肥後国府国分寺は水前寺公園そば!

「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ!」
手毬を突きながら遊ぶ子供を想像するが、もうそんな風景は残っていない。もともとは肥の国だったが7世紀末に肥前肥後に分けられたという。阿蘇山の火から来た名前かと推測するが意見はいろいろあるようだ。

肥後国府
肥後国府は何回も移転したらしいが国府(こくぶ)という地名は水前寺公園の近くにあり、国府(こくふ)高校、国府郵便局などがある。国府の範囲は次の写真のようで熊本国府高校のHPに乗っていたのを借用した。地名は「こくぶ」だが高校は濁らないで「こくふ」だそうだ。

総社
総社神社は少し離れたところにある。駅そばの北岡神社内にあると書いてあったが、飛び地のようだ。ここには行っていないので写真はない。(賀曽利さんがすぐに送ってくれた)地震で壊れた鳥居は復元されている。

国分寺
当時の法灯が続く国分寺がある。HPに昔の絵図があったので借用した。昔の国分寺の範囲は水前寺公園のあたりまで広がっていたが現在は曹洞宗の寺である。寺の中に旧国分寺の遺跡はないが隣の熊野神社に七重の塔の塔心の礎石がある。神社の敷地を覆うほどの大きな礎石で往時の壮大な塔の姿が思い起こされる。

陣山廃寺跡(国分尼寺?)

水前寺公園を挟んだ場所に古い寺の遺構が発掘された。遺跡の報告書(1996年)には平安時代には大きな寺があったと書かれている。位置関係からみるとここに国分尼寺があったとしても不思議ではない。とりあえず私はこの場所を国分尼寺跡としたい。しかし2021年10月に肥後国府を訪ねたときには水前寺公園の見学で時間切れになって陣山廃寺には行っていない。陣山廃寺に行く時間はあったが、我が家の奥さんは水前寺公園の方に引かれたからだ。スポンサーである奥さまに逆らうわけにはいかないので肥後国分尼寺は次の機会に回さざるを得なくなった。

飛騨総社、国分寺

飛騨国府というJRの駅がある。当然ここに飛騨の国府があると信じて無人駅を降りた。駅前の案内板を見ても国府や国分寺の印はない。しかし国府大仏(国分尼寺)の案内があった。やはりそうだ!と思いながら地図の地点に行った。ちょっとかわいい国府大仏はあったが想像していた大きな寺ではなかった。

飛騨(斐陀)は古い国で国造の時代にはこの場所に国府があったらしいが聖武天皇が国分寺の詔を出した741年ごろには10キロほど南の高山市内に国府が移り国分寺、国分尼寺が建立されたと考えらえるそうだ。JR線に乗って高山市に移動した。飛騨国府・総社

飛騨国府は今の市役所のあたりにあったと予測されるが発掘調査はなされていない。総社はその近くにあった。総社には下のような神さまが祀られている。さすが総社!

<正殿主神>
大八椅命(最初の斐陀国造、天火明命の後裔)
<脇殿(延喜式神名帳所載八座)
水無神(飛騨一宮 位山) 槻本神(大山津見神) 荏名神(高皇産靈神)
大津神(大彦命、武渟河別命)  荒城神(大荒木之命)
高田神(高魂命) 阿多由太神(大物主神) 栗原神(五十猛命)
<脇殿(国史記載社十座)
大歳神 走淵神 四天王神 遊幡石神 渡瀬神 道後神
気多若宮神 本母国津神 剣緒神 加茂若宮神

飛騨国分寺
立派な三重塔(1820年再建)が残る。しかし元の国分寺には七重の大塔があったはずである。その礎石が境内に残っている。現在は真言宗の寺で法灯を継いでいる。境内にはイチョウの巨木がある。これはすごい大きさ!

