雨はウソのような青空。白い神社の鳥居の上には桜が五分咲き。対馬はまだまだだったが、こちらは暖かい。壱岐には多くの神社があり、古墳や遺跡も多く、神話の島とも称されているようだ。しかし最初の壱岐神社は護国神社で神話に出てくる神様を祭ったものではなさそう。しかし街の中にあり、高台で景色もいいので大勢の人が訪れる観光地スポットになっている。高台から見ると北の方の海岸の地層が赤い。壱岐の島は古い火山が作った島で、対馬とは成り立ちが違うようだ。神社のすぐ前の料理屋さんでウニ丼をたべる。今はシーズンではないが、少しならあるとのことで特別に作ってもらう。一人の時はいつもコンビニ食だったが、奥さまと一緒だと食にうるさくなる。あと何回食べれるかというタイムリミットが近づいているのだからまあいいか。
■壱岐は見どころだらけ
 壱岐の一宮は天手長男(あまのてながお)神社だ。全国一宮巡りをやっている者としては、まず一番先に行かなければいけないのだが、もうウニ丼に誘われたので、順序などどうでもよくなった。さらに車を走らせるととんでもない数の古墳、遺跡が出てくる。壱岐は見どころだらけ、2日間の滞在ではとても回れないほどだ。壱岐辞典を500円で買って、予定を作る。
◎ 280基もあるという古墳、まあ10基ぐらいは見なければ!、
◎ 弥生時代の三大遺跡と言われる原の辻(はるのつじ)遺跡もみなけりゃ!、
◎ さらに2010年にできた一支国博物館にも行かなけりゃ!。
◎ 壱岐の土台石という壮大な地層も見なけりゃ! 
◎ 式内社だけで24社もあるという。神社巡りも大変だ!

■壱岐は古墳だらけ!
◆芦辺港から10分ほど走った道路際にまず「鬼の窟古墳」が出てくる。大きな岩で横穴式の石室が口をあけており、中をのぞくことができる。入口しか見えないので全体の形はわからないが、壱岐では最大の円墳だそうだ。築造年月は6世紀末から7世紀の豪族の墓だという。
◆同じ道をさらに西に進むと左手に「双六古墳」の案内板。「そうろく」と読む。細道をちょっと入ると古墳らしい古墳が見える。整備されて芝山になっているのでその形もよくわかる。これは前方後円墳、長崎県では一番大きな前方後円墳で長さは90mある。後円部分は非常に急傾斜で高さは10mもある。とても歩いては上れない。一見すると円墳に見えるが後ろに回ると(どっちが前だろう?)前方部分が見える。
 前方後円墳は大陸や朝鮮半島にはなく、日本独自の形式だ。ということは大和や吉備にある巨大な前方後円墳の影響を受けて作られたもので、そのころすでに大和文化圏のもとにあったことがよくわかる。この古墳には感激した。
◆亀石の十字路を右折すると風土記の丘がある。駐車場も完備した施設であるが、民家園の一隅に「掛木古墳」がある。駐車場に石室の口が開いているので、皆さん中に入っている。これは円墳で、6世紀末から7世紀にかけて作られたもの。くりぬき型の石棺が特徴だそうだ。壱岐の岩は硬くないので細工はしやすい。
◆風土記の丘を200mほど亀石の方に戻り、左手のほそ道に入ると「百合畑古墳群」がある。駐車場有。ここにはごちゃごちゃといくつもの古墳がある。前方後円墳と円墳だが、一族の長は前方後円墳でそれよりも身分の低い貴族(?)は円墳だったと言われているそうだ。我らのような一般庶民はもちろんこんな墓は持てない。
◆この古墳群のわきの細道(車は入れない)を下がっていくと「笹塚古墳」がある。直径66m、高さ約13mの墳丘は最大級。円いお盆を伏せた上に丼を伏せた様な形をしているそうだが、ヒノキ林に覆われているので全体は見えない。奥の玄室にある組合式石棺からは、亀の形をした飾り金具や馬具、辻金具、帯先金具などが出土した。中央権力とつながり、対外交渉に関する身分の高い人物の墓と思われると書いてある。国指定の史跡。

