居場所なく、ベランダに机 「出社当番」が癒やし 

これまで私は朝9時ごろから近くの病院にある喫茶店に行ってモーニングを食べながら10時半までいました。暇そうな常連さんもいて、お互いになんとなく親近感がわいていたものです。時々は知り合いとの会合にも使っていました。1月末にはOnuki Teruちゃんと連続であったりする、私の書斎兼社交場でした。

しかし病院ということもあって3月半ばからはまったく近づいていません。家に閉じこもって奥さんに、三食作ってもらっています。それはありがたいのですが、2か月以上その状態が続くと飽きてくるのはしょうがない。
通常なら3日間一緒にいると気まずくなってくるのですが、今回は共通の敵アベのマスクがおり、不満はあちらに向けられるので巣ごもりは維持できていました。テレビを見ているとアベのマスクは次々と不祥事を起こしてくれるので、我が家にとってはありがたい存在でした。

いよいよ自粛解禁になると世の中はみなアベのマスクのことを忘れ、次のことに話題が移ってしまいました。我が家でも不満のぶつけどころが亡くなってきたので、私も居場所探しを始めました。上のつぶやきをみて私も新たな書斎を作り出しました。

今年一月台湾に行ったのですが、その時に訪ねた李さんからすばらしいマンゴーが届きました。ベランダに出したテーブルの上でそれを食べながら、新しい書斎を満喫中です。しかし雨が降ったらどうしよう。

81歳と18歳 快語碌から

まだーもう少しあるけど81歳の気持ち??。元気な81歳だろうな!!

道路を暴走するのが 18歳
逆走するのが 81歳

心がもろいのが 18歳
骨がもろいのが 81歳

恋におぼれるのが 18歳
風呂でおぼれるのが 81歳

ドキドキが止まらないのが 18歳
動悸が止まらないのが 81歳

恋で胸を詰まらさせるのが 18歳
餅で喉を詰まらせるのが 81歳

自分探しをしているのが 18歳
みんなが自分を探しているのが 81歳

東京オリンピックに出たいと思うのが 18歳
東京オリンピックまで生きたいと思うのが 81歳

社会に旅立つのが 18歳
あの世に旅立つのが 81歳

早く「20歳」になりたいと思うのが 18歳
できれば「20歳」に戻りたいと思うのが 81歳

「嵐」というと松本潤を思い出すのが 18歳
「嵐」というと嵐寛寿郎を思い出すのが 81歳

昨日、5月22日、82歳になりました。こんな戯れ言を
みつけました。

我が家の周辺の小さな花々

そろそろ公に外出していいことになりそうだ。これまでは散歩は奨励されていたのでマスクをして、人のいない時間に周辺をうろうろしていた。これからは少し立ち止まって写真を撮ったりしながら散歩しようと思う。

本日土曜日、久々に晴れてきた。奥さんは家でSKYPEで仕舞のレッスンをしている。邪魔にならないように近くの病院の庭に行って写真を撮ってきた。これまで大型のカメラを持っていたのだがスマホで十分、というよりスマホの方がきれいに取れることが分かった。いままで苦労してとっていたのだが、何にもしないで写すだけでこれだけの写真が撮れる。いままでの努力はなんだったんだ。かなり悔しい。

私は不調法で花の名前はほとんど知らないので入れてありません。少しは分かるのですが・・・上の4枚は我が家のお庭、それ以外はほとんど道端の花です。もう少し入れておきます。

蘇民将来 ファクターX

我が家の近くに氷川神社がある。さいたま市の氷川神社の末社で、板橋区には多くの氷川さまがある。氷川神社の祭神はスサノオ神である。いつも狛犬探訪を行っているが本日は氷川神社の「蘇民将来」についてである。我が家の近所にも玄関に蘇民将来の「符」が飾ってある家もある。この家は「蘇民将来」の子孫ですよという証明書みたいなものである。

蘇民将来というのはだれか?
スサノオ神があるとき旅をしていた。ある夕暮れ宿をとろうとした。蔵が100もある金持ちの「巨旦将来」に頼んだが泊めてはくれなかった。貧しい兄の「蘇民将来」は快く引き受け粟のご飯でもてなした。

数年後スサノオ神は再び兄の蘇民将来の家を訪た。
「かつてのお礼をしたい」
「茅がやで、輪をつくって腰につけなさい。」
と伝えた。

その夜弟の巨旦将来の家人は疫病でみな死に絶えた。
しかし蘇民将来の子孫は茅の輪をつけていたので無事であった。
以後、蘇民将来の家は疫病もまぬがれ、繁栄し幸せに暮らしましたとさ。

