■3-2 スサノオ神とイナダ姫は新しい宮殿を探す

 スサノオは人身御供になりかかったイナダ姫を助け、嫁にする。出雲の姫を嫁にしてスサノオ神はこの国の盟主になり、新しい宮を作り始めた。その時作ったのがこの歌である。
「八雲立つ 出雲八重垣妻込みに 八重垣造る その八重垣を」
なんだかよくわからないが、日本の和歌のはじめとして知られている。

意宇にはスサノオとイナダ姫の新宮殿と言われる場所がいくつかある。まず八重垣神社にいった。二人の新居は縁結びの神社として名高い。イナダ姫が隠れていた「鏡の池」に占いの紙を浮かべている女性を見た。真剣に紙が沈むのを見つめている。速く沈んだ方が速く縁づくという縁結びの占いだ。その女性は紙の上に百円玉を載せている。重い方が速く沈むので、みな百円を載せるそうだ。占いに没頭している女性を見ると、
「出雲の縁結びの話は室町時代にできた俗信ですよ!」
などとは言えない気持ちになった。

スサノオとイナダ姫が歌った「八雲立つ出雲八重垣・・・」の歌の後、
「ここは清々しい場所だ、ここを宮殿にしよう!」
と言ったという。その地に須我神社が作られている。
神話の話なので新居はどちらでもいいが、須我神社で聞いた磐座(いわくら)の話はおもしろかった。三輪山でも見たように「磐座」(いわくら)に神が降臨するという信仰がある。自然崇拝、特に大きな岩を神聖視する信仰だ。
須我神社の社殿から1キロほど離れた山の中に磐座がある。意宇地方を歩き回って疲れてはいたが、磐座好きの私には魅力的な話だった。山へ続く長い階段を上ったら、「しめ縄」をめぐらしたすばらしい岩があった。私的にはこの磐座がスサノオ夫妻の新居だったような気がしている。

しかしさらに新しい話を聞いた。出雲一宮、すなわち一番由緒ある神社は意宇の奥の雲南市にある熊野大社だそうだ。雲南と言っても中国の少数民族の住む地方ではなく、出雲の南という意味でつけられた名前である。
なぜ出雲に熊野神社なのか? 熊野といえば紀伊半島の熊野大社だろうに。熊野古道歩きを趣味としている私は当然紀州の熊野が本家かと思っている。しかし出雲の熊野神社は出雲一宮であり由緒も正しい。どちらとも言い難いようだ。ついでながら「クマ」は天照の5人の息子の末弟の名前である。南九州の球磨(くま)地方、あるいは熊襲(クマソ)などと関連がありそうだ。

さらについでに、熊野神社を含め意宇にある「狛犬」は尻尾を逆立てて威嚇するような形であることを指摘しておこう。私は逆立ち狛犬と呼んでいる。穏やかな姿ではなく、敵に対抗威嚇するような感じである。抗争の地なので狛犬にも影響しているのかなと思う。もちろん狛犬の歴史はそんなに古いものではない。

■3-3 豊かな国を支えた荒神谷遺跡


私が勝手に推測しているが、スサノオが持っていた
「十握の剣は青銅器の剣」
八岐大蛇が持っていた
「ツムガリの太刀は鉄剣」
だった。
出雲の豊かな土地を奪おうとしていた遠呂智族は中国山地でたたら製鉄をしていた氏族で、当然鉄の武器を持っていた。青銅器主体の武器を持つ出雲のアシナズチ一族では勝ち目はなく、遠呂智族のたびたびの侵略を許していた。そこへスサノオ神が助っ人にきた。スサノオ神はまだ青銅剣しか持っていなかったので、策略でしか勝ち目はない。八岐大蛇を酔わせて切り刻んだ。

意宇を回った翌日、友人のYさんの車で遺跡巡りをした。
「荒神谷遺跡を見た?」
と聞かれたが、何のことかわからなかった。
日本史の先生であったYさんから荒神谷遺跡の意義を学んだ。考古学的に見たら「出雲」という場所は大変な場所だった。古代日本はすべてここに集まっていたかのように大量の遺跡が見つかっている。まず青銅器についての即席知識をひけらかしておこう。

▲荒神谷青銅器遺跡
1984年に弥生時代の「青銅剣」が358本、銅矛16本、銅鐸6個が斐伊川の近くの荒神谷で発見された。これ以前に全国で発見された銅剣は300本だった。一か所でそれ以上が見つかったのだから驚きだ。もちろんこの青銅器は国宝になった。
▼加茂岩倉遺跡の銅鐸
1996年荒神谷のすぐ近くに「銅鐸」(どうたく)が39個も発見されている。それまでは近畿圏で発見された14個が最高だったので、これも国宝になっている。

歴史の教科書では「銅鐸」は近畿を中心とした文化圏、「銅剣、銅矛」は北九州文化圏と区分していた。しかし荒神谷、加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸、銅剣が一緒に発掘され、近畿文化圏、北九州文化圏などの区分は疑わしいものになった。出雲文化圏と言った方がいいかもしれない。
出雲では青銅器のあとに鉄器文化が入ってきたものではなく、一緒に共存していたことが神話の記述でわかる。私のスサノオの剣が青銅器製であったという説は少しだけ信ぴょう性があるかもしれない。

