原爆の日、100歳の母のこと!

1944年8月6日、母親は1歳直前の私を背負って、裏の山で松根油(しょうこんゆ)を採集していた。日本軍は石油が入らなくなったので松の根から油をとって航空燃料を得ようという計画だった。作業にかかってすぐ、遠くに黒い雲が沸き上がったのが見えた。それをみんなで見ていたという。

最近松根油をとっていた里山から原爆投下の爆心地までの距離を調べてみたら直線で20㎞だった。今なら避難地域だったかもしれない。母たちは何も知らぬまま翌日も松の木の根っこから垂れる油を採集していた。9日に長崎で同じことが起き、大勢の人が犠牲になった。そして15日終戦。もう少し早く敗戦を認めていれば沖縄戦もなかったし、東京空襲も、広島、長崎の原爆被害もなかったろうに。国体護持に固まった指導者に導かれた悲劇だったことが、今になるとよくわかる。その母親だが、まもなく100歳になる。5月25日に骨折して入院した。それまでは自分で買い物にもパーマをかけにも行っていた。しかし自力で歩けず、トイレもままならなくなったショックで急激に認知が進んだ。6月に認知症の病院に転院ししばらくすると回復してきた。FB仲間のアドバイスによって7月初めに老健に入ることができる体制が整った。

  ところがその前日に自力でトイレに行きたくて立ち上がったとたんに転び今度は大腿骨骨折になり、老健行は中止になった。高齢のため手術はせず認知症病院のまま1か月を過ごし、少し良くなったので老健にお願いすることにしたら、今回は介護度が5になったので受け入れは難しいとのこと。

同じ施設の特養にショートスティで受け入れてもらうことにした。空きが出れば完全に受け入れてもらえるが、待っている人数は多いので、どうなるか。これから先まだまだ受け入れ先を考えなければならないが、まあ病院を退院したことで一区切りついた。

病院も特養も我が家から5分以内のところにあるので、私は昼夜食に付き合ってきた。8月になってからは自分で食事もできるようになったので一日一回の面会にしたが、この2か月結構大変だった。私を背負って原爆の黒い雲を見た8月6日に退院、特養に入所したのは何かの因縁か。

特養に入ってから「家に帰りたい!」という言葉が出なくなり、すぐにバイバイという。認知がさらに進んだ結果だが、私は多少気楽になった。昨日日曜日、何日ぶりかに面会に行かず、奥様の舞囃子のビデオを撮りに能楽堂に行った。本日朝はやく面会に行ってみたら、「久しぶりだね!」と迎えてくれた。やはり休むわけにはかない。

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