【🐶全国狛犬100選🦁】028

群馬1 岩本駅近かに 首を傾げた犬がいた!

JR上越線の岩本駅の近く、線路を渡った高台にこの狛犬がいる。狛犬と書いたが、阿の位置にあるのはただの「犬」の像で口も閉じている。吽にいたってはちょっと首をひねって愛嬌を振りまく「犬」そのもの。「あなたは狛犬なの、それとも犬なの?」と聞いてみたくなった。  地元の石工さんは、狛犬は犬の種類だろうと考えたのかもしれない。たぶん見たことはないが話に聞いていた「狛犬」と言うものを想像して作り上げたのではないか。  

関東の山奥の小さな神社には犬みたいな狛犬がいるが、こんな動きのあるのは珍しい。石工さんの思いはわからないが、狛犬愛好家から見るとよくぞ作ってくれたという名作である。

  岩本神社の目の下は上越線の線路でその先は国道17号線をへて利根川が流れており平地はほとんどない。岩本宿は対岸の高台の上にひろがっている。なので周辺に神社の氏子はほとんどいない。しかし小さな神社なのに本殿の彫刻はすばらしく、木鼻の獏の木像はつい最近取り換えられて手入れもよい。いったい誰がお守りをしているのか?

   明治期には国家が神社を維持していたが、いま小さな神社の維持は誰かの善意でしかない。しかし善意の民もどんどん高齢化が進み、社殿も荒れ果てているところも多い。放っておくと前(023)に古河で見たように「野良犬」になってしまう。なんとか文化財として維持できないものか?

【🐶全国狛犬100選🦁】026

栃木2 宇都宮二荒山神社の狛犬は変顔!

  宇都宮の二荒山神社には狛犬はいないが、日光の二荒山神社にはすばらしい狛犬がいる。私は狛犬の質と数で神社の格を判断している。同じ二荒山神社なのに「宇都宮は日光に負けているなぁ」という思いをしていた。

  ところが2018年に宇都宮の二荒山神社に行ったら末社の市神社前にいるじゃないか!それも「なんだこれは!」というような”すっとぼけ顔”の狛犬だ。札幌の狛犬愛好家の藤野さんに聞いたら「これが私の一番推しの狛犬だよ~!」との返事が来た。

  他の狛犬愛好家の皆さんも「日本一下手くそな狛犬!」などと冷やかしながらナンバーワン狛犬と持ち上げている。写真を改めてみると、なんか変な顔だがどこか憎めない。だんだんと気分が暖かくなる感じで、私も好きな狛犬のベストテンに入れたくなった。

  ところで日光の二荒山神社は「ふたらさん」で宇都宮は「ふたあらさん」と読む。どちらも下野一宮であると争っていると聞いた。しかしこの狛犬を見たことで宇都宮こそが本家下野一宮だと私は認定した。もう一つ、「いちのみや」が訛った「うつのみや」になったという説も根拠である。日光の二荒山神社さんゴメン!

【🐶全国狛犬100選🦁】014

宮城3 蔵王刈田峰神社の三種類の狛犬

  蔵王刈田嶺神社は蔵王山頂に奥宮があるが、遠苅田温泉にも里宮がある。里宮の拝殿前には3対の狛犬が並んでいる。蔵王町観光協会はこれら三種類の狛犬の解説をしている。それに沿ってみて見よう。

 一番奥、拝殿のすぐ前にいるのがこのこまいぬである。狛犬とはいうもののまるでカエルだ。この形の狛犬はまだモデルもない時代に石工の想像によってつくられたもので「はじめ狛犬」と言われている。狛犬は江戸時代の初期まで宮中の建物の中に置かれたもくぞうの小さなものだった。しかし力をつけてきた商人などが地元の石工に狛犬を作られせて神社などに奉納した。石工も依頼人も狛犬を見たことがなかったのでこんな形になったのではないか。

  二番目の狛犬は胸の筋肉が隆々としている。なんかとても威張っているようなので、私は威張り狛犬と言っているが通常は護国系の神社に入りために「護国型」などと呼ばれている。有名なのは靖国神社にいるのがそれである。