ついでにもう一つ足で仕入れた考古学的な遺跡について述べておく。
それはとても珍しい西谷墳丘墓という古墳だ。
荒神谷遺跡から斐伊川を渡ったところにあった。大和、河内や吉備で見なれた円墳や前方後円墳ではなく、上部が平らで方形、さらに四隅に耳がついた不思議な形である。
「四隅突出型弥生墳丘墓」
というそうだ。
よく整備された古墳群に登ってみると眼下に出雲高校グランドが見える。九号墓が一番大きくて六〇×五〇メートル、高さが五メートルもある。二号墓、三号墓は復元がなされふき石が張られており、上ることも、玄室へ入ることもできる。

三号墓と四号墓からは大量の土器類が見つかっている。弥生時代後期「吉備産」の特殊土器が発掘されており、二世紀末から三世紀にかけて築造されたことが分かっている。
二世紀から三世紀といえば……
史実にあるヒミコのちょっと前の時代だ。三輪山のふもとの巻向(まきむく)の箸墓(はしはか)古墳は三世紀に作られたものだから、出雲の古墳の方がちょっと古いことになる。巻向のヤマトの文化はここ出雲から出たものだという可能性はある。

こんな立派な古墳を作ることができたのは、進んだ青銅器、鉄器などの農具をいち早く取り入れて耕作をすることができたからだろう。出雲地方は古代の最先端地域だったのだ。

 

 

■3-4 因幡でも抗争。大国主神がやってきた!

2013年5月、出雲空港から出雲大社に行って遷宮の様子を見ようと思っていた。しかしその前後のチケットは完売で、私は鳥取空港から列車で行くしか方法はなかった。
しかし結果的にはこれは大変良かった。というのは出雲の盟主である「大国主神」は鳥取県(因幡)の国から島根県の出雲にやってくるのである。その足跡をたどることができて幸運だった。

「大きな袋を肩にかけ、ダイコクさまが来かかると……」
という唱歌が聞こえてきた。
山陰道(国道九号線)に白うさぎと大国主神の像が立つ道の駅からの音だった。道の駅の奥の高台に白兎(はくと)神社がある。観光用の新しい神社かと思ったが、昔からある由緒正しい神社だった。

のちに出雲の神さまになる大穴牟遅(おおなむち)は、いじわるな兄神たちに大きな荷物を持たされ、因幡の海岸を歩いていた。大きな荷物が重たいので、兄たちに遅れてやっと気多(けた)の岬に着くと、そこには皮をむかれたウサギが泣いていた。

大穴牟遅が「どうしたのか」と尋ねる。ウサギは隠岐の島に住んでいたが、海を渡って因幡の国に来たかったので、ワニを呼び出し、一列に並べて、「数を数えてやる」と言ってだました。
ワニの背中を飛んで因幡の海岸につく直前に
「やーい だまされた! 海を渡りたいので、お前らを並ばせただけだ」
とつい言ってしまった。

それを聞いたワニがウサギを捕まえて、怒りにまかせて皮を剥いだのだ。
先に通りがかった大穴牟遅の兄神たちは、かわいそうなウサギに
「海水に肌を浸して、太陽にあたると治る」
とウソを言った。その通りにすると肌が赤くなって痛みが増した。
いじわる兄たちと違って、最後尾にいた大穴牟遅は優しく、
「真水に肌を浸して、蒲の穂に包まっていれば治る」
と言った。ウサギがその通りにすると元通りの白ウサギに戻った。

喜んだウサギは大穴牟遅に、
「兄神たちは因幡の八上比米(ヤガミヒメ)と結婚しようとしているが、無理でしょう。八上比米と結婚するのはあなたです」
と告げた。
白うさぎの予言の通り、大穴牟遅は八上比米と結婚した。大穴牟遅神の最初の奥さんである。

昔から日本に「ワニ」はいない。山陰地方では「フカ」のことを「ワニ」と呼んでいる。古事記の作者はフカがウサギの皮をはいだと言いたかったとの珍説があるが、ワニは「和邇」族、ウサギはたぶん「宇佐」族のことを伝えたものだろう。和邇族も宇佐族も海洋系の渡来民族で、彼らの力をたばねて日本国が出来上がったことを神話にしたものだ。現在は「和邇」は奈良の近くに、「宇佐」は九州四国に地名が残っており、古代豪族にもその名がある。

白ウサギの予言どおり、大穴牟遅は八上比米(やがみひめ)と結婚する。ふられた兄神たちは怒って、大穴牟遅をめちゃめちゃにいじめる。紀州のイタキソ神社の五十猛神のもとに逃げるが、そこまで兄神たちは追ってくる。

大穴牟遅はついには黄泉津比良坂(よもつひらさか)の先にある黄泉(よみ)の国に追いやられた。黄泉の国は、根の国とも呼ばれる死者の国。
大穴牟遅は殺されてしまったのだ。

