読書チャレンジ2日目(7日間)

本日は2日目 4月の末には東京都の感染者は激減したが、5月に入ったらまた連日160人を超える人数になった。専門家会議の結論では5月6日の自粛解禁はムリだとされた。まだ1か月は自粛延長の宣言が安倍総理から出されるそうだ。国民が8割削減に協力しなかったから感染者数は劇的に減らなかった。だから延長とのことだが、本当に4日に総理がそんなこと言ったら反乱がおきるかも。大阪府知事は延長には応じられないなどと言っている。さて・・・
読書チャレンジの2日目には、戸山高校の卒業生である浜先生の三部作を取り上げました。もう一冊は毎日新聞の校閲センターの岩佐さん。

安倍政権の断末魔が迫っているが、新型コロナの前からこの状況を予想していた人が浜矩子さんだ。
2015年「国民なき経済成長、脱アホノミクスのすすめ」
2016年「アホノミクス完全崩壊に備えよ」
2017年「どアホノミクスの断末魔」
とアホノミクス三部作である。我が戸山高校の誇る卒業生、私も同窓会でお目にかかったことがある。最近テレビでお目にかかることがないのは、この本のせいだろう。同志社大学教授で、財務省、金融庁、国税庁、経産省の委員としても活躍した、いわば政権の身近な人だった。その人がこれだけ言うのだから、アホノミクスなのだろう。今回の本は「ど」アホになっている。

もう一つ、安倍官邸の国語力のなさを校閲したのが「失礼な日本語」である。毎日新聞の校閲センターの岩佐さんが書いたもの。
「そもそも=基本的」
は30種以上の辞書には載っていない。しかし閣議決定で正当化した。辞書よりも安倍官邸の方が正しい言葉であるといういうお墨付きを作ったのだ。これから先、辞書にはそもそもは基本的という意味だと付け加えなければいけないのかな。

「おはようございます。安倍普三であります」
とHPの堂々と載っている。何がおかしいのかと思ったが、安倍総理の名前は「晋三」であって「普三」ではない。一番身近な人たちが自分の使える人の名前を間違えるなんて、それが堂々と官邸のホームページに載っていたのだそうだ。(いまはさすがに消された)

この2冊、何の関連もないが私の中では、安倍政権は「そもそも的」に国語力がないことを裏付けるものとして納得している。

読書チャレンジ 第1日目(7日間)

「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで好きな本を1冊7日間投稿する」
という企画が高世泉さん、岡村隆さん、三五康司さんから我が方に回ってきた。私は「書を捨て町に出よう」という題名を見ただけで、納得して街歩きをしてきたので読書文化について語る資格はない。それに、どんな本を取り上げたかで、本人の中身を見透かされそうだ。しかしまあ、どうみられるか気にする年でもない。彼らから引き継いで気になった本を取り上げてみる。

という企画がFB上で行われれているので、私も暇なので参加してみることにしました。

招待してくれた三五さんが、賀曽利隆の本を上げていた。私も「賀曽リック」信者の一人だが、もう一人強烈な信者がいる。彼の「9つの森の教え」(築地書館)を取り上げておく。著者の名前は「峠隆一」。賀曽利隆が峠越えを始めたころに着けたペンネームだ。中身はマレーシアサラワクの森から得た知恵を記したものだ。当時彼はサラワクの森にすむ先住民の抑圧された状況を告発し続けていた。投獄されたり入国禁止になったりで本名を使えなかったのだろう。だから一番尊敬していた名前をもじってつけたのだろう・・・と思う。

いま彼は日本に逃れてきた難民が、認定もされず家族と引きはなされて入管の収容施設に入れられたままになっている状況の取材を続けている。日本の「おもてなし」はこんなものだったのか。さらに告発を続けてほしい。今は本名で活動しているがここでは本名は秘密。ということで二冊並べておきます。