ということから「蘇民将来の子孫」符を玄関に貼っておくと疫病から免れると信仰が生まれた。夏前にスサノオ系の神社で行われる「茅の輪くぐり」も蘇民将来信仰のひとつである。蘇民将来というのは朝鮮系らしい。日本人や韓国人が新型コロナにかからないのは蘇民将来の子孫だからではないだろうか。

山中伸弥先生は、
「日本の対策は世界の中でも緩い方に分類されます。しかし感染者の広がりは世界の中でも遅いと思います。何故でしょうか。私は、何か理由があるはずと仮説し、それをファクターXと呼んでいます。ファクターXを明らかにできれば、今後の対策戦略に活かすことが出来るはずです。」

ムムッ! ファクターXは蘇民将来の茅の輪ではないか???

干支の狛犬おまけ

干支の狛犬に入っていない動物の代表はネコかな? 狛ネコは京都の峰山というところにあると聞いた。京都といっても天橋立から北近畿タンゴ鉄道というのにのって峰山に行かなければならない。峰山といっても今の人はわからないだろうが、私の時代の人はあの野村監督が出たのが峰山高校、ということはみんな知っていた。その峰山から歩いて1時間くらいのところに狛ネコがあった。その神社の人に聞いたら、狛ネコは全国でもここだけだよ、とのこと。狛カエルは埼玉県のみずほ台駅から3キロほどのところにある水子貝塚のすぐ脇にある神社(名前を忘れた)にある。最近交通安全のために、無事カエルをもじったもののようだ。あまりおもしろくない。水子貝塚博物館の方が興味深かった。狛ゾウ 仏教の発祥はインドだからお寺に狛ゾウがあってもいいだろう。四国お遍路に行った時に第62番だったかにも門前い狛ゾウがいた。これは文京区の白山の交差点の近くにあるお寺(これも名前を忘れた)の門柱の上にある小さなゾウの像。私はここをよく通るので気になって写真を撮りました。もうだいぶ前の話ですけど。

干支の狛犬その4

酉年=にわとり ニワトリの神社もあまり見つからなかった。これは青森県黒石市の神社にあるものを借りた。奈良の石上神社神社には尻尾の長い鳥がいたが、狛酉はなかった。黒石市にも行かなくては!戌年=狛犬 世界一大きな狛犬、岐阜県の美濃焼の狛犬。世界一というが、狛犬のルーツといわれるのはエジプトのスフインクスなので日本一といって置く方が無難だと思う。岐阜県美濃の八王子神社。岐阜県の瑞浪にある東濃地科学センターの友人から教えてもらって昨年暮れに行ってきました。 でかい、よく作ったものだ!亥年=いのしし、京都御所の近くの護王神社はイノシシ神社で有名。さらに建仁寺の隣にある摩利支天にも同じ形のイノシシがある。一昨年歩きまわって探したものです。

干支の狛犬?その3

午(ウマ)駒=馬 だから狛駒となるかもしれないが、あまりおもしろくない。狛犬風の馬というのがいいかも。大阪八尾市の田中神社は競馬の神様がいる神社だそうだ。先日京都淀競馬場のそばを通ったが、この神社は知らなかった。ということでこの写真は借り物。近々行って写真を撮ってこよう。

 

未年=羊年 羊が門番になっている神社はあまりない。埼玉県の高麗神社に行ったら、隣にある高麗聖天の末社の前にこの石造があった。高句麗は騎馬民族の国だったから「羊」はシンボルだ。

 

申年=猿 狛犬は神社の鳥居の両脇に置かれていることが多い。それは尊い社殿を守護するための門番だからだ。前に出てきた牛やここにある猿などは神さまのお使いで、本来は秘書役である。庶民信仰では牛も猿も狛犬と同列にしている。赤坂の日枝神社である。日枝神社のもとは比叡山のふもとにある日吉神社である。

干支狛犬その2

子丑寅卯と順番にきた。今回は卯でウサギ。浦和の調神社、調とかいて「つき」とよむ。そこから月神社と解釈されて、月にウサギとなった。鳥居の前のウサギは2015年だったかに新しいのに取り換えられた。前のウサギは手水舎の横に置かれている。撮影日時は2月15日、写真の5月19日は二枚を合成した日にちです。外出したわけではありません。念のため!