「因幡の白うさぎ」の話は、めでたしめでたしではなく、いじめ殺される悲劇である。 因幡の国でも血で血を洗うような凄惨な抗争があったことを示している。

■3-5 大穴牟遅は黄泉返って大国主神になる。


「殺されました! はい終わり!」
では神話的ではない。実は大穴牟遅命は黄泉の国から帰って来る。すなわち黄泉がえる(蘇る=よみがえる)のである

黄泉の国の入り口「黄泉津比良坂(よもつひらさか)」はJR山陰本線で松江から三つめの揖屋(いや)駅の近くにある。
駅を降りて旧山陰道を安来(やすぎ)方面に歩き、揖屋神社の先の山陰線のガードをくぐった谷戸の奥に入り口の大岩があった。「瞬」(またたき)という北川景子主演の映画の撮影地で、「聖地」となっているそうだ。
坂の上の方から上から大挙して若い女性が下りてきた。なにごとかと尋ねると
「出雲の聖地巡りツアーです!」
とはしゃいでいる。

出雲にはパワースポットが多くある。最近は「聖地」と呼ぶ。黄泉津比良坂のパワーは出雲大社と同じパワーがあるそうだ。しかし映画のポスターにあるような霊に取り付かれたら恐ろしい。雨が降る夜、一人ではとても訪れることなどできない不気味な場所だ。この黄泉津比良坂にはマイナスパワーが充満している感じだ。大急いで下りてきた。
出雲神話では、兄神たちの意に反してヤガミ姫と結婚した大穴牟遅は、いじめ殺されて黄泉津比良坂を下って黄泉の国にいく。古事記では「根の国」となっている。

大穴牟遅はモテモテ男で、根の国にきてすぐにスセリ姫と良い仲になった。
スセリ姫はスサノオと人身御供になりかかったイナダ姫の間にできた娘だった。父親に
「すばらしい男性といっしょになります!」
と報告した。
スサノオ神は大穴牟遅を見て、
「この男は葦原醜男(あしわらしこお)だ」
と言って、スサノオに無理難題をふっかける。
毒虫うじゃうじゃの部屋に入れられたり、焼き殺されそうになったりする。しかしそのたびにスセリ姫が助けてくれる。しかしさらなる試練を与えられる。
ある時、大穴牟遅がスサノオの髪の虱をとってやった。するとスサノオは気持ちよさそうに寝てしまう。そこで髪の毛を宮殿の柱に結び付け動けないようにして、スサノオの財産とスセリ姫を背負って逃げ出した。
スサノオの沼琴が大きな音を奏でたので、スサノオは起き上がった。髪をほどいて追いかけてくるが、二人はすでに黄泉津比良坂から地上に出かかっていた。
スサノオは追うのをやめて、大きな声で
「スセリ姫との結婚を許す!葦原中国はお前が統一しろ!以後は大国主神と名乗れ!そして高天原に届くほどの高い柱の宮殿を建てて住むのだ!」
とはなむけの言葉を贈った。
これで大国主神はスサノオ神が納めていた豊葦原瑞穂の国の跡継ぎになった。めでたし、めでたし。

 

■3-6 出雲大社は豊かな出雲の象徴

大国主神がスサノオから継承した出雲の国もすぐに安定したわけではない。まずガガイモ葉っぱの舟に乗って美保岬にやってきたのが少彦名という神である。この神は一寸法師のモデルであるが、彼が最初に大国主神を手伝って国造りを行うのである。
あまり有名な神ではないが、東京の神田明神の神さまである。この小さな神が何の象徴かあまりよくわからない。その神は国が安定する前にすたすたと黄泉の国に行ってしまった。
大国主神が困っているとやはり海のかなたから光り輝いてやってくる神があった。
「私の魂をお祭りしたら、国造りを手伝おう! もしそれができなかったら国造りは難しい」
と言う。大国主神は
「どうお祭りしたらいいのでしょうか?」
と尋ねると
「大和の東の山の上に祭れ!」
と言った。大和の東の山とは三輪山の事である。
ここでやっと三輪山の磐座に三柱の神が祭られて理由がわかった。しかしまだなぜ出雲の国を作るのに、大和の話が出てくるのかどうにもわからない。
ともかく三柱の神々のおかげで出雲国は素晴らしい国になった。

2013年5月10日、出雲大社の遷宮は夜に行われるので、私は昼間のうちに大社のお参りした。昔訪れた国鉄の大社駅は立派だった。国鉄の大社線は廃止され、いま鉄路は一畑電鉄のみになった。観光バスや自家用車でやってくる人がほとんどだから駅からの参道を歩く人は少ない。
出雲大社の参道には四つの鳥居がある。ふつう四は死を意味するので忌み嫌われるが、もともとが「根の国」(黄泉の国)にある神社だから気にしていない。大きな一ノ鳥居を過ぎ、商店街を抜けて、二ノ鳥居のある勢溜(せいだまり)まで緩やかに上っていく。参詣人はあまり気にしないが、歩く人にはけっこうきつい。来た道を振り返ると、ずいぶん高い所にあるのがわかる。
二ノ鳥居は立派な銅製の鳥居で、それをくぐると参道は下り坂になる。その先に銅製の三ノ鳥居、四の鳥居がある。鳥居をくぐった後に拝殿にでる。たいていの神社は参道の先の石段を上るが、出雲大社は下って社殿に行く。私は下野一宮の貫前崎神社で経験したが、下り参道は珍しい。この神社様々な点でふつうの神社とは違って、おもしろい。
拍手もふつう二礼二拍手一礼だが二礼四拍手一礼である。九州の宇佐八幡宮も同じだが、これも珍しい。この時は気がつかなかったが、大注連縄の巻き方もふつうとは反対だという。
さらに出雲では暦も異なっている。10月は神無月と呼ぶが、ここ出雲に八百万の神々が集まってくるので出雲暦の10月は「神在月」である。全国各地の神さまは地元神社を離れ、ここ出雲に集まり、大社の宿泊所に泊まって、一ヶ月間縁結びの作業をする。もちろん中世になって作られた俗説だが、その方がお参りの人には受けがいい。