飛騨国分尼寺跡
国分寺の前を通る道は飛騨盆地を東西に横切る道である。高山線の線路を挟んで反対側に国分尼寺があった。その場所に今は辻が森神社が立っている。そのあたりが本堂であったことが発掘調査で分かっている。旧国分尼寺の跡地の小さな部分だけが公園になっている。

高山祭り
春秋に行われる桜山八幡宮の高山祭には多数のきらびやかな屋台がでて町中が活気づく。国の無形文化財で内外の人が多く集まる飛騨地方の大イベントである。宮川沿いに大鳥居がそびえたち他を圧倒している。昔から飛騨の材木を使った大工(飛騨の匠)が有名で、多くの大工が奈良や京都の神社仏閣の造営に活躍した。地元には大変な数の寺社があり、それぞれ匠の技が光っているそうだ。

雪深く、昔は交通も困難だったが今は高山本線の起点である富山駅には新幹線が開通し、特急ひだ号を使えば東京から3時間ちょっとで来ることができる。今回私は日帰りだったが、十分に時間が取れて高山の街を歩き回ることができた。

土佐国 国府総社国分寺

四国88札所には4つの国分寺がある。土佐国の国分寺は第29番札所でいい季節にはお遍路さんでにぎわう。私も2016年から季節の良い時を選んで1週間歩いてきた。全行程は1200キロもあるので私たち夫婦は4年ほどかかった。急ぐ旅でもないので88カ所のほかに一宮や番外札所、国府などにも寄り道をした。

土佐の国府は28番の大日寺から物部川を渡り国分川を渡ったところにあった。すぐそばに29番の国分寺があり、その隣に総社もあった。今回の国府めぐりは四国遍路のおまけだった。

国分橋の欄干にカメラを置いて記念写真を撮ろうとしたら、台の上からカメラが転げ落ち固い岩の上に落ちてしまった。土佐国府、国分寺の写真は古いスマホで撮ったもので美しくない。困っていると賀曽利さんが私の写真を貸しますよとのこと。もう一度行かなければと思っていたが、彼の手を借りてこのページを仕上げることができる。ありがたい。

国府(国衙)
高知の埋蔵物文化センターでは比江廃寺跡付近の発掘を行っており、多くの資料が出ている。国府の跡もほぼ特定できるが全域の発掘はまだである。平安時代紀貫之は929年から5年間土佐守(国司)として土佐国府で過ごした。60歳という年齢での赴任は何らかの政情の変化があったのだろう。帰国の時の様子を描いたのが「土佐日記」である。紀貫之の邸宅とされるところが公園になっている。おそらくこの辺りまでは国府の範囲だったのだろう。バイクが映っているのが賀曽利さんから借用した写真。

比江廃寺跡(国分尼寺?)
国府の一角に比江廃寺跡がある。そこに大きな塔の礎石がでてきた。これは県下では最大の礎石穴である。大きな寺があった。おそらく国分尼寺だったのではないかとの説もある。しかし国分尼寺に塔はなかったとされているので国分尼寺ではないとの意見も多い。写真はWikipediaから借用。

国分寺
国分川を少し下った土手に地蔵の渡しがあり、目の前の田んぼの先に四国第29番の国分寺がある。国分寺の敷地ははるかに広かったはずである。現在は真言宗智山派の寺である。石柱を見ると、十を横に並べて20と読ませている。

総社
国分寺の隣に総社神社がある。この神社が国司が参詣する土佐国の総社とされているが、国分寺の敷地の狭いところに押し込まれている。元は国府のそばにあり、ここにい引っ越してきたとのことである。祭神は「延喜式二十一社祭神」ということで総社にふさわしい。バイクはないが狛犬以外は賀曽利さんの写真。

伯耆国府、総社の狛犬は地震で落下した!