100歳おばあさん!その後報告

今年の5月25日、老人ホームに入居中の我が母はベッドから落ちて 、骨折しました。その後入院していましたが、その間に認知症が進み、ほとんど何も分からなくなり、要介護5という状況になりました。その後紆余曲折を経て、昨日同じ老人ホームの特養に入所することができました。

高齢者を抱えた家なら必ず通る道ですが、直面するまでどう動いたらいいか考えたことがありませんでした。我が家の奥さん他多くの皆さんから沢山の情報をいただきました。何から始めたらいいか分からないことだらけでしたが、色々試行錯誤して、もっともいいところに落ち着きました。本人も驚くべき回復で、年配の介護士さんに「あなた若くて美人ね!」などお世辞を言って喜ばれています。私から見ると恥ずかしいようなお世辞を言うのもすばらしい処世術、すごい回復力です。

我が家の3ヶ月、これから介護に直面する人に参考になればと思い、また自分自身の記録としてここに記しておきます。

1: 家庭、あるいは老人ホームにいて骨折した場合

 老人ホームで転んだと連絡を受け、移送で救急車で帝京大学病院に運びました。レントゲンとCTの検査の結果、恥骨骨折とのこと。手術をしなくてもいいとの診断。家に連れて帰って静養させるようにとのことですが、寝たきりで安静という状況を自宅、ホームではできません。そこで我が家は老人ホームのショートステイをお願いしました。事前にケアマネジャーと懇意におかなければ話は進みません。我が母は要支援2で、ディサービスに通っていたおかげで、ケアマネさんに相談ができ翌日にはショートステイをお願いすることができました。

第1の教訓、日ごろからケアマネジャーと懇意にしておくこと。

2;高齢者は骨折すると認知症が進む
 
 ショートステイに入ったが、自分でトイレができないとことが大変なストレスになるようで、突然せん妄が起こるようになりました。ショートステイ一週間目に夜怯えて騒ぎ出して、ベッドから落ちてしまい、今度は関連病院に入院させました。寝たきりだったので介護タクシーで行きました。タクシーの運転手さんは親切でしたが、一人では無理で奥さんが大活躍してくれました。

 その病院では骨折は軽微だがせん妄が激しいので精神病院に移すといいます。埼玉にある精神病院を見に行ったのですが、いわゆる精神病院。そこに入ったらもう二度と出てこれないのではないかと思いました。今は妄想が激しいが落ち着いたら元に戻ると言われているのに、ここに入ったら本当に狂ってしまうと感じて、何か手立てをと考えました。
  いろいろ調べたら、なんと我が家のすぐ前にある健康長寿医療センターの精神科が一番進んでいると聞きました。急いで担当のソーシャルワーカー(社会福祉士)に相談したところ、自分の病院は実績がないのでできないとのこと。やってみなければ分からないじゃないかと、健康長寿医療センターに行き、状況を説明すると、どこからでも平等に受付はするとのこと。早速戻ってその旨を報告すると、やってみますとのこと。半分は無理と思っていたら、運良く空きがあって入院できるとの返事が来たという。

第2の教訓、ダメでもともと、やってみるものだ。頼るのは医者よりソーシャルワーカー!

3;精神科を経験するのも良いかも!

  精神科に入って一週間ぐらいはせん妄が激しく、夜は絶えず起きて、怯えていました。我が家では毎日食事をの世話をしに行きました。夜寝ていないので食事の時に寝てしまい、ほとんど食べません。無理にスプーンでおかゆを食べさせているうちに、だんだん眠らず食べるようになりました。しかし癖がついてしまい、誰かがいかないと食べないという状況が続きました。その間は誰かが昼夜2回づつ病院へ通いました。たぶん薬のおかげでしょうが、せん妄は次第に少なくなり、自分で食事ができるようになりました。