出雲大社は縁結びの神社として全国に知られている。神さまは、海の彼方から稲佐の浜(国引きをした大綱)に上陸し「神迎え道」を通って神社にお越しになる。高天原の神は「天の浮橋」をとおって地上に降臨されるが、日本古来の八百万の神は舟にのって海を越え、稲佐の浜に屹立する弁天岩を目指してお越しになる。

出雲にお越しになる神様は高天原系の天津神(あまつかみ)ではなく、日本にもともとおられた国津神(くにつかみ)である。国津神の総帥が大国主神ということになっている。

5月10日の夜、大国主神が御仮殿から新装なった本殿へ移られる「本殿遷座祭」がおこなわれる。遷座祭には八千人が招かれているが氏子でもない私たちは宿に帰ってテレビで見るしかない。七時半からNHKで中継するので友人にVIDEOを頼んでおいたが、後で聞くとニュースでちょっと写っただけだったという。天津神の伊勢神宮遷宮は国民的行事だが国津神の遷宮はローカル扱いだ。少々というか、かなり残念なことだ。

拝礼の前から気が付いていたが、御仮殿には注連縄はあるが、前に来た時に記憶していたあの大注連縄(長さ一三・五メートル、太さ八メートル、重さ四・四トン)がない。あの注連縄こそが出雲大社の特徴だと思っていたが、神楽殿には記憶通りの大注連縄があった。
神社の方に聞くと、
「御仮殿から移るとき神さまの頭が引っかかるといけないので小さいのをかけている」
とのこと。さすが芸がこまかい。翌日の映像をみたら、また大きいものに変えられていた。

町の各所で「雲太、和二、京三」という文字を見た。出雲太郎、すなわち出雲が一番という言葉を縮めたのだ。平安時代の建築物のビッグ三を順にならべたもので、出雲太郎が一番、二番は大和の大仏、三番は京の大極殿の順だった。大仏殿は四五メートルあるから、雲太はそれ以上で、四八メートルはあったと言われていた。今の社殿の高さは二四・四メートルだから、四八メートルというのはいまの倍の高さ。
「そりゃ、いくらなんでも大きすぎるよ」
と誰もが思ったが、平成一二年に境内から三本の柱を金輪で束ねた柱の根本が発掘された。これは、大社の宮司で出雲国造の千家(せんげ)家に伝わる図面にある古代神殿の配置図の場所だ。この太さがあれば四八メートルの建物を建てることは可能だと、大林組の技術者がシミュレーションした。言い伝えはウソではなかった。
スサノオが大国主に「はなむけ」として贈った言葉、
「高天原に届くほどの高い宮殿を建てて住むのだ!」
ちゃんと実現していたのだ。

■3-7 大国主神は天照大神に国を譲る

天照大神は大国主神の豊葦原瑞穂国が大いに栄えているのを見て、あそこは元スサノオの国だから天津神によって取り戻そうと考えて、使者を送った。
しかし最初の使者である天之菩比(アメノホヒ)命は大国主神の魅力にひかれて「国津神」になってしまう。そんな繰り返しが何回かあったが、高天原勢は最後に武御雷(たけみかずち)というとてつもなく武力のある神を派遣して強引に交渉をした。
大国主神は息子の事代主神に相談する。
「いいですよ!」
と言って船をひっくり返して消えてしまう。
もう一人の息子であるタケミナカタは武力で挑んだが簡単に負けて母親のいる越の国のヌナカワ姫のもとに逃げこむ。さらに追われて姫川をさかのぼり諏訪の地に逃げ込んだ。そこで隠居するので赦してもらうことになった。
息子たちが敗北したので、大国主神は天にも届く巨大な宮殿に蟄居することにして、出雲の国は天照大神に譲ることにした。

出雲大社の中を見ることはできないが、聞くところによると真ん中に大国主神、両脇にはスセリ姫と宗像の女神であるタギツ姫が同居しているそうだ。

最後の抗争で、大国主神は豊葦原瑞穂の国を高天原勢力に明け渡すことにしたが、高天原の事情で天照大神の勢力は出雲に降臨してこなかった。
その間に仲間の大物主神は石見から大和に勢力を広げ、石上神社付近に本拠を構えた。た。長男の事代主神は葛城で地元勢力と婚姻関係を結び、一言主神として知られるようになり、羽振りもよくなった。諏訪には次男のタケミナカタが物部守屋と組んで勢力を拡大していた。天照大神の息子が降臨してこないうちに全国各地に大国主神勢力は広がっていった。

出雲での抗争は大国主神の「国譲り」で決着を見た。もと天津神のスサノオ神が作った出雲なのだから姉の天照大神(天津神の総帥)が取り戻すのは当然という論理だろう。平和裏に国が譲られたと古事記には述べられているが、当然激しい抗争があった結果だろう。