   一番手前にいるのが尻尾を高く掲げた狛犬で、出雲に多い形なので出雲構え型と言う。私は出雲威嚇型と呼んでいる。

   この写真が蔵王刈田嶺神社の里宮の拝殿で3対の異種の狛犬が居る 。蔵王スキー場は山形側にあるので、蔵王と言えば山形と私も思っていた。しかし吉野山から蔵王権現を勧請したのは火口湖の御釜の脇にある宮城県側の刈田岳である。蔵王山の名前を持つ山はなく刈田岳も蔵王連峰の一つである。明治時代以降刈田岳にあった社は「刈田嶺神社」となり、その後、遠刈田温泉におりてきて里宮となっている。

  狛犬学習にはいい教材だが、なぜここに集まっているのかわからない。しかし前回の塩竈神社の多数の狛犬のように、宮城県の大きな神社には複数の狛犬が奉納されて居る。おそらく海運などで潤った商人が大勢いたためではないだろうか。

【🐶全国狛犬100選🦁】004

北海道4 江戸から移住してきた狛犬 


 札幌に住む狛犬愛好家の藤野久美子さんの一番の推薦狛犬である。札幌ではいくつもの狛犬を見たが、これはちょっと違う。彼女の説明では、もと北海道拓殖銀行頭取の邸宅にあった菜洗神社(千葉県市川市)を、八紘学園の創立者が昭和15年に譲り受け、札幌の学園の構内に移築したものだという。 そのときに狛犬も一緒に移転したので、北海道風ではないのだ。

頓宮神社の古い狛犬は「札幌軟石」で彫られたものである。札幌軟石は支笏カルデラ(約4万年前の噴火)の火砕流が固まった溶結凝灰岩で札幌市南区にまで達した。菜洗神社の狛犬とは材質が違うのだ。 岩の質は不明だが硬いが細工のしやすい岩石で作られており、「江戸流れ」と言われる流麗華やかな江戸東京系の狛犬である。

作った当時は狛犬というよりも「獅子」と意識して作られたのではないかと私は推測している。 阿形がもつ透かし彫りの鞠の中にはもう一つ玉が入っている。どうやって彫ったのだろうか。背中の渦巻き模様もていねいですばらしい。相当な腕を持つ名工の作だったのだろう。もしかすると籠彫りの名人と言われた野田平業の作ではないかと思っているのだが・・・

 この狛犬を推薦してくれた藤野さんは実はこの学園の卒業生だった。どおりでこんな小さな神社に立派な狛犬があることを知っているはずだ。ここは北海道のバーベキューの八種の地だそうだ。牛乳、アイスクリームも生産販売しており、広い草地でソフトクリームをいただいた。

【🐶全国狛犬100選🦁】003

北海道3 頓宮神社 子抱狛犬と唐獅子牡丹

札幌開拓に伴って北海道神宮(もとは札幌神社)ができた。しかし神宮は円山の近くにあって参拝には不便だった。そこで町の中心部に遥拝所がつくられた。それが頓宮神社となっている


 この神社には札幌では一番古いと言われる狛犬がいる。尻尾を高く上げて相手を威嚇する出雲型のような狛犬である。両方とも細工は丁寧ですばらしい腕の石工が作ったと思われる。明治23年奉納と書かれているが石工名は不明だった。
 狛犬というのは略称で本来は「獅子、狛犬」が正しい。平安時代の書物には「左獅子」と書かれているそうだ。神様から見て左なので我々から見ると右手にあるのが獅子である。

 この獅子は牡丹の花を加えているので阿吽の吽の口をしている。これぞ唐獅子牡丹。もう一方は開いた口に珠の狛犬である。

 入口の鳥居の下にもう一対花崗岩製の堂々とした狛犬がいる。こちらは昭和になってからの奉納であり、表面がピカピカに磨かれている。じつはこの狛犬、なでると恋愛が成就すると評判なので、大勢の手で磨かれているのだ。

 札幌でたくさんの狛犬を見たが、この神社のものはなかなか面白い。一番の「推し」(初めて使う言葉だが・・・)である。

【🐶全国狛犬100選🦁】002

北海道2 江部乙神社 笑う狛犬

北海道、滝川の近くに江部乙(えべおつ)という駅がある。鈍行しか止まらないので札幌から行くのも一日仕事である。そこで私は札幌に住む北大教授先生ご夫妻に「一緒にいかない?」とささやいて車を出してもらった。「わざわざ狛犬をみるために北海道へ来たんですか?」と教授にはいぶかられたが、奥様には大変気に入ってもらったのがこの狛犬である。