■神社巡り
 市の観光協会が出している「壱岐事典」がある。そこには森羅万象に神やどる「神々の島」として、島にかかわる33の神様と延喜式内社24社、壱岐7社、パワースポット神社の計39の神社が紹介されている。これでもまだその一部らしい。実際に歩いてみると、そこここに大小の神社がある。まさに神々の島だ。さまざまな神様に頼る・・・・・それだけ厳しい生活を強いられてきた歴史があったのだろうと感じた。ちょっと気になった神社をメモしておく。
◆月讀神社
 京都松尾神社に月讀神社があるが、その元宮が壱岐の月讀神社だそうだ。壱岐から京都に神様を分霊したことから日本の中央に神道が根付くことになった。ここ月讀神社は神道発祥の地とされているそうだ。パワースポットとして大勢の若者が参拝するが、たたずまいからみるとそれほど由緒あるとは思えない。江戸時代に調査した橘三喜がここを月讀神社と比定したが、本当は男嶽(おんだけ)神社が月讀神社ではないかとの説もある。男嶽神社のご神体の磐は磁石を狂わすパワーがあるとのことで、こちらもパワースポットになっている。月讀神社には行ったが、男嶽神社には行かなかった。
◆鏡岳神社
 この神社は壱岐事典には載っていない。島の南の初瀬にマグマの岩脈があるというのでそちらに行った時に見つけた神社だが、この石段が半端ではない。数えたら317段、上っただけでご利益がありそうだ。祭神はイザナミノミコト、速玉男命(ハヤタマオノミコト)、事解男命(コトサカオノミコト)の三柱。イザナギはわかるが、コトサカオ命は聞いたこともない。ハヤタマオもコトサカオもイザナミの子ども。我が家の近くの板橋熊野神社の神様はここと同じく三柱である。有名なのは本家の熊野速玉神社は速玉男命を祭っている。壱岐事典にはないがなかなかいい神社で、社殿も美しかった。
◆天手長男神社(壱岐一宮)
 壱岐の主要道路である国道382号線を郷ノ浦から15分ほど走ると柳田の右手の丘にこの神社はある。田んぼを挟んだ丘には天手長比賣神社がある。そちらは鳥居と灯篭だけを残し本殿は天手長男神社に合祀されている。前は男神社と比賣神社の間に流れる川を天の川とみたてて「天の川」伝説があったという。嫁入りした今はそんな話はない。
一宮めぐりが目的で来たのだから一番先にお参りに行かなければいけなかったのだが、壱岐事典を見ると本家一宮は興神社らしいと書いてある。「興」は国府の意味で、国府の倉のカギを持っていたのが興神社だからという理由らしい。またも興神社には行っていないのだが、天手長男神社も捨てたものではない感じがする。私は表記の通り壱岐一宮として、全国一宮のひとつにしたい。 
 祭神は天忍穂耳命(アメノオシホミミ)、天手長男命、天鈿女命だが、それぞれがどんな関係かわからない。オシホミミ命さんはあまり聞いたことがない神様だが、アマテラスの長男で天孫降臨したニニギ命のお父さんだ。アマテラスに日本国(?)降臨しなさいと命令されたのだが、その国は乱れているので息子のニニギを行かせますと言って逃げた神様だ。神話にはこんなひきょう者もいるのだがそれでも神様は神様なのでお祭りする神社もあるのだ。
元寇以前の書物によれば壱岐の一宮の祭神は思兼命だったという記述があるそうだ。要は元寇によって壱岐の国は壊滅状態になり、文化も途絶えたということだ。
 社殿は一宮にしては少々みすぼらしい。ちょうど宮司さんもおられたので、お話を聞く機会もあったが、常駐はしておられないようだ。桜も咲きはじめいい気分のお参りができた。173段の石段の上から天手長比賣神社の鳥居が見える。大昔は一年に一回しか会えなかったが、こちらに合祀されたのでいまは中睦まじく一緒にいるのだろう。めでたしめでたし。
◆石造弥勒如来坐像