 

これは龍です。龍=ドラゴン=辰ということで入れておきます。 天橋立の根元に丹後一宮の籠神社(このじんじゃ)があります。ここは元伊勢といわれ、由緒正しい神社です。宮司さんは海部(あまべ)さんでこの家の系図は天皇家と同じくらいの歴史を持っている。国宝になっているそうだ。そばには浦島太郎の伝説があり、海洋民族の出身であることを示している。籠神社の裏手高台に眞名井神社がある。この神社の前まで津波が来たことを示す石碑もある

 

辰の次は巳である。巳はヘビ、水辺にいるので弁天池のそばに置かれることがある。東京西立川の駅近くの矢川弁財天にある。府中崖線の湧水が水源で矢のように早く多摩川に流れ込むので矢川という。(地元に住む下島伸介さん言葉)

干支の狛犬

自粛の毎日、家中登山も膝が傷み、富士山に登ったところでいったん休止。
今はパソコンに向かって、干支の狛犬探しをしています。
昔の写真をとりだして狛犬や狛ネズミ、狛申などがないか調べて遊んでいます。
3日間だらだらと調べて十二支が完成。
とりあえず3か月分載せます。子の年(2020年)19年の暮れに年賀状のために京都大豊神社まで行ってきました。丑年(2021年用)文京区の牛天神にありました。牛は天神のお使いです。なのでガードマンである狛犬とは違うのですが、ここでは一対になって阿吽の狛犬風になっています。寅年、京都の鞍馬山は義経が修行をした寺。毘沙門天を祀っている。寅は毘沙門天の守り神。でもここでは狛犬風。ちなみに東京神楽坂の毘沙門堂にも同じような狛寅があります。

快語碌から勝手に転載!

2020年5月8日金曜日

大型連休、終わってみて

 大型連休、終わって。。。
文字通りに、STAY HOMEの連休だった。といっても、翌日の7日から、生活が変わったわけではない。
東京は不要不急、おでかけは自粛、がまだ続いている。テレビも、新聞も、コロナだらけで、なんだか、コロナを中心に、すべてが、動いているみたい。自分も、コロナを気にしすぎで、「不安」になり、「不信」になり、そして「不満」になっていたみたい。だれかのせいにしたくなっていた。
今朝、ふと、気がついた。なーんだ、そっか、いつものような生活リズムで、いいのだ、と。コロナ、関係ない。
朝起きたら、体操をして、エアロバイクをこいで、いつもの3PO(散歩)コースを歩く。帰ってきて、朝食を食べながら、ゆっくり新聞に目を通す。
ひと休みしてから、簡単に掃除をしたり、洗濯をしたりの家事をして、本を読んだり、CDを聴いたりして、昼食。
1時すぎ、もういちど、遊歩道を歩く。一日、一日、運河両側の緑が濃くなっていくのが、わかる。この季節が最高。
ほとんど、人に会わない。だから、マスクは不要。
この後、いつもなら、ちょいとお出かけをするが、今は行かない。ご近所の銭湯が、5月5日で廃業になり、近くにないので、バスで、銭湯めぐりをするつもり。
夕食は、6時と決めている。ほぼ毎日、自炊している。もう何年もやっているので、レパートリーも増え、ご近所さんに配って、よろこばれている。
テレビで、7時のニュースをみて、夕刊を時間をかけて読み、日誌を書き、9時前後には、寝る。 これの繰り返しの日々です。特にコロナが襲ってきても、
この日程は不変です。
ところで、今朝の新聞に、岡本行夫さんの訃報が載っていた。コロナの犠牲。
岡本さんとは、マニラの日本大使館でお会いした。旦那の死後、大統領選挙に立候補したアキノ夫人の選挙監視で行った時、政治、経済のブリーフィングをしてくれたのが、岡本さんだった。なかなかやる外交官、という印象だった。
その後、何年かたって、オーストラリア大使館で、お会いした。パーティーを中途で退出した際、エレベーターの中で会ったのが、岡本さんだった。いちど会っただけなのに、名前を覚えていてくれた、「お元気?」、と声をかけてくれたのが、岡本さんだった。
小泉内閣で、首相秘書官もした岡本さんを、テレビなどでおみかけするたびに、まだ頑張ってるな、と思っていた。

PCR検査機器は日本製

5月7日のテレビで、フランスの駐日大使が松戸にあるPSS(プレジション・システム・サイエンス)という会社の田島秀二社長に感謝状を渡したという映像が流れた。詳しく見ていなかったので、この会社のHPを開けてみた。この会社では全自動PCR検査システムを作っていて、この器械がフランスの新型コロナ(COVID-19)のPCR検査に多大な貢献をしたとして感謝状が渡されたそうだ。