 毎日通っているうちに、皆さんと仲良くなりました。精神科にいる人はなかなか興味深い。
「昨日北海道から帰って来たばかりなのよ」
「西武デパートの食堂に明で行って来たのよ」
「安倍とは同級生で、あいつは頭がわるかったなあ」
「明日退院なので、家までついてきてくれる?」
などなどいろいろ語ってくれる。
「そうですか!」
と感心すれば喜んでくれる。明日退院の人は毎日同じことを言ってくる。

教訓3:精神科って人生の縮図のようななところ。一度経験してみると世の中を見る目が変わる。

4:病院は1か月迄

  入院するのは一か月迄と決まっている。それ以上は別のリハビリ病院に行くようにとのこと。そうなると先日紹介してくれた精神病院に行かなければならないので、私はkashidaさんからもらった情報にそって、老健に入れることを考えた。頼るのはケアマネさん。様々なケースを相談した。

教訓4:
●老健に入るためには介護度が3以上であること。
●療養の結果、帰宅できる可能性があるもの。
●3か月入ったら、次の人に譲らなければならない。
●預貯金が千万以上の人は介護限度額認定ができない。
 限度額認定ができないと月々の支払いが膨大になる。我が家は慌てて区役所に行き、貯金通帳を見せて認定してもらった。 

 何とか頑張って老健に入れることが決まった。しかしその数日前の7月20日、無理に立ち上がろうとしたらしく、夜中にベットから落ちた。同じ病院の整形外科で診察したところ、大腿骨骨折。あちゃ~これは致命傷だと思った。手術はちょっと無理そうなので、保存的療法ということになった。通常手術をしない時には退院してリハビリということになるが、この病院で骨折したのだから、痛みがなくなるまでは面倒を見てくれることになった。あと一か月入院が伸びたのだが、その後は老健に移動する予約をとって待ってもらうことにした。しかし大腿骨骨折という事故があって、介護認定は最高度の5ということになった。要介護5だと老健は受け入れてくれないとの連絡が入った。。
 受け入れ先を考えなければならなくなった。もう特養しか受け入れ場所はない。これから再び受け入れ先を探す日々が始まった。

教訓4-2:入院したら退院後の行き先を考えなければ。その前に介護認定を申請しなければならない。

5:特養は100人待ち、でもよかった

  要介護5になったら行く場所は特別養護老人ホーム、特養しかない。しかし特養は待機児童ではなく待機老人がたくさんいる。調べてみるとそれは都会の特養で、地方に行けば空きはあるようだ。能登に移住したONOGUCHIさんから「おいでよ!」と言われたが、我が家はいろいろ事情があって能登には移住できない。
 ということでこれまでショートステイでお世話になっている老人施設に絞ってお願いすることにした。8月5日に退院して再びショートステイで特養にお願いすることにした。このあたりはケアマネさんの尽力が大きかった。

 8月23日、まもなく最初の骨折から3か月目のころ、特養に空きができることが分かった。ショートで入っている同じ部屋に入所できることになった。ということで本人はこれまで通りに過ごすことができ、環境変化によるストレスはほとんどなさそうで、機嫌よくご飯も食べている。私にとっては3か月ぶりの穏やかな日が戻った。
 本人は最初はなぜここにいるのかわからなかったようだが、記憶はごく短時間しか残らないので、私たちが帰るよと言っても後は追わなくなった。ご飯は一人で食べることができるのでおやつの時間行くようにしているが、「久しぶりだね!」と毎日言う。
 2日ぐらい開けても、同じように久しぶりという。我が家にとっては、ずいぶん楽になった。

教訓5:100人待ちでもやってみなければわからない。

 この間、我が奥さんはじめ弟夫婦、いとこのkamataさん、息子、娘一家、孫たちが変わり番こに訪問してくれた。おばあさんは一人一人の名前や関係も思い出せるようになった。皆が相まって活動してくれた結果、おばあさんはいままでのような平穏な日常を取り戻せたような感じだ。ありがたいことだ。