私は出雲大社の遷宮の次の日にバスで日御碕から日御碕神社に行った。
この神社は出雲で唯一、天照大神を祀っている。赤い社殿は出雲のどの神社とも違う。しかしこの神社の上の高台からはスサノオ神社が見下ろしている。
これが何を意味するのかはよくわからないが、私は天照大神、スサノオ神の姉弟が、大国主神から出雲を取り戻し、高天原での失礼をわびて、仲直りしている姿かと思っている。

日御碕は日没がすばらしい場所である。
「そうか、スサノオと天照の弟妹は、日が没するのを見ているのだ!」
自分の思いに酔っていたが、五木寛之の「下山の思想」を読むと
「朝日に柏手を打つのが神道で、西に沈む夕日に合掌するのが仏教である」
とあった。あれれ!出雲大社は神道の本家、私の思いは間違っていたようだ。

なにわともあれ、大国主神は豊葦原瑞穂の国である出雲を、天津神の天照大神に「国譲り」した。しかし天津神は出雲には降臨せず、九州高千穂に降臨する。なぜ九州にという疑問は残るが、どこにもその理由は述べられていない。

第4章では、九州の高千穂に行ってその理由を確かめてみたい。神さまを追いかける旅はお金がかかる。財務省の奥様にお願いしなければ次には行けない。いつの世も、天照大神と同様に主導権は女性にある。とりあえず第3章「出雲での抗争劇」はこれにて終了。

■3-8 資金提唱者にわかりやすいように!

第3章まで終えたつもりだったが、資金援助の奥様から「よくわからん!」と言われたので、追加で図示してみます。これでわからなかったら、次回の資金が出ません。 大丈夫かな? まずこの辺りの旧国と出雲の関係図です。黄泉津比良坂の位置が微妙です。黄泉津比良坂を西に向けて越えると、そこは「根の国」です。

第3章で、古代におこった大きな抗争を神話にしたものについて述べた。すべては高天原で行われた姉の天照大神と弟のスサノオ神の争いから始まり、最後には天照大神が取り返して争いが終わった。

最初のあらそい! 「うけひ」の審判を受けたが、判定基準を定めていなかったのでスサノオは勝手に勝利宣言した。姉の天照大神は表舞台から去り、岩戸の奥に隠れてしまった。スサノオ神の勝ち!

戦いに勝ったがスサノオは、しかし高天原を追放されて出雲に降りてきた。そこで八岐大蛇族を退治しスセリ姫を嫁にして出雲の盟主になった。 スサノオの勝ち!
因幡の国では大穴牟遅神がやってきて白兎を助け、ヤガミ姫を妻にしたのだが、兄神たちは嫉妬で大穴牟遅神をめちゃくちゃにいじめ、黄泉の国に送り込む。すなわち殺してしまった。大穴牟遅神の負け!

第4は黄泉の国(根の国)で大穴牟遅はスセリ姫の助けを得てスサノオ神をやっつける。スサノオ神から「大国主神と名乗れ!」と言われ出雲の国の盟主となる。 大穴牟遅神はスサノオ神に勝って大国主神となった。大国主神の勝ち!
幸せに暮らしていた大国主神のところに天照の使者が来るが、大国主の子分になってしまう。一番強い武御雷神が武力で出雲を奪還する。奪還というのはもともと天照大神の弟のスサノオの国だったので、取り返すのは当然のことという論理だった。最後に天照大神が勝った!

第2章 天の浮橋から高天原へ

三輪山の麓、崇神天皇の宮殿に大国主神と天照大神とが一緒に祀られていた。巫女の宣託によってパンデミックを起こした疫病の原因は二柱の神を同じ場所に祀ったからだと分かった。二神を引き離したことでパンデミックも収まった。大国主神と天照大神は相いれない神だったのだ。
大国主神は出雲大社の神、天照大神は伊勢神宮の神である。2013年は両方の神社の遷宮が行われた。この年5月に出雲大社の60年遷宮に行き、10月の伊勢神宮の20年遷宮に行く計画を立てた。

出雲に行く前に古事記を読んで事前学習をした。もちろん原文を読めるような教養はないので梅原猛著の「古事記」を頼った。
出雲における神さまの最大の事件は「国譲り」である。国譲り事件の主人公(神)は天照大神と大国主神である。大国主神が支配していた出雲の国を天照大神が自分に譲るように迫るのである。大国主神は「巨大な宮殿を作ってくれれば国を譲る」
と言って、そこ(古代の出雲大社)に隠遁する。

今の価値観から見れば天照大神は理不尽と思うが、それなりに理屈はあった。それは後の章で述べるが、ともかく大国主神は天照大神の言う通りに国を譲る。しかし天照大神の息子はなかなか出雲にはやってこない。
「出雲は騒がしいい、私は行きたくないが、息子が生まれたので成長したら彼を降臨させます」
と言い出した。
天照大神はしかたなく孫を降臨(天孫降臨)させることにした。しかし時間がたったので出雲は他の勢力に支配されており、行先を筑紫の日向の高千穂に変更した。先導するのは三輪山で神楽を舞った天の鈿女(ウズメ)である。

西洋の全知全能の神さまと違って、日本の神さまはしばしば悩み苦しむ。三輪山で見たように、神さまが玄賓僧都のところに悩みの相談に行ったりする。まるでそこらの人間と同じような行動をとる。絶対的な神よりも悩み迷う神さまのほうが私は好みである。

天孫降臨は天から神さまが降りてくるイメージだがここでいう天は天照大神のことで空のことではない。天照大神がおられる場所は「高天原」である。「天」という漠然としたものではなく具体的な場所と考える人は多い。江戸時代の大学者である新井白石は
「高天原とは常陸国(茨城県)多賀郡である」
としている。根拠は「たか」という読みを漢字の多賀にあてただけだ。他にも「高天原」の候補地はいくつもあった。
しかし古事記を研究した本居宣長は次のように考えた。
「高天原 は、すなはち天なり、天は、天神の坐ます御国」
高天原を探すことなど「不遜」なこととされるようになった。

でも第2章では、しばらく不遜なことをしてみたい。

■2-1 高天原の神は、かつ消え あらわれる!