この神社の敷地から先ほどの橘さんが石造弥勒如来坐像を見つけた。高さ54.3cm、最大奥23.4cm、膝張29.0cmで、国指定重要文化財になった。しかし発見された2体とも、盗まれたが、1体は奈良の骨董品屋に2000万円で売りに出されていた。それを奈良博物館の関係者が発見し買い求め、奈良国立博物館に収めたそうだ。よかったが、もう一体はどこに??
■住吉神社:
 郷の浦から国道382号線を進むと天手長男神社があり、さらに北に進むと住吉の信号の手前に立派な鳥居が見える。鳥居をくぐると下りの石段があり、目の下に次の鳥居が見える。神社の鳥居をくぐるとたいていは石段を登るようになっているのに・・・・、そういえば上野の国の一之宮貫前神社も同じだった。鳥居を下ったところに拝殿がある。下り参道が上野の一之宮の特徴と書いてあった。ここもそういう由緒を作ればいいのに。
 鳥居をくぐると神橋があり正面に拝殿があり、背後の高台に本殿がある。拝殿はできたばかりで美しいが、後ろの本殿が見えないのが残念。工事前には石垣の上に鎮座する本殿を直接拝することができたそうで、その時の写真が残っている。日本の神社は立派な本殿があっても、その前に拝殿があって、その中からでないと見えないようになっている。彩色されている外観もよく見えない。見えないけどすごいんだ、というのが奥ゆかしいのだろう。
 住吉さんの祭神は住吉三神すなわち、底筒男、中筒男、表筒男で、航海・漁業・商売繁盛・子授け・芸能上達の神様だから、願い事をする参詣人も多い。私はもう子授けも縁結びも必要ない、いまさら芸能もないので、とりあえず家に帰るまでの航海の無事をお願いする。やみくもに全部お願いするよりも一点集中した方が御利益もあるだろうから。立派なクスノキ、直角に曲がったオガタマにも頭を下げて戻る。
■印通寺港、網元旅館
 今回来る前に唯一予約をしてきた旅館だ。奥さまは交通や宿泊の予約がないと不安で落ち着かない。私は出たとこ勝負の方が好きなのだが、奥さまに配慮し、インターネットで評判を見て、この旅館はお料理がよく、お風呂も眺めもいいというのでネットで予約!
評判通りおいしい料理。ブリカマは12sの塩焼き、12sのカンパチのお刺身、サワラなどなどこんなに食べたら腹がパンクというほど。海の幸に堪能していたら「遠くから来てくれてサービス!」とアワビのお刺身。ふだん旅館に泊まることがないのでだんだん不安になる。福岡の方が、「この料理は福岡では5000円はする。東京なら1万円はくだらない」と話してくれる。だんだん酔いがさめてくるが、もちろん予約の料金通りだった。お料理は満足以上で、私たちの年齢、身分にはちょっと不相応。お料理が残ってもったいないのでしばらくは旅館には泊まらないことにしよう。
4月1日(日)
■初瀬のマグマ岩脈
 今日もいい天気。まず壱岐の最高峰である岳ノ辻にいく。最高峰といっても213mである。車で上まで行くことができる。郷の浦港はよく見えたが、多少もやがかかっているので本日のメインである原の辻遺跡はよく見えなかった。そこから方向を定めて南端のイルカ鼻を目指す。初瀬港の背後にいい山が見える。この頂上に前述した鏡岳神社がある。しかし私にとっては神社はおまけ、民家の脇を通り、港の外海岸に出ると白い岩石の崖がそそり立っている。白い岩石は流紋岩で流理構造がはっきりしている。先に噴出した流紋岩の割れ目に沿って真っ黒なマグマが貫入している。黒と白のコントラストがすばらしい。その接触部分はもっと焼けただれているかと思ったが、それほど激しい感じはない。噴火時期は第四紀だから、地質時代ではごく最近のことだ。以下のページに地質解説がある。一般の人にとってはなかなかよい資料だ。
http://iki.iinaa.net/rekisi/rekisi01.html