日本では掛け声はあるが、医療崩壊防止としてPCR検査数を意図的に減らしていた。しかしフランスなどでは医療崩壊を起こしながらもPCR検査をやっていた。感染者数がわからなければ、緊急事態を解除する根拠がないからだ。そんな大事な検査だが、人員も機械も足りないので増やせないと言われて、私たちは納得させられていた。
「PCR検査をたくさんやればいいってもんじゃない。やらなくても日本は死者数は少ないんだから」という論がまかり通っている。しかしヨーロッパの国々や韓国は日本の数倍数十倍も検査をやっていた。その機械は日本のPSS社製だったのだ。

PSS社の「全自動検査システム」は人手はほとんど必要ないので医療従事者は危険にさらされない。2時間で10検体、1日で100検体ぐらいを安全に判定できるという。器械1台が800万円。この器械を100台買って保健所に置けば、人手は増やさなくても1日10000件の検査ができる。100台でもたった8億円、無駄なアベノマスクは400億円。5000台買える計算だ。

この機械はフランスや韓国で大活躍したが、日本には1台もないそうだ。なぜなのだろうか?日刊ゲンダイの記事によれば
「3月に認可申請したが、厚労省から何の返事もない」
「なぜなのかわからない」と会社は答えているという。

どうやらこのニュースはフェイクニュースにされている。根拠は厚労省のHPに載っていないからだそうだ。したがってテレビ朝日以外では報道しない。しかしPSS社の株価はストップ高になっている。ということは経済界では事実として認められているのだろう。

厚労大臣が全力でやると言っているのだがから、なんとしてもこの機械を認可することが大事ではないか。実績は十分にある。あらゆる手立てでPCR検査を頑張って欲しい。いままで厚労省はできない言い分けをしていたが、地元にこれだけの機械があるのになぜやらないのか?

コロナ自粛で、私の気分は晴れないのに、こんな状況を見るとさらに気分はブルーになる。なんとかまじめに説明して欲しいものだ。勝手に自粛を解除してしまいたくなる毎日です。Makoto Okamura、村重 嘉文、他31人 

コメント
  • 小原 直史小原 直史 なんかホント、戦前の大本営発表と一緒じゃないですか!国外の情報収集ができるはずのネット環境なのに誰もそれをやって発信しなかったのは我々自身の怠慢としか。嗚呼。腹立たしい!
    澤田政昭 外出自粛で家にいても、テレビをつけると コロナウィルスのニュースばかり。
    そして政治家の無策な言い訳を聞かされていると、腹が立ってくる。
    テレビ見るのも、嫌になってきたここ2,3日。
    外の空気を吸うと、気持ちが紛れる。
  • 小野寺 尚美 なぜここまでして検査したくないのか?もう謎の域に達してますね。実際の数の多さを知られたくない、知りたくないのか?陽性者をしっかり隔離して行く方向で頑張った方が、皆健全な様な気がしますよね。誰だって罹る可能性があるのだから、尚更だし、多くが軽症ならば、全てを入院させる必要もない。補足しないで色々言っても、状況の勝手な収束はないのだけどね。
  • 水野 麻子 彼らは国民の健康と安全より自分たちの無能無策でしかないけど築き上げたバベルの地位を守りたいのに必死なんでしょうね😑
  • 坂下 光洋 今の高校生の教科書にはPCR検査の事は習い、会社によっては生徒が実習する課題例としてPCR検査が掲載されていて、テレビによく出たあの機械が教科書にも写真がある。なのに大人たちの社会はなんとも、なんとも、不可解。なんかあるな、と子どもでも感じると思うところも、あります。
  • 三輪主彦 PCR検査って教科書にもあるのか?生物の先生、もっと発言してほしいね。

読書チャレンジ:7日目 「高校数学と仲直り」

 テレビでは連日「80%接触削減」と繰り返している。新宿や東京駅の風景が写り「昨年よりも81%も減りました」などと報道している。数値を見せられると根拠がありそうだが、電車の乗降客が80%減ればいいのか?よくわからない。小池都知事は「三つの密」を避けると指示している。しかし三密にならなければいいと曲解して地方の神社詣でする人もいる。「STAY HOME」の標語のとおり家で犬を抱っこしてコーヒーを飲んでいればいいと理解した人もいる。