古事記の神代の章は、高天原の神々の出現を延々と述べている。次から次へと神さまの名前が出てきて、つい読むことを辞めたくなる。なぜこんなにしつこく述べなければいけないのかと思っていた。
しかし大阪の高槻にある生命誌研究館に飾られているこの図を見たときにひらめいた。
生命の発生は数十億年前の海辺に寄せては返す波によって作られた「あぶく」のようなものから細胞が生まれたとされている。
「ムムッ 日本の神さまの出現はこの“あぶく”みたいなものだった。」
古事記の作者たちは今の科学の成果をすでに予測していたのだと感銘した。

生命は何かの意図をもって地球上に現れたのではない。ただ偶然の繰り返しが重なって奇跡的に生まれた。今人類は意思を持っているが、それは長い歴史の中で得た教育の成果である。生命は最初の数十億年間はただ現れては消えるということを繰り返していた。

古事記の最初の章はまさにこの通りの記述である。何もないところに突然「天の御中主神」が現れ、そしてすぐに消える。これが五代にわたって繰り返えされる。現れて消えるだけで、何をしたという記述はない。古事記ではこの五代を「別天津神」(ことあまつかみ)と呼んでいる。この時期は地球上での生命の揺籃期である。この後に生物の生命大爆発が起こり、雌雄の区別がはっきりしてくる。そして最後に我々の祖先哺乳類が現れる。

古事記の記述では別天津神のあとにさらに二代の神が現れまた消える。その後に兄妹の神が三代続く。そして二代男女の神が現れる。男女神が初めて周りの環境に興味を持つ。男女五代を含む七代を「神代七代」(かむよななよ)という。

最後の男女神が伊邪那岐・伊邪那美(いざなき・いざなみ)の神で、日本国土、神々、人々を生むのである。この神さまも全知全能ではなく知らないこともたくさんある。女神さまは
「私の体には一つだけ足りないところがある。」
すると伊邪那岐(男)神は
「吾身の成り余れる処を以て汝身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて国生み成さむとおもほすがいかが!」
と言って試みるが最初はうまくいかない。神さまなのに何にも知らないのだ。
試行錯誤を続けるうちに大八洲(おおやしま)が生まれるのである。

伊邪那岐・伊邪那美神は明確な意思をもって日本の島を作り神々を生んだのではない。試行錯誤しているうちに偶然様々なものが生まれてきた。西洋の神さまはそんなまだるっこいことはしない。「光あれ!」といえば地上が明るくなるのだ。そんな命令形の神さまよりも、どうしようか?と悩んでいる神さまを見るとほほえましい雰囲気になる。

時間的概念は神さまの歴史の中にはまったくないが、たぶん長い間「高天原」で神さまは現れては消えるということを繰り返していたのだろう。その場所はどこかわからないが高貴な「天」という原があったという意味であろう。「天」という言葉がキーワードである。

その天はいったいどこにあったのだろう。手掛かりはないか?

■2-2 伊邪那岐・伊邪那美神がすべてを産んだ!

伊邪那岐・伊邪那美のご夫婦神は高天原から「天の浮橋」に出てこられた。
橋の上から天と地と海とが判然としない混沌の下界に「天の沼矛」という棒を差し込んだ。お二人で沼矛を引き上げたところ“しずく”垂れて固まった。その場所がオノゴロ島で「天の御柱」ができた。

ご夫婦神は“天の御柱”の周りをまわって国を産むのである。まわり方やお互いの声のかけ方などいろいろ試行錯誤してやっと「大八洲」(おおやしま)が生まれるのである。神ではあるが意思をもって生んだのではなく、たまたま生まれたのである。これは日本神話の奥深い洞察力のたまものである。

その後伊邪那岐・伊邪那美の神さまは、多くの神さま、人間を産む。しかし火の神さまを生んだ時に伊邪那美は大やけどを負って死んでしまう。伊邪那美は死んで「黄泉(よみ)の国」に行くのである。
夫の伊邪那岐は
「まだ一緒にやることが残っているから戻っておいで!」
と黄泉の国に迎えに行く。
ところが妻の伊邪那美は
「黄泉の国の食べ物を食べてしまったからもう戻れない。私の姿を見ないで!」
と言う。
伊邪那岐はついのぞき見してしまう。そこにはウジ虫がたかった醜い姿の女神がいた。
「見たわね! もう生かしては置けない!」
怒り狂った伊邪那岐は夫の伊邪那岐を追いかけてくる。
伊邪那岐は黄泉津比良坂(よもつひらさか)を駆け上って黄泉の国の出口を大岩で塞いでしまう。