 いま狛犬愛好家の中では一番人気の『笑う狛犬』だ。苦労した屯田兵の子孫が成功のお礼を兼ねて明治43年に奉納したもので、笑いをとろうと考えたわけではない。 ふつうは「右が阿」で「左が吽」の並びをするがこれは逆である。さらに顔と尻尾の彫刻は上手になされているが胴体はずんどうであまり芸がない。しかしそんなことはどうでもいい。願主の感謝の思いはつたわっている。

 両方とも手足の指が袖口から出ているように見える。こんな手法で足の指を彫った狛犬は他には見たことがない。おそらく他の狛犬を見たことがないか、あるいは見ても自分流を貫きたかったのかわからないが個性的狛犬であることは間違いない。

札幌から江部乙まで木村教授夫妻に車で送ってもらった。途中で音江の環状列石を見るご夫妻! この地には縄文時代の環状列石がいくつもある。北海道は1万年も昔から人は住んでいたのだ。

【🐶全国狛犬100選🦁】001

北海道1 北の大地 豊富八幡神社の狛犬

ここ数年狛犬を巡って全国を歩いてきました。その中で印象に残った狛犬を選び出してFBにアップしていこうと思っています。
  今は「狛犬」と称しますがもとは『獅子狛犬』と呼んでいたようです。獅子狛犬の一対であり阿吽になっていることが、狛犬の条件だろうと思います。

  まず最初の狛犬は北海道でもさらに北の豊富温泉の近くにある豊富八幡宮の狛犬です。ここ豊富には私の50年来の友人である田中雄次郎君が牧場を営んでいます。厳しい自然環境、人間環境のの中で自然農法で牛を育ててきました。

 その田中君が「俺の地元にも狛犬がいるよ!」と紹介してくれたのがこの狛犬です。すっくと立った堂々とした姿は北の大地で自然と対峙してきた彼ら入植者の姿に重なりました。 

さらに厳しい自然の中に兜沼神社があり田中君の友人たちが守っている狛犬がいます。右側は幌延神社の狛犬です。豊富の各神社には狛犬たちがいて入植者たちを励ましているようでした。

豊富の各神社には狛犬たちがいて入植者たちを励ましているようでした。

狛犬行脚 飯能の加治神社の狛犬

  西武線の奥に飯能市がある…昔は子供連れで川遊びや天覧山登山、巾着田などに行ったものだ。先日若い友人達が「薪火と発酵のレストラン」でランチ会をやります。いま紅葉真っ盛りで素晴らしいですよというので、池袋から最新式の特急「ラビュー」に乗って飯能に行った。

  せっかく飯能に行くのだから狛犬探さなきゃと調べてみたら加治神社に笑い狛犬がいるという。ランチ会に行く前に駅からタクシーで加治神社に行った。ちょうど前の日が例大祭だったようで綺麗に整備されていた。

鳥居をくぐって石段を登るとこの狛犬がお出迎え、でも笑う狛犬ではなく岡崎型のまあ平凡なものだ。さらに進むと拝殿の前にいたぞ!

確かに笑っているでしょ! すばらしい👍👍

おいしいお食事をして、レストランの隣の能仁寺の紅葉を見に行きまいした…すばらしい紅葉をご覧ください。おしまい!

 

狛犬 杉山神社の狛犬たち

延長5年(927年)に作られた延喜式神名帳に載せられた神社のことを『式内社』と呼ぶ。式内社は官立神社のことで全国で2861社あった。

 杉山神社は『式内社』である。しかし現在70数社が武蔵国の南西部にあるが、どれが本当の式内社かはわかっていない。その中でたぶんこの神社だろうという神社を『論社』という。杉山神社の『論社』は6社ある。

ということは式内社全部回ると言う賀曽利さんは2861社の何倍かの論社も回らなければならない。これはとてつもない数である。

 私は狛犬巡りをしているので論社かどうかはどうでもいいのだが、数多い杉山神社に興味を持ち、論社といわれる6つの杉山神社を巡ってみた。


横浜市都筑区 茅ケ崎 杉山神社

本日は都筑区を中心にめぐった。横浜地下鉄の「センター南」駅で降りて近くの茅ケ崎杉山神社に行ったがここには狛犬はいなかった。

勝田町 杉山神社

写真を撮っただけで早淵川を下り勝田町の杉山神社に上がって行った。 阿吽の江戸流れ狛犬がともに子供を抱いている。産めよ増やせよの時代に作られた狛犬は、たいてい両方とも子持ちだ。