 日本ではほとんどの人がなんとなく理解して外出を控えているが、国によっては暴動が起きたり、何万人もの人が亡くなっても経済活動再開のデモをやっている状況がテレビに映し出されている。消毒薬を注射すればいいだろうなどとんでもないことを言う指導者もいる。指導者は科学的、論理的に説明しなければ、納得させられない。論理的でなければ、いくら繰り返し丁寧に説明してもただの詭弁にしかならない。

とはいえ反論するだけの科学的、論理的思考が私にないのが悔しい。そこで何かいい参考書がないかと書棚を眺めていてこの本を発見した。「論理と統計でディベートに勝つ」という章があった。2005年の出版だから新型コロナのことはないが、小泉首相のイラク特措法の論議の破綻など数学的な見方で説明されている。いまの高校数学は確率統計を駆使して社会との関係を深めている、と私は理解した。私の時代、算数の続きのような高校数学だったが、若い指導者たちは高校数学を学んできているはず。論理的に考えることができるはずだ。

オーバーシュートの説明で専門家は一見グラフに見えるイラストを見せて解説していた。普通の人はついグラフだと思い、急激な増加予測に驚いた。しかし専門家はイラストを使って説明と言っていた。この図は横軸にグラフでは一番大事な時間の長さが表されていない。時間軸を正しくとれば、感染者数を抑えることで長期戦になることはすぐわかる。しかしオリンピック関係者は急激な感染を抑えれば4月には終息できると考えた。それに忖度した厚労省はPCR検査数を抑えて、感染者数が少ないように見せた。オリンピックが延期になり、それから対策を始めたが、後手後手に回ったことは周知のことである。

科学的論理的に考え行動を起こさないと、とんでもないことになる。今は非常事態宣言を解除するかが問われている。専門家が示すグラフを見れば終息に向かっていることはわかっているが、まだ1か月延長する方向だという。子どもたちのために早く学校を開かなければ、将来に禍根を残すことになる。中小企業はつぶれるよ。国の指導者は、専門家の話を理解できるような教養を持たなければいけない。
「高校数学仲直りブック」でちょっとだけ学んだけだが、指導者の教養のなさは国の命取りになると思った。これからの時代、指導者も含め理科嫌い、数学嫌いではいられない社会にならなければいけないだろう。

読書チャレンジ 6日目 東京の自然史

読書チャレンジ:6日目

#7days
#7bookcovers

ブラタモリは私の最も好みのテレビ番組である。今は全国観光案内みたいになったが最初のころはタモリさん自身の「坂道好き!」の企画だった。道路に水をこぼして、「ほらこっちに流れるでしょう!」など嬉しそうに微地形の説明をしていた姿が思いだされる。

タモリさんは日本坂道学会?の副会長だったとどこかで語っていた。そして日本地質学会表彰(地質学の社会への普及:NHKブラタモリ制作チーム)も受賞している。タモリさんが坂道探索を深めた際の教科書は今回挙げた「東京の自然史」だったのではないか?タモリさんの話の隅々から推察して私はそう確信している。

ここに挙げた本は1964年初版だがその後何回も版を重ねている。山の手台地、下町低地という言葉を普及させたのはこの本が初めてだった。「タクシーの運転手から、東京の地理に通じるコツは下町では橋を、山の手では坂を覚えることだと聞いた」と書かれているが私は貝塚先生から直接聞いた。8人しかいなかった私の学年の担当の教授(当時は助手)だった。私たちはこの本を手に坂道を上がり下がりしていた。

「東京の自然史」を読んで目の前がパット開けたという山崎晴雄さんと久保純子さんが「日本列島100万年史」を書いた。きっとタモリさんも読んでいると思う。山崎さんも久保純子さんも私のだいぶ後輩だが、東京都立大学では大変お世話になった。ちなみに久保純子さんは現在早稲田大学の「探検部」の顧問である

読書チャレンジ:5日目「夢二を変えた女(ひと)」

 #7days
#7bookcovers

竹下夢二という画家、私はあまり好きではない。猫を抱いたなよなよとした女性の絵(黒船屋)を見たことがあった。夢二には奥さん子どももいたが、何人もの女性と浮名を流した。黒船屋の女性も夢二の毒牙にかかった女性の一人だと思っていた。しかしこの本を読んでみて、夢二とこの女性との関係は、一方的な受け身の関係ではなく、お互いに自立を目指した関係であったと知った。黒船屋モデルの女性の名は笠井彦乃。この本の著者坂原さんの母の姉、伯母だった。