 さらにフェースブックや直接顔を合わせてアドバイスをしてくれた皆さんにも感謝感謝の日々です。
 

八景島 小柴のどんぶり屋

京浜急行、金沢八景駅からシーサイドライン(リニア)にのって八景島駅に行きました。八景島は柴漁港の外にあります。その漁港の一角に漁協が経営する食堂があるのを友人に教わりました。名前は「小柴のどんぶりや」です。そこの穴子丼が名物と言います。名物に旨い物なしと言われますが、新鮮な魚のてんぷらは旨い。巨大な穴子てんぷらは一度試してみるといいですね。

煮穴子はお持ち帰りにしました。それをぶら下げて、暑い日差しの中称名寺まで歩きました。金沢北条氏の氏寺として栄えたようで、境内には金沢文庫もありました。現在は一帯が横浜市営の公園になっています。寺の庭園はいま黄色のキショウブが真っ盛り。多くの人が散策していました。巨木、名木がいくつかありました。楷樹、別名孔子木というもの。孔子廟などにある超珍しい木だとか。 もう一つは奥様の探していた謡曲「六浦」に出てくる「青葉楓」、付近の山々が紅葉してもこの楓だけは紅葉せず青葉のままなのだそうだ。なぜそうなるかは「六浦」を聞けばわかるそうだが、私は聞いたことはない。日差しは強かったがさわやかな風、金沢文庫もシニア200円で大変良かった。年寄りのディサービスとしては大変良い一日でした。金沢文庫は写真禁止。

 

今年のボタン

例年落合の薬王院に行く!ボタンの名所だから。といあえず写真!
22日に奥さんが西新井大師に行って写真を撮ってきた。
薬王院では黄色いのが撮れなかったので、借用し追加した。

狛犬:高麗神社

西武線の飯能から2つ目の駅が高麗だ。巾着田があるので多くの観光客が集まるが、今の時期は高麗神社へのお参りの人でにぎわう。もっとも高麗駅から2.5キロあるので、ほとんどの人は車で行くようだ。

狛犬愛好家の私はここ数年は狛犬(高麗犬)のふるさとである各地の高麗神社にお参りしている。昨年は東海道の大磯にある高麗山のふもとの高来神社にいった。高来はこうらい神社らしいが、元は高麗だったのだろう。狛犬は高麗から来たというのは1つの言い伝えで本当かどうかはわからないが深くは詮索せずお参りをしている。

高麗の高麗神社には十数年前に来たことはあるが、その時には狛犬愛好家ではなかったのでどんなものがあるか確認をしていなかった。今回それを確認したくて埼玉県の高麗神社に行ってきた。さぞかし立派かと思ったが、昭和期に作られたもので、珍しい狛犬ではなかった。かなり残念。

しかしこの高麗神社、平成29年9月20日に天皇皇后両陛下がお参りになっていることを知った。
神社の案内にはご祭神は高句麗からの渡来人であると書かれている。
霊亀2年(716年)武蔵の国に東国7国より高句麗からの渡来人1799名を集めて高麗郡が置かれました。若光(じゃっこう)は高麗人の高い技術をつかってこの地を開拓しました。その遺徳を偲び作られた霊廟が高麗神社の始まりで、代々若光の子孫が宮司を務め、現在で60代目になります。

日韓関係がややこしいことになっている今、なぜ天皇皇后が高句麗の神社に行かれたのだろうか?産経新聞などは巾着田に行かれたことは報じたが、高来神社に行かれたことは一行も書かなかった。天皇皇后両陛下が慰霊の旅として最後まで心残りだったのが韓国だったという。退位前にせめて朝鮮の神社に参っておこうと考えられたのかもしれない。本当のところはわからないが、大変な反対があることを承知で決意されたことの意味を考えてみなければいけないだろう

広告に惑わされないぞ!