 伯耆の国は大山の麓に広がる地域である。国府国分寺は今の倉吉市にある。倉吉市は天神川と小鴨川の合流地域にできた盆地で、流域には三朝温泉など温泉郷がありその玄関口として賑わった。現在は鳥取県で3番目の人口を持つ市であるが人口は4.5万人(22年3月推定)と少し寂しい。しかし白壁土蔵がいまも残り、観光客はおおい。

国府 国庁
倉吉駅は白壁土蔵の街の中心から離れている。さらに国府地区は国府川を渡った先にある。したがって倉吉駅から国府遺跡に行くには交通の便がない。それを予想して私は携帯式の軽量(6キロ)自転車を用意した。これはなかなか快適であった。倉吉駅から国府地区までの道沿い風景を入れておく。

国府地区に国庁跡の史跡があるがただの原っぱで遺構跡はみあたらない。地図をみて想像するしかない。すぐ近くに法華寺畑遺跡があり、門や囲いが復元されているので、想像の根拠にはなる。

伯耆総社 国庁裏神社
国庁の案内板にもある通り国庁の中にあった神社である。「裏」にあったと読めるが「うち」というのが正解である。しかし今は「こくちょうり」神社と呼ばれる。もともと総社大明神などといわれたこともある。出雲に近いこともあって大貴己神、少彦名神を祀っている。

狛犬も何対かある。昔の写真を見ると台座の上にしっかり立っていたるが、実際に行くと、地面に置かれているものがいくつもある。私の推測だが2016年におこった大地震の被害ではないか。どういうわけか私のカメラではうまく撮れていない。国庁裏神社の建物の写真は賀曽利大明神からお借りしたものである。

国分寺跡
倉吉駅から自転車をこいできた。かなり暑い日で、国分寺の瓦が展示してある地域センターを見つけた時にはほっとした。場所を聞くと坂を昇った上にあるという。冷たいものを飲んで坂を昇る。そこには国分寺遺構があったが、じいさんばあさんがゲートボールに興じていた。「史跡の上でプレーできるなんて豪勢ですね!」というとみなさんきょとんとしていた。山上憶良の歌碑があった。憶良は国司として伯耆に赴任してここで過ごした。同じ万葉歌人の大伴家持も各地の国司を務めた。しかし憶良はこの地にかかわる歌は残していないという。政務に追われていたのだろうか?

国分尼寺跡 法華寺畑遺跡
伯耆の国分尼寺はいい。国分寺と並んで作られていたが発掘状況は国分尼寺の方が良好で、尼寺(法華寺)を中心として伯耆国府の遺跡が保存されている。法華寺という名前は総国分寺=東大寺に対して総国分尼寺=法華寺(ともに平城京にある。)からきている。国分尼寺を見つけるには、法華寺(法花寺)という地名を見つけることである。

伯耆の国府は思いの外、倉吉駅から遠かった。年取って体力がなくなったせいなのかもしれない。倉吉の白壁土蔵の街、賀茂神社の狛犬など見逃してしまった。また来る機会があればぜひそちらも見たいものだが・・・

追加:国庁裏神社の狛犬の落下について倉吉市の教育委員会に問い合わせをしたところ、すぐにお返事を頂いた。鳥取大学では石造物、特に狛犬については全県の調査をしたそうだ。その結果を示したPDFもいただいた。私の疑問は解消した。ありがとうございました。

・・・・お問い合わせの狛犬についてですが、ご指摘のとおり、鳥取県中部地震で国庁裏神社の狛犬は破損していますが、賀茂神社の狛犬は破損していません。その違いとしていくつか要因があるかもしれませんが、その一つとして狛犬の石材(来待石)の劣化が考えられます。来待石は凝灰岩質砂岩で加工しやすい反面、風化し軟質化しやすいという特徴があります。国庁裏神社と賀茂神社の狛犬はいずれも来待石ですが、劣化の程度が異なっていた可能性があります。鳥取県中部地震により狛犬だけでなく来待石製の灯籠や石仏などが数多くが破損しました。製作から100年以上経過したものが多く、劣化が進んでいたものと考えられます。・・・・

備前国府と国分寺は離れている

 古代には吉備国があったが律令制により備前、備中、備後にわけられた。備前国はさらに美作国を分離した。古代吉備国は超巨大な国だった。その国の中心は吉備の中山付近にあり、吉備神社ははそこにあった。しかし中山を境に備中、備前に分かれたため一宮も吉備津神社、吉備津彦神社にわかれた。なのでそれぞれの神社はほぼ背中合わせの位置にある。
 備前国の宮は旧吉備国の中心にあるが、備前国府は旧吉備国の中心とは離れ、旭川の東側の高島宮(神武天皇の聖跡)の近くにある。さらに備前国分寺は山越えをした赤磐市にある。前回一宮巡りをした時には、国府国分寺に足を延ばすことができなかったので、今回は半年おいての2回目の備前国入りである。