■猿岩 壱岐を横切る断層の端っこ
 昨夜の宿で一緒になった福岡の先生が、「イルカパークの近くの地層を見ましたか?すごいですよ!」というので、初瀬のマグマの後は地質見学。郷の浦を経由して柳田から湯ノ本温泉へ向かう。壱岐は火山の島だから当然温泉もある。湯の本温泉から黒崎半島の先の名所「猿岩」に行く。駐車場からみるとまさにお猿の顔。近くに寄ってみると灰色の岩石でできているのだが、説明板によると玄武岩となっている。玄武岩はもっと黒っぽいと思っていたのだが・・・・・。マグマが冷えるときにできる柱状の節理が見える。
この岩石の噴出時期は1500万年前の新第三紀だそうだ。
 上の壱岐の地質解説をみると猿岩の下に壱岐を横切る大断層があるのだそうだが、よく見ないままここを後にした。事前にちゃんと調べておくべきだった。残念。

■壱岐の土台石 すごい地層が見えた
 昨夜聞いたとおり勝本の港を通り過ぎてイルカパークの方に向かう。野球場の角をまがったところから前方に大きく削られて地層が露出しているのが見えた。勝本層は3500万年前の古第三紀(最近はパレオジンと呼ぶようになった)の海に堆積したもので、新第三紀(ネオジン)になって隆起してきたものだ。全体は茶色っぽく見えるが、下部は黒色と白色の頁岩(けつがん)の互層になっている。海岸部を少し進むと圧倒的な高さの崖が出てくるが、ここの石が壱岐の土台石と言われている場所である。この勝本層を貫いて火山の岩石が噴出しているのだから、勝本層の方が壱岐の土台ということになる。土台石の命名は正しいのだ。
 落石があるのではないかと、少々おびえながら近寄って、触ってみると黒い方は硬そうだが白い方は粉を吹いているような感じ。いずれも薄くはがれやすいので本のページから名づけられたものだ。最近有機性のオイルシェル(油母頁岩)から簡単に石油が取り出せることから頁岩が注目されている。ここの頁岩はそのようなことが調べられているのだろうか? 
 土台石を眺めながら、夕食の残り物をたべる。私と一緒にいると昼飯を食べさせてもらえないと思っている奥さまは、事前にどこかで食料を調達している。本日も山の中、海岸部ばかり走っているのでコンビニも食堂も見つからない。そこで隠し持っていた非常食の登場である。よその人にとってはそれほど面白くないかもしれないが、私にとっては土台
石が見えたことは大変ラッキー。冷えたご飯でも満足満足!

■聖母宮 日本の聖母はマリヤではなく神功皇后だ!
 勝本の港に戻り案内板に沿って細い路地を入るとそこには聖母宮があった。丘の上にあるのかと思っていたら、港のすぐそば、防波堤に囲まれた場所だった。壱岐は長崎県にあるのでキリシタンゆかりの宮と誤解を受けるが、日本で聖母と言えばオキナガタラシヒメ命、すなわち神功皇后である。軟弱な夫を放っておいて自ら三韓征伐にでかけ、勝利を得てこの地に戻ってきた。身重だったが、帰国してすぐに子どもを産んだ。後の応神天皇、八幡大菩薩である。したがって八幡神社の祭神は応神天皇で、一緒に母親の神功皇后が祀られている。
 日本の聖母さまは大変な豪傑だ。ちなみに夫の仲哀天皇は妻と意見が対立し、夫は三韓征伐の前に亡くなっている。聖母さまに比べ、とても影の薄い夫であった。名前からして哀しい感じだ。しかしこの神社ではご夫婦と海の神様である住吉三神を祀っている。

 聖母宮あたりは元寇のときに元の軍が上陸した地だという。壱岐対馬を回るとどこもかしこも元寇のときにめちゃくちゃにやられたことが記憶されている。私たちは元の軍は神風で追い払われたと教えられているが、壱岐対馬は大きな被害を受けているのだ。