正月、孫たちがきていた。私がハズキメガネをかけているのを見て「ハズキメガネ、だーい好き!」というコマーシャルに合わせて、お尻の下にメガネを敷いた。コマーシャルでは大人のお尻の下に入っても大丈夫といううたい文句だが、私のメガネは小学生のお尻の下で「パキッ」という音がしてひびが入った。まあ中央部で見え方に影響はないが、うたい文句とはだいぶ違う。「コマーシャルを信じてはいけないよ!」という教訓を孫に教える。

メガネが壊れたって命にかかわることはないが、車の自動運転などはそうはいかない。自動的にブレーキがかかるとか人が出てきたら停車するとかいろいろ言うが、まだ全面的には広告を信用はしていない。しかし子どもや高齢者は簡単に広告を信用する。「あなたみたいに何にでも疑問を呈していたら社会は進歩しないよ!」と言われるが、どうも疑わしいことが多い。

昨年中国に行ってキャッシュレス社会を実体験した。物ごい(町中に乞食はまったくいない)や路上ライブの人までQRコードで決済をしているのを見て、「これりゃおかしい!」と思った。私はいつもニコニコ現金払いをモットーとしてきた。しかし日本でも急速にキャッシュレス、スマホ決済が進行している。我ら年寄りは取り残されるが、社会は変革しなければならないのだそうだ。政府肝いりで「お金」離れをさせようとしている。年より仲間の輝ちゃんはまだSUICAを持つことに抵抗している。

テレビ、ネットの情報に流されてはいけない。しかし流れに掉さすのは大変難しい。特にお金をちらつかされるとすぐになびきたくなる。カード決済をするとポイントで還元してくれるというが、このポイントというのが曲者。こんなことしなくて現金値下げしてくれればいいのに。でも誰かがどこかで儲けるためには現金値引きではうまくいかないらしい。世の中どうなっているのかわからん。わからない時には急がないで、ゆるゆるとポイントなしでいつもニコニコ現金払い方式を選びたい。

白根全さんの、アンデス写真展

勝手に全文引用 三五康司さんのコメントです。
許可もなく勝手にFBの文章を載せました。全さんの写真展には大変感動しました。同じ時に同じものを見たのですが、文章力のない私には書けないので、三五さんのを借用しました。

「地平線会議の大先輩であらせられる白根 全さん渾身の写真企画、
「写真家たちのクスコ―マルティン・チャンビと20世紀前半のアンデス写真―」
ーーを先週観てきた。以前も紹介したけれど、この企画は、
“ラテンアメリカ写真の豊穣な世界の中でも、とりわけ卓越した表現で知られたのがインカ帝国の首都だった古都クスコを拠点に活躍したペルー先住民出身の巨匠マルティン・チャンビと、同時代の写真家たち”
の作品展であり、
“今まではインカ帝国とマチュピチュ、つまり考古学の分野でしか語られることのなかったペルーですが、その大地に開花したアートの存在”
を知らしめる、
“日本では初めて紹介される20世紀前半のアンデス写真展”・・・とのことだ。(以上“”内、紹介テキストより部分引用)

 展示スペースに並ぶ65点の作品を順に観ていく。
家族・一族の記念写真あり、遺跡やクスコの街角の風景描写があり、当時の人々の生活感溢れる風俗が、見事な作品として結実している。1910~30年代の作品が多く、滅多にない≪撮影≫という機会のため被写体の人々の表情には緊張と硬さが伺える。カメラの前で長い露光時間の間姿勢を崩せないのだから当然のことだろう。
そんなことを思いつつ作品を観ていくうちに、写真がとても絵画的に撮られている事に気付いた。構図・ライティング・光と影の配分・・・ 当時のカメラには(貴重な)写真湿板が6枚しか実装できなかったそうだ。それゆえカメラマンが“如何に、どのような作品にするか”という意思が強烈に盛り込まれているように感じられた。連写した中から最高の1点を抽出する現代の創作スタイルとは根本的なスタンスが異なっているのが如実に理解できる。