備前国府
岡山駅の隣の高島駅近くには高島宮がある。この宮は明治政府が定めた神武天皇聖跡地であってここに都が営まれていたわけではない。しかし備前国府はこのすぐ近くにあったようで聖跡とまったく無関係ではないかもしれない。

現在の「国府市場」の地名のあるあたりに国府があり役所の建物(国衙)があったがが、現在遺構はなく小さない社があるだけである。

総社
国府市場あたりは東西南北に道路が敷かれており条里制の名残がある。国府市場を北に1キロほど進んだ山裾に賞田廃寺跡の遺構がある。かなり大きな寺があったことが知れる。私はここが国分寺だったのではないかと思ったがそうではないそうだ。この賞田廃寺から少し西へ行った山裾に総社宮がある。

国分寺
桃太郎温泉前の県道(旧山陽道)に出てしばらく行くと高速道路が見えてくる。高速道路と交差する手前に国分寺の跡が見えてくる。発掘跡は整備されている。遺構の先には岡山県で3番目に大きな前方後円墳である両山古墳がデンと構えている。なかなかいい風景だ。

国分尼寺
旧山陽道を挟んで国分寺とは反対側に尼寺があったらしい。しかし今は大きな溜池の下になっており実態はまったくわかっていない。看板だけ立っており往時を想像するしかない。

今回は自転車
備前国の国府跡と国分寺跡はかなり離れているが、バス便など公共交通機関はない。「タクシーで行けば!」と奥さんに言われるが「望むところに行くには苦労がある方が感激は多い!」という私のポリシーに従えば、それは選択肢にはない。

今回は持ち運びのできる自転車を購入して持ってきた。重さは約6キロ、年寄りでも運べる重さだ。岡山駅前には電動レンタル自転車がたくさんあったが借りると元の場所に戻らなければならない。自分の自転車なら疲れたら折りたたんで袋にいれて電車にのればいい。

低い山だが峠越は結構きつい。しかし環太平洋大学(?)のキャンパスから聞こえるマーチングバンドの音楽に励まされ、案山子君たちに見送られて無事に走りきることはできた。帰りは津山線の玉柏駅から岡山に戻った。

因幡国府と国府神社、国分寺

因幡国
鳥取県は因幡国と伯耆国の2カ国からなっている。スタバもない県など(今はある)と言われたが 昔は重要な国だった。因幡の国府は史跡公園として整備されている。広い田圃、畑が広がる中、今木山の麓に「因幡万葉の里」があり史跡の解説をしてくれる。鳥取駅から5キロ程の距離なので、歩けない距離ではではない。しかし年寄ったので今回は携行できる(重さ6キロ)自転車を担いできた。

因幡国府
数年前因幡一宮の宇倍神社を訪れた。その時に本殿の脇に「国府神社」があることに気が付いた。先日壺阪山に行ったときに「国府神社」を見つけ、この名前は他にはないなどと書いた。しかし数年前に「国府神社」を見ていたのだ。忘れっぽくなっているなぁ! しかしこの神社の場所に国府があったわけではなく国府地区にある神社なのでその名前になったようで古い神社ではない。

鳥取駅近くの交通案内に「国府(こくふ)」という案内板がある。国府地区に行くルートだ。いま国府地区に「国庁跡」の史跡公園がある。いまつつじの真っ盛りで色とりどりの公園であるが、私のほかには誰もいない。華々しさの中ちょっと寂し感じがする。大伴家持が国司として赴任していたそうだ。「新しき・・・・・」の歌が、そばにある「因幡万葉歴史館」に当時の衣装とともに掲げられていた。