 勝田杉山神社は高台にあるが、次の新吉田の杉山神社は高速道路の都築インターの向こう側の高台にある。下がって上がってくぐって越えてやっとたどり着いた。ここはかなりの山の中。近くにお店も自動販売機もない。

 狛犬は昭和の岡崎型で、おそらくどこかの工場で大量生産されたものだろう。一説には中国で加工して持ってきたという。あまりありがたみはない。


新吉田 杉山神社

大熊町 杉山神社

 新吉田の杉山神社への上り下りですっかり疲れたので休みたがったが、店は何もない。高速道路をくぐって大きな道に出たとたんバスがやって来た。行先も見ずにのったら幸運なことに次の大熊町の近くを通る。スマホの地図を見て一番近そうなところで降りる。ラッキーだった。降りたところのコンビニで遅いお昼。

ここも高台にあり柿の実を見ながらやっと上る。ここも子だくさんの狛犬。背景が明るくていい写真が撮れないので背後から撮った。

新羽(にっぱ) 杉山神社

 本日の論社めぐりは終了と思ってバス停に行くと「杉山神社」の幟がはためいていた。そこここに杉山神社があるのだ。こちらは論社ではないが立派な神社。弱った足には応える登りだったが、おいい狛犬がいたので満足!

新羽の杉山神社からすぐのところに地下鉄ブルーラインの新羽(にっぱ)駅がある。新横浜で東急の新線に乗り換え一気に池袋へ。

昔の雑誌投稿1980年代

 我が家の本棚を整理するためにだいぶ本を捨てたのだが、まだいろいろなものが残っている。昔はいろんな雑誌などに記事を書いていたようで、ファイルケースにいくつか残っている。たいていの雑誌は廃刊になっている。きちんと年月日を取っておけばいいのだが、ほとんどが記事だけを切り取ってファイルしたのでいつのものかわからない。しかしこのままではあすにもゴミに出されてしまうので、データとしてまず3枚アップしておく。

It’s 走 nice01 1980年代 まだ清瀬高校にいたころのものだろう。


この三枚だけでした。沙原の会は清瀬高校のOBで結成されました

我が奥さんの舞囃子「田村」

我が奥さんの旧姓は田村。すでに現姓の「三輪」は舞ったことがあるので、今回は「田村」を水道橋の宝生能楽堂で舞った。奥さんの母の田村美知代さんは15年前の今日亡くなった。その追悼でもあった。

77歳にしてはなかなかなで、キレもよく舞うことができたようで本人も満足していた。写真班の私はモタモタして最初の場面をうまく撮影することができなかった。あまりにも慣れ過ぎていたことが失敗原因。奥さんは「これが最後!」と言っていたが、うまく撮影できなかったのでもう一度やってもらうことにした。

次も撮影失敗すれば奥さんはさらに続けることになるかも。いま辞めてしまったら、老化するだけだからもう少しやった方がいいかも。ビデオを見るとなかなかいい動きをしているのでまだできるだろう。私の撮影の腕が衰えていないといいのだが。

 

冬のお花見 蝋梅 

オミクロンに狼狽しながら過ごしている。しかし3度目のワクチンも先日すませたので、人のいないところでお花見するぐらいは許されるだろうと勝手に判断し、立川の昭和記念公園に行ってきた。ネットで見たら公園の一番奥の池のそばに咲いているそうだ。この公園には桜の季節に何回も来たことがあるが、梅の時期には初めてだ。

お弁当を買って立川駅から歩いた。昔の飛行場の跡だから広い広い。その広い公園には数十人の人しかいないのでさびしい。午前中に足の魚の目を液体窒素で焼く治療をしたばかりだったので足の裏が痛い。手の親指のイボも同じ治療をしたので缶コーヒーのキャップが回せない。気分も体調も不調で疲れが一段と増した。
しかし奥のほうで紅梅、白梅、などを見ているうちに気分は回復、足もびっこを引きながら歩けるようになった。蝋梅は普通の梅とはちょっと違う。本当の梅のなのかな?   ロウバイ科ってのがあるそうだ。梅はバラ科。