個人的に最も感銘を受けたのが、「光の詩人」と呼ばれたマルティン・チャンビの作品群だった。
浅学のため作家については無知もいいところだったのだけれど、巧みに配置された人物のポーズと画面全体のダイナミックな構図、光線と陰影の強い対比で構成された劇的な効果、画面上の緊張と弛緩が生む動感、画像の彼方に至るまで綿密に計算されたパースペクティブ・・・・・・ そこに確かな“ストーリー”が秘められていることは一見しただけで理解できた。そしてチャンビの想いを具現化している精緻な現像技術は、光と影の明暗で巧緻な作品を描いたレンブラントの絵筆を想起させた。


一通り観たところで白根さんのギャラリートークが始まった。各作品に関する含蓄深い解説とともに鑑賞すると、より理解が深まる。
まず、展示されている作品群における肝要なポイントは“先住民族(インディオ)”の生活や風俗、文化、歴史的背景などが、“先住民族のカメラマン”によって描き出されていることだという。かようなケースは歴史上他にほとんど無く、あえて類例とするなら“日本人による明治以降の近代日本の写真作品”が挙げられるとのことだ。つまり先住民族によって描き出された、同時代の同胞たちの歴史的「リアル」がここにある。

「先住民の視線によって描かれたクスコの光と影の実相ーー
例えば『ホセ・アベル・ランティスの恋人』(1929年)という作品は、結婚式の前に“白人の”花嫁の撮影を依頼されたチャンビが、撮影後にカメラをグッと引いて画角をとり、花嫁がポーズを取っている豪邸の階段脇の隅に彼女の乳母である“先住民”の老婆を立たせ、陰影の中に埋もれるように撮影している。そうして白人同士の華やかな祝宴には決して招かれることのない先住民の老いた乳母の存在と表情を作品として残しているのだ。
チャンビの他の作品も同様だ。

『スタジオのファン・デ・ラ・クルス・シウアナとヴィクトル・メンディヴィル』(1925年)は、民族衣装をまとった210cmの先住民男性をスタジオ正面に立たせ、その隣に配した正装の白人男性が30cm以上も背の高いの彼を見上げている作品で、当時の状況を雄弁に、そしてシニカル且つクールに風刺しているだけでなく、アート作品としても秀でている。
『コソ泥を捕まえた警官 クスコ・レゴシホ広場』(1924年)では、居丈高な制服の白人警官に捕らえられ、怯えた表情を見せるインディオの子供を、わざわざ現場の広場に機材を持ち出して撮影することで、時代の空気感と風潮を言葉には置換できないリアリズムで描き出している。
つまり作品のモチーフを生み出すベースとなっている先住民族としてのプライドとキエチーフが、ひしひしと伝わってくるのだ。チャンビの作品のみならず、同時代の写真家のグループ“Escuela Cusque a de fotografia”(直訳は「クスコ写真学校」だが、“作家集団”“サロン”の意)の作品群が映し出した、当時の文化や時代性が鮮明な写真作品としてアーカイブされていること自体が、奇跡的な史的遺産なのだと実感できた。

開催に尽力された白根さんは、それこそ何年もクスコに通いつめ、これらの作品を収蔵してきた「フォトテカ・アンディーノ」という写真アーカイブとの信頼関係を構築し、個人的にも作品をコレクションして本展開催に至ったそうだ。

その価値ある行動の恩恵を受けられたことに、心からの感謝の意を表したい。

長岡竜介ケーナコンサート

芸術にはまったく疎いのでコンサートなど行くことはめったにないのだが、長岡君のケーナのコンサートは心地よく、何度か聞きに行っている。12月10日久しぶりだが市ヶ谷のセンターホールに行った。

数種類のケーナを使い分け素晴らしい音を奏ででくれた。今回はチャランゴ、ギター、太鼓、アルパとのセッションだったが、そのなかでアルパと呼ばれるラテンハープがまた素晴らしかった。いままで聞いたことがなかったいい音リズムだった。チャランゴの演奏もいいし、パーカッションもよかった。

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大山ケーブルカーが新しくなっていた!