■原の辻遺跡
 対馬塚古墳が立派だという話を聞いて、中触のあたりを探したが周囲には聞く人もおらず、結局時間を費やしただけだった。しかしその中でカラカミ遺跡の場所を見つけたことは収穫だった。あとで一支国博物館に行ったのだが、そこで壱岐には原の辻遺跡とカラカミ遺跡という弥生時代の立派な遺跡ときいた。先に博物館に行っていたらカラカミ遺跡を探しに行ったことだろう。原の辻遺跡は整備されているが、カラカミ遺跡はほとんど何もしていないので、場所を探すだけでも大変だったろう。
 さて原の辻遺跡、前にも書いたが「はるのつじ」という。九州・沖縄では原を「はる」「ばる」と呼ぶ地域は多い。弥生時代の遺跡としいては吉野ヶ里、登呂と並んで三大遺跡だと言う。国指定の史跡として整備され2010年には黒川紀章設計のすばらしい博物館ができた。広大な環濠集落の跡には住居も復元されつつある。しかしそれは緒に就いたばかりでまだ寂しい状態だ。でもいずれ吉野ヶ里のように整備して、観光の目玉にしたらいいのではないだろうか。
 私にはどれほどの価値があるか、よくは分からないが、かの時代から集落を作るほどの文化を持った人たちが暮らしていたのだ。壱岐国は日本の最先端地域だったことがわかる。

■一支国博物館・大塚山古墳
 2010年原の辻の遺構全体を見渡せる丘の上に市営の一支国博物館が作られた。吉野ヶ里に匹敵するような博物館にしようという意図はみえる。まだできたばかり、歴史好きの人たちは、登呂や吉野ヶ里だけでなくこちらにも来たらいいのに。弥生時代の遺構だけでなく多くの古墳もあるのだから。
 一支国博物館の入り口の近くの狭い道の奥に壱岐で一番古い大塚山古墳がある。この古墳も見どころ。壱岐は見どころが多い島だということが分かった。

■せっかくいい博物館ができたのにお客は少ないね。というのが町の人の話だった。確かに!でも福岡からだったら吉野ヶ里に行くよりも近いかもしれない。福岡空港、博多駅からは地下鉄で天神に行き、バスで埠頭まで行けばジェットフォイル1時間。新造フェリーの「きずな」は2012年の4月から就航した新造船、車でも行くことができる。みなさんぜひ対馬、壱岐に行って欲しい。そんな思いを残した旅でした。
 翌4月2日は福岡の舞鶴公園(福岡城)でまさに今日満開という桜をみて、夕方の便で東京に戻りました。前回は格安のソラシド航空だったが、今回はANA。帰った翌日、3日の日には爆弾低気圧とかで、日本全土大あらし、ヒコーキはほとんど欠航した。一日遅れていたら、私たちも帰れなかった。危ないところ!!
直線上に配置
◆今回のコースは
3月29日(木)(晴):福岡空港→博多港ジェットフォイル→対馬:厳原港→レンタカー→浅茅湾→和多都美神社→
         海神神社(対馬一宮)→比田勝港・民宿たちばな泊
3月30日(金)(晴・夕方から嵐):比田勝→韓国展望台→網代(漣痕化石)→舟志・・・・神社→琴(大イチョウ)
         万関橋→金田城跡(カナタノキ)→小茂田神社→石屋根→安徳天皇陵墓→豆酸(つつ)崎→厳原港・西山寺泊
3月31日(土)(晴):厳原フェリー→壱岐:芦辺港→レンタカー→ウニ丼・壱岐神社(桜)→月読神社→双六古墳→掛木古墳→
         猿岩・玄武岩節理→住吉神社→壱岐一宮:天手長男(あまのたながお)神社→印通寺港・網本旅館泊
4月1日(日)(晴)印通寺港→岳の辻展望台(壱岐最高峰・・・・m)→初瀬マグマ岩脈→鏡岩神社石段317段→郷の浦港
         対馬塚古墳探し→勝本→聖母宮→壱岐の土台石・地層→原の辻遺跡(はるのつじ:弥生遺跡)・
         一支国博物館→芦辺フェリー→博多港→KKRホテル泊
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