 坂原さん文を適当に拾ってみる。若いころは彦乃と夢二の関係を不快感をもっており、母が熱心に彦乃を追っている姿に批判的だった。ところが定年退職後母の集めた彦乃日記を読むにつれて、夢二に付き従って病に倒れた薄幸の女性とはかけ離れた彦乃の姿が浮かび上がった。実は画家として自立をめざし、夢二とは対等な愛情をもとめて愛を貫いた意思のある女性だった。

坂原冨美代さんは私が竹早高校で10年間一緒に過ごした同僚で、いつも「もっとシャントするように!」と言われていた。我が家、学校でも叱咤激励されており、心休まる日が少なかった日々だったことを思い出す。
まえがきに近藤富枝さんが坂原さんのことを「彦乃さんに似ている!」と書いている。彦乃さんは夢二の描く弱弱しい美人ではなく明るく行動力のある女性だったようだ。彦乃さんは大正時代の重苦しい世相を突き動かし女性の自立を目指した一人だったようだ。まさに姪っ子は現代の彦乃さんのように見える。現代の自立した女性の典型だが、若いころはダンナとともに登山家でもあった。夫君は高名な登山家。

読書チャレンジ 第4日目

読書チャレンジ:4日目。

2003年に学校の先生をやめて、大人のための科学教室「みわ塾」と農家の手伝い「猫の手クラブ」を始めた。当時話題になっていた「理科離れ」は子どもたちの問題だけでなく大人の無関心が原因だとの考えからであった。「大人こそ科学に関心を持つべきだ」と生徒たちの親年代を集めて新宿の榎町地域センターで講座を始めた。

そこに田口さんがあらわれ「人集めならいくらでも手伝ってやるよ」と言ってくれた。退職して収入が無くなった事を知っていたからだろうが、私は時間を作って遊びまわりたいのが一番だった。小規模で月2回ぐらいのことしか考えていなかったので、断って自己ペースでやってきた。みわ塾を始めて17年になるが最初の会から田口さんらが来てくれ援助してくれている。ありがたいことで「このご恩は一生忘れません!」(…ムリヤリ言わされているのだが)

田口さんのことは読売新聞にいたKITAMURAさんから紹介された。サハラマラソンを日本人で初めて完走した人だと聞いていたが、とんでもなくすごい人だとはあとから知った。ハーバード大学を出たあとJAICAの前身国際協力事業団、国連UNDPのスーダン常駐副代表、南北問題日本委員会事務局長など世界を股にかけて活躍をしたひとだ。今は女性の活躍はすごいが当時は日本女性の活躍はごく珍しかった。しかし56歳の時にですべての仕事を辞めて、私が勤務していた竹早高校のすぐ近くにある指圧学校に通い始めた。「介護施設でおばあさんにマッサージをしたら涙を流して喜ばれた。政治の世界で人々の幸せを目指してきたが、一人のおばさんを喜ばせる方が自分にはとっては向いていると感じて、指圧師になった」と話してくれた。

田口さんは56歳から26年間かけて「楽隠居」生活を続けている。その間の生活状況はよく知っていたつもりだが、「隠居の来し方」を読むととんでもない遊びスケールだ。四国遍路3回、西国巡礼、スペインサンチャゴ巡礼など、東海道、奥の細道全部歩き、66歳記念銭湯66入湯。外国は毎年モンゴル、毎年シンガポール、ガーナ、イスラエル、ブータンなど数知れない。

私は「落隠居」生活17年だが、自分の足跡を思い返すとたいして遊んでいないなと感じる。そんなことを言ったら奥さんが「あんな偉い人と比べるなんて!、あなたは世の中の人に比べたら何十倍も遊ばせてあげているのよ!」と怒られる。そうだな、比べる方が無理なのだ。我が家の奥さんにこそ「このご恩は一生忘れません」というべきなのかもしれない。

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コメント

橋本沙和 田口さん ❤️
みわ塾で東大に行った時、そこの道を、まっすぐ行くと京都みたいなことを言われて、田口さんのスケールの大きさに驚いたのを未だに忘れません😆

福井牧子 お〜田口さんだ🤗
私も奥の細道、西国、熊野等お世話になりました👏

高世泉 おぉー、田口幸子さま❣️一度中山嘉太郎さんの桃🍑農園猫の手でご一緒しました。その前に予習で中山さんから借りた「カルツーム便り」を拝読していたので、女傑っぷりに緊張してお会いしたら、優しいおばちゃんでホッとしたのを覚えています😅 「隠居の来し方」是非読まねば‼️

恩田 真砂美 すごい!ご紹介ありがとうございます!