東京は雨もようだったが、久しぶりに伊勢原の大山に行ってきた。調子がよければ頂上まで行こうと考えていたが、蒸し暑いのでゲンナリして、下社の拝殿に寄っただけで戻ってきた。大山の神社は阿夫利神社、頂上に本殿があるが、そこまで行くのキツイのでケーブルカーの終点にある拝殿にだけ行ってきた。ケーブルカーは2016年に最新式に変更になった。これはすばらしい。何回も大山登山に来ているがケーブルカーに乗ったことはなかった。今回初めて最新式にのった。ケーブルカーの原理はわかっているつもりだったが、中間点ですれちがうときに車輪はどうなるのか、不思議だった。写真を見ていただきたい。どう見てもふつうの線路の交差とは異なる。中間点に大山寺駅があるので車輪をじっくりと観察できるかと思って待ったが車体の下を見ることはできなかった。あとで調べてみたら外側の車輪は線路をつかむようになっており、内側の車輪は幅が広く表面が平になっており、ロープを跨いでいけるようになっている。さすが最初に考えた人はエライ。

戸山高校に行ってきた!

戸山高校で地学巡検というのをやっていた。各クラスごとに城ヶ島に行き、そこの地層の成り立ちを考えるという現地授業である。地学の先生は1クラスごと毎日城ヶ島に連れて行き地層の様子を説明する。今でいえばブラタモリを毎日やっていた。  城ヶ島に行くクラスは一日中地学授業。残ったクラスの地学授業は他の授業に振り替えられる。他の学校でも地学巡検は行われていたが、ほとんどが有志に対して試験休みなどに行われていた。正規の授業中に行われることはけっこう大変なことだった。戸山高校にはエライ先生がおられて、当然のごとく正規授業にくみこまれていた。私は城ヶ島に場所を変更したが、形式は前の先生方の遺産だった。

今の戸山高校でもまだそのまま地学巡検が残っていると、今年から地学教員として転勤されたNAIKIさんから聞いた。ちょうど火星の大接近のころ、「一度戸山高校見学されませんか?」と誘われたので行ってみた。新しい校舎、と言ってももう10数年たっているが、すばらしい。都立でもこれだけの校舎を持っているところは少ないかも。SSHスーパーサイエンス高校だそうだ。

  天文台に行ってみた。望遠鏡がずらっと並んでいる。私は戸山高校にいるときも望遠鏡操作はTAKEDAくんにやってもらっていた。SSH高校の教員はできそうもないなあ。早く辞めてよかったなあ、との思い。校舎を出たらラジアン池があった。そうだラジアンだ。長いこと三角関数から遠ざかっている。よくこんな名門校で勤まっていたなあ。・・・勤まっていなかったのか??

 

熊谷で日本最高気温、奪還!

これだけ暑い日が続くのに、まだ日本の最高気温には達していない。と思っていたら、23日(月)、埼玉県熊谷市で41.1℃まで気温が上昇。日本歴代最高を5年ぶりに更新した。

熊谷では13時前に40℃を突破、その後も気温の上昇は止まらずに、14時16分、41.1℃を観測して、2013年8月12日に記録した高知県江川崎の41.0℃を越て日本歴代最高気温となった。

長いこと日本歴代最高気温は山形県で記録された40.8℃でした。1933年7月25日の記録です。以降1994年に静岡県天竜や和歌山県かつらぎで40.6℃、2004年に甲府で40.4℃など、40℃を突破しても山形の記録はながいこと更新されなかった。

2007年8月16日、群馬県熊谷と岐阜県の多治見で40.9℃を観測し、74年ぶりに日本歴代最高気温を上回った。しかし6年後の2013年、これまで一度も40℃を記録したことがなかった高知県江川崎で8月10日に40.7℃、11日に40.4℃と連続の40℃超を記録。そして8月12日に41.0℃に上昇。日本最高気温を更新した。

そして再び埼玉県の熊谷市が最高気温を取り戻した。最高の栄誉?? こんなので一番になってもうれしくはないかな?