総社
因幡国に総社の記録はない。国府に赴任した国司はまず国内の有力神社に詣でる。しかし一宮は離れていることが多いので国内の神社を集めた総社が設けられた。因幡国は一宮の宇倍神社と国府がごく近いので国司は簡単に参拝することができる。わざわざ総社を設置する必要はなかったのではないかと私は考えている。

宇倍神社の中には「国府神社」があるが、これは明治時代に作られたもので総社の意味ではない。ということで私的に宇倍神社を勝手に総社としておく。長い石段を登って社殿に登って、総社ということにしいいですか?とお尋ねしたが、もちろん返事はない。神社の総代の石破茂議員に聞かなければならないかな?

国分寺

国庁跡から500mほどのところに現国分寺がある。境内には旧国分寺の礎石がたくさん転がされている。遊んでいた子供たちが「なんでこんな大きな石があるの?」聞いてきた。確かに田んぼと畑の広がる土地には大石はない。よく気がついた、いい子たちだ。

国分尼寺、法華寺

国分寺の西、500mほどの今木山の麓に法花寺という集落がある。私はピンときた。法華寺は奈良の「総国分尼寺」であり、総国分寺の東大寺に匹敵する寺である。法花寺集落に国分尼寺(法華寺)があるはずだと集落に入ってみた。おばあさんい聞くとそこにお寺があるよという。小さなお堂と礎石らしい石が苔むしていた。私的にはここが国分尼寺跡とすることにした。

今回は国府、国分寺、国分尼寺、総社らしき神社の四ヶ所を効率よく回ることができた。たいていの国では国府と国分寺はかなり離れており、こんな近場に集まっているのは珍しい。と書いたが、国分尼寺と総社は私の判断であって学術的には根拠もない。しかし国府跡愛好家としてはなかなか楽しい場所であった。

次はすぐ隣の伯耆の国府のある倉吉に向かう。

美作国府総社は津山盆地に!

古代の吉備国は、大化の改新後に備前、備中、備後の3国に分割された。さらに和銅6(713)年に、備前国北部から6郡を割いて美作(みまさか)国が作られた。美作の中心は津山盆地にあった。津山は現在も中国山地の中心で、岡山県でも第3の市である。

国府
駅からは川を越えてお城よりもさらに北側の高台に国府跡、総社宮ある。国府跡バス停の前にあるのが国府台寺だがこの辺りに国府があったとされている。この寺とは関連はなさそうだ。

総社宮

国分寺 国分尼寺不明
国府跡、総社宮は吉井川の北側、津山城の背後の丘にあった。しかし国分寺は川の反対側、さらに支流が巾着状になった孤立した場所にあった。私は駅から自転車で回ったが吉井川にはあまり橋がなく、なり遠回りになった。
人神という集落を通り国分寺に向かう。河辺小学校の下に美作国分寺跡が広がり、きれいに整備された現国分寺があった。

津山盆地
今回赤磐市の備前国分寺から津山線で来た。数年前に美作一宮の中山神社を訪問した折は新見から姫新線でやってきた。ここから鳥取方面は因美線、姫路方面には姫新線など津山盆地は中国山地の中の交通の要衝だったことが分かる。しかし近年は人の移動は少なくなったようで、因美線で鳥取に行くには5時間も待たなければならない。かなり遠回りになるが姫新線で佐用まで行き智頭急行線で鳥取に行くことにした。因美線経由よりも2時間も早く到着する。さらに智頭急行線は初めての搭乗だ。うまくすると郡家(こうげ)から若桜鉄道に乗れるかもしれない。

などなど考えながら東津山から列車に乗った。駅前のエリエールの広告、黄色いホテルには見覚えがあった。一宮巡りの時に泊まった宿だ。姫新線佐用(さよ)駅で智頭急行に乗り換えたが、数年前もここで数時間待った。
JR線はいくつも通って交通の要衝のようだが、列車の本数は少ないので結局佐用駅経由になるみたいだ。郡家からの若桜鉄道の駅は「寅さん」の撮影地だが、今日中に行き来して鳥取に行くの無理なのであきらめた。少々残念。