中では女神が怒って
「あなたの国の人々と1000人ずつ殺す!」
という。伊邪那岐は
「それなら私は1500人づつ生む!」
と答えて、夫婦別れをした。

黄泉津比良坂から逃げ帰った伊邪那岐は
「まあひどく穢れた所に行ってしまった。禊(みそぎ)をして体をきれいにしよう!」
と、筑紫の日向の橘の水門(みなと)の阿波岐原(あわぎはら)の海に浸かる。
「みそぎ」の結果、
◆左目を洗ったときに天照大神(あまてらすおおみかみ)、
◆右目を洗ったときに月読大神(つくよみのおおかみ)、
◆鼻を洗った時にスサノオ神大神(すさのおのおおかみ)
が生まれた。この三柱の神を「三貴子」と呼ぶ。
三貴子のなかで長姉の天照大神が日本では最も尊い神さまとされている。

高天原では伊邪那岐・伊邪那美の御代が終わって、天照大神が最高神となる。神の国だが、様々な事件が起こる。いったいどんな事件なのか探ってみよう。

■2-3 高天原を探して旅をした

昔は高天原をさがすことなど不遜と言われたが、今は各地で高天原や天の岩戸、天の浮橋、天の御柱など「天」が付く場所に多くの観光客が訪れている。私も2013年、できる限り高天原と関係のありそうなところを巡った。その中で気になった場所をいくつか紹介しておく。

対馬のアマテル神社
 日本神話の元が朝鮮半島であるとの説には違和感があるが、対馬に行ってその説にも一理あると思った。日本史の授業で「仏教伝来五五二なり」と習った。今は538年だそうだが、その年百済の聖明王から公式に仏像と経典が日本にもたらされた。朝鮮半島から対馬を経て壱岐から北九州、大和へ仏教が入ってきたのである。
2013年私は全国一宮めぐりの一環で対馬一宮の海神神社を訪れた。対馬一宮の近くの小船越に日本初の寺があった。聖明王からの仏像と経典を一時的に納めたお堂が寺となった。いま梅林寺というお寺がある。
寺のすぐそばに鳥居があった。扁額には写真のように「阿麻て留」と彫ってあった。ここは「あまてる」神社で天照大神を祀っていると聞いた。天照大神も仏教と同じように朝鮮から対馬を経由してやってきたのではないか。ただの直観であるが、高天原は朝鮮半島であるという説にも一理あるような気がしてきた。

天の浮橋は天の橋立かな?
伊邪那岐・伊邪那美神は高天原から下界につながる「天の浮橋」に立って国生みをした。
日本三景の「天の橋立」、この文字を見れば誰でもここが「天の浮橋」と思うだろう。昔の人はたぶん「天の橋立」から「天の浮橋」をイメージしたに違いない。あるいは逆かもしれないが。
橋立の対岸に丹後一宮の籠(この)神社がある。籠神社は別名元伊勢で、ここで数年過ごされた天照大神は「天の橋立」を渡って伊勢に向かって旅したという言い伝えある。
籠神社の裏手の舟屋でゆうめいな伊根という集落がある。浦島太郎ここで亀を助け竜宮城へ行くのである。たぶん舟屋の舟で竜宮に行ったのだろう。私は、竜宮城は琉球で、そこが高天原であると少しだけ思っている。海のかなたに高天原があるとするなら、朝鮮半島よりも琉球の島々の方がいいかなという程度の理由にすぎないが。暇なのでスケッチ図をしてみた。天の橋立は浮き上がり竜になった。天の浮橋は竜宮城、高天原に向かっている。

天照大神がうまれた阿波岐原へ

伊邪那岐が「みそぎ」をした「阿波岐原」は宮崎のシーガイヤ脇の江田神社の近くにある。宮崎空港から直接走っていった。もとは入江だったが今は砂丘の間の小さな池になっている。御幣が立っているのでここが神さまの「みそぎ」場所である。しかしみそぎ場所の阿波岐原ならもう少し澄んだ水がなければならない。せっかく交通費を工面して宮崎まで行ったが日向の阿波岐原にはちょっと失望した。
しかし阿波岐原から北へ30キロにある西都原(さいとばる)に行って驚いた。ここの古墳群は日本一かもしれない。その中に「男狭穂(おさほ)塚古墳」「女狭穂(めさほ)塚古墳」というペアの古墳がある。天照大神の孫であるニニギ神と奥さんのコノハナサクヤ姫の墓とされ、宮内庁は陵墓参考地として管理している。阿波岐原では高天原パワーを感じなかったが、ここではビリビリするほどのパワーを感じた。ここは天照大神の住む高天原と近いところにあるのかもしれない。

オノゴロ島には天の御柱があった

淡路島はオノゴロ島として人気が高い。オノゴロ島は伊邪那岐・伊邪那美神が大八洲(おおやしま)を生んだ場所である。オノゴロ島の「天の御柱」を回って島々を産むのである。オノゴロ島であるためには「天の御柱」がなければならない。しかし淡路島にはそんな柱はない。伊邪那岐神社があるので大八洲の一つと認められているが、どうもオノゴロ島ではないような気がしている。