それぞれの咲き方を見てみよう。

梅だけでなく水仙も咲いていた。昨年の暮れは暖冬で水仙は1月中に満開になったそうだ。毎年宮本先生の水仙忌に水仙を飾るのだが今年はオミクロンで中止。もしあったとしても水仙を飾ることはできなかったかもしれない。ほんのちょっと咲いていた水仙の写真と節分草。セツブンソウも節分の頃花開くのだが、今年はもう終わりそうだった。

のんびり日向ぼっこしている鴨だが、温暖化が進むと北へ帰る日も早くなるのかな?

第5章 神武東征、神功皇后東征!

「思えば伊勢と三輪の神 一体分身の御事 今さら何を磐座や!」
伊勢の天照大神と三輪山の大物主神はもともと一体の神さまだよ!そんなこと今さら聞くなんて何を言うのか(言うと磐座の掛詞)
謡曲『三輪』の言葉をきっかけにして天照大神の故郷、三輪山の神の故郷を訪れてみた。天照大神の故郷は「高天原」で、「天の浮橋」でつながっているが、この世のものではなかった。高天原を追放された天照大神の弟のスサノオ神が「豊葦原の中原」に降りてきて八岐大蛇を退治して出雲の国を豊かにした。

大国主神はスサノオ神の娘と結婚し出雲の国を譲り受けた。さらに大物主神や少彦名神と一緒になって大和の国を作り上げた。豊葦原の中原である大和国が豊かになったのをみて、天照大神はこの国は弟の国なので大国主神から返還、すなわち「国を譲り」をさせた。しかし高天原のゴタゴタの間に状況は変わり自分の孫(天孫)を降臨させる場所は南九州だけになっていた。

南九州で力を蓄えた神武天皇(もちろんそんな名前ではなかったが)は兄と一緒に
「ご先祖様の約束の地に向かおう!」
と南九州を出立した。
これが有名な「神武東征」で、そのコースを地図に落としてみた。

この章では神武東征のコースを歩いて見つけた様々な出来事を述べていくが、もう一つ同じような東征があったことを知った。神功皇后と皇子(応神天皇)の東征である。この東征は神武東征よりもはるかにスケールが大きい。新羅と百済を攻略してその勢いで瀬戸内海を東に進み、浪速で待ち伏せた勢力を打ち破って大和に入るのである。神功皇后は稀代の英雄であるが、天皇になったとの記述は日本書紀の片隅にしかない。天皇空位の後に敦賀で名前を変えた息子が大和に入り第15代応神天皇となった。

天皇家は126代続いているが贈り名に「神」がつくのは神武天皇、崇神天皇、応神天皇の三天皇と神功皇后だけである。そのうち二人は九州からやってくるが、直接大和入りできず、熊野からの南コースと日本海からの北コースを迂回して大和入りをした。なぜそんな迂回をしたか古事記に合理的な説明はない。しかし何か大きな意味があったのだろうが、疑問は残る。まず二つの東征について話を進めよう。

地学かわら版 復刻で

昔地学の教員をやっていたころ、その日の授業内容とは関係のないが、面白そうなトピックを集めて「地学かわら版」を発行していた。当時はガリ版で作ったものなので「わら半紙」に印刷したものしか残っていない。コロナで巣ごもりの中、机の整理をしていたら何枚か出てきた。それをワープロで打ちなおした。せっかくなのでここにアップしておく。皆さんに見ていただきたいということではなく、私の記憶の整理という意味だが、暇で困っていたらちょっと覗いてみてください。

1984年、戸山高校にいるときに作ったものだろうと思います。夏休みに北海道の函館から札幌まで走り、さらに稚内の近くの豊富町に行き、隣の幌延町の高レベル放射性廃棄物の埋め立て候補地をみてきました。当時はまだ風評被害という言葉は使われていなかったようですが、明らかな風評被害が出ていることを知りました。そんな意味で言えば、こんな文章でも残しておく意味はあるかなと思っています。

ほかにもまだありそうなので探して時々ここにアップしておこうと思います。ガリ版刷りなのでイラスト、写真などはありません。(恐竜の時にはガリペンで描いていたかもしれない)