 

命に関わる 危険な暑さ!京都では!

暑いなんてものじゃない。私は夏は大好きで、炎天下も走り回っていました。しかしこの暑さ、年をとったせいかとも思うが、テレビでは「命に関わる 危険な暑さ」と言っている。尋常じゃない感じ、まさに気象災害だ。しかし気象庁では以下のような注意情報!もう少しテレビで言うようなレベルに上げることはできないのだろうか。


京都府高温注意情報 第1号
平成30年7月22日 04時37分 京都地方気象台発表京都府では、22日の日中は気温が35度以上となるところがあるでしょう。熱中症など健康管理に注意してください。
予想最高気温(前日の最高気温)
京都38度(37.7℃)京都で30度以上の時間帯は9時から21時まで。
舞鶴38度(38.2℃)舞鶴で30度以上の時間帯は9時から21時まで。
熱中症の危険が特に高くなります。特に、外出時や屋外での作業時、高齢者、乳幼児、体調のすぐれない方がおられるご家庭などにおいては、水分をこまめに補給し多量に汗をかいた場合は塩分も補給する、カーテンで日射を遮る、冷房を適切に利用し室温に留意するなど、熱中症に対して充分な対策をとってください。


これを受けて、京都では「祇園祭」24日の花傘巡行が中止されることになった。担当者は、「記録的な猛暑が続いていることから、安全に配慮した」そうだ。
こんな大イベントでさえ中止にすることができるのだから、学校での屋外活動、高校野球の応援など、きっぱりと中止にした方がいいだろう。
甲子園でも上のような情報が出たら、選手、審判、スタッフは直ちに中断して、休息。夕方に再開。応援席は立ち入り禁止にするくらいの配慮が必要だろう。もう犠牲者も出ているのだから。主催者の朝日新聞さん、それぐらいの配慮をすべきです。

「快適な気候」とオリンピック招致!

とんでもない暑さが続いている。こんな気候の中で屋外スポーツをやるなんて、危険極まりない。高校野球の予選をやっているが、選手は大変だろう。いやそれ以上に観客は大変。たいていは学校から駆り出されているのだが、事故があったら責任はとれるのか。責任取ったって命が失われたら取り返しがつかない。もうこの時期のスポーツイベントはやめたら!と私は思う。

しかしそうはいかない事情があるようだ。2020東京オリンピックはこの時期に行われる。もし高校野球をストップするようなことがあったらオリンピックの屋外競技も同じようにやめなければいけなくなる。文科省もスポーツ庁も強くでれないらしい。

2015年に東京にオリンピックを招致するために作ったファイルには「この時期、晴れの日が多く理想的」と書いてあった。公表されているので、ここに載せておきます。こんなウソを書いて誘致したんだ。

TOKYO2020立候補ファイル
02-大会の全体的なコンセプト
2-1 2020年東京大会の理想的な日程
東京での2020年オリンピック競技大会は7月24日(金曜日)の開会式に続いて、25日(土曜日)から9月6日(日曜日)までの開催を予定する
この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である。また夏季休暇に該当するため、公共交通機関や道路が混雑せず、ボランティアや子供たちなど多くの人々が参加しやすい。さらに、この時期は日本全国で伝統的な祭が多く開催される時期であることから、祝祭ムードが漂っている。
また、重要な点として、この開催期間は他の大規模な国際競技大会とのスケジュールと重複しておらず、東京においても大会開催に影響を及ぼすような大規模イベントの開催を予定していない。(・・・暑いから!)