私は淡路島の南にある沼島(ぬしま)がオノゴロ島だと思っている。天の御柱(みはしら)に匹敵する巨大な上立神岩が沼島にあるのだ。
沼島は淡路島南端の土生(はぶ)港から友ケ島水道を超えて15分ほどのところにある。友ケ島水道の下には日本最大の断層である中央構造線が横たわっている。南アルプスの分杭峠で構造線パワーを受けたことがあるが、日本最大の断層である中央構造線は友ケ島水道を通っている。中央構造線の南側はどこでも青石(緑色片岩)が現れている。有名なところは四国の大歩危小歩危の地形地質である。ここ沼島も青石の島で、天の御柱である上立神岩も巨大な青石である。まさに高天原パワーと構造線パワーの集中した島で、ここがオノゴロ島と私は確信している。
沼島を訪れてから数年後紀ノ川の河口にある和歌山城に上った。紀ノ川は中央構造線に沿ってできた川である。河口からその延長線上の瀬戸内海に島が見えた。googleの地図で見ると淡路島と沼島だった。二つの島の間の友ケ島水道の海底に中央構造線が走っているのが私の眼には見えた。その時も沼島がやはりオノゴロ島であることを再認識した。

■2-4 高天原大事件、岩戸隠れ!

私の愛読書の「古事記」の作者である梅原猛さんは、高千穂のくじふる岳が天孫降臨の地で奥に高天原があると述べている。地元にはその場所に案内板が立っている。
天岩戸もここにあり天岩戸神社もたっている。その奥に高天原の「天の安河原」もある。いずれも歩いていくことができると場所で、私にはちょっと神秘性がなくて不満であるが、大先生が言われるのであればなるほどと感心するしかない。
写真の洞窟の場所は「天の安河原」である。目の前の天の川を挟んで天照大神とスサノオ神とが「うけひ」を行った。「うけひ」は神の意志を問う占いだが、両神は正邪をどう判断するか決めないまま始めた。
天照大神はスサノオ神の「十握の剣」(とつかのつるぎ)を三つに折って、真名井の水を含んでプッと吹きかけた。そこからタギリ、イチキシマ、タキツの三柱の女神(宗像三神)が生まれた。
スサノオ神は天照大神の勾玉を砕き真名井の水を含んでプッと吹きかけた。その時にオシホミミ、ホヒ、クマノなど五柱の男神が生まれた。日本書紀には六柱となっており、ニギハヤヒという神が加わっているのだが、この神は後で活躍するので、六柱の男神が生まれたとする方を私は支持する。
スサノオ神は、私の心が清いから女の子が生まれたと勝利宣言をして、高天原で乱暴狼藉を働く。驚いた天照大神は岩戸の奥に隠れてしまう。

太陽の神天照大神が岩屋に隠れたために、世の中は真っ暗になった。困った神々は天の安河に集まって協議をする。
日本は神話の時代から民主主義の国だった。思兼神(オモイカネ)という賢い神が計画を練った。力自慢の手力男神(タジカラオ)を岩戸の脇に隠れさせ、岩戸の前で天の鈿女(ウズメ)が桶を踏みならし踊った。天の鈿女の踊りは神がかりとなり衣服ははだけ乳房があらわになった。見ていた神々は、はやし立て、笑い声は高天原に響き渡った。
この笑い声は岩屋の中まで響いた。
天照大神「私がいなくて暗いはずなのに、何が楽しいの?」
天の鈿女「あなたよりも美しい神が来られました」
フトダマ神が持った鏡をご覧になって
天照大神「これが美しい神か?」
もっと近くでご覧になろうとしたとき、控えていたタジカラオが天照大神を岩戸から導き、フトダマが入口に注連縄を貼り天照大神が再び岩屋に戻れないようにした。こうして高天原と葦原中国に再び光が戻ってきた。日本神話、一大事件である。

この事件を引き起こしたスサノオ神は高天原の神の叱責を受ける。財産を全部奪われ、髭や手足の爪を抜かれて、高天原を追放された。尊い神が高天原から地上の国に降りてくることを降臨というが、スサノオ神は追放されたので降臨とはいわないようだ。

高天原でそんな時間が起こっていたんだ、など思うと、日本神話は実に興味深い。この本は戦前まで歴史書として、本当にあったんだと信じられていた。しかしどうもうまく出来すぎている感がある。何か根拠はあったのだろうが、あくまでも創作と考えたほうが納得はしやすい。しかし私は何か根拠を探してみたくなるのである。

 

■ 2-5「高天原」を創作したのは誰?

「古事記」は天武天皇の命によって稗田阿礼が伝承していた歴史や神話を太安万侶が文字起こしをしたと学校で習った記憶がよみがえった。
初代神武天皇の即位は紀元前660年とされている。古事記の完成は8世紀前半である。とすれば古事記は二千数百年前の歴史を書いたものである。いくら記憶力のすごい稗田阿礼でもこんな昔の伝承を覚えているはずはない。天武天皇の時代の価値観に合わせて伝承を作り出したと考える方が自然である。私は、古事記は天武持統天皇の意向を受けて作られた過去の歴史であると考えている。

44代までの天皇の名前は奈良時代に天武天皇の一族である淡海三船という人物がまとめて付けた。それまでは「大王」(おおきみ)などと呼ばれていたようだ。その中で「天」がつく「おくり名」を付けられたのは天智天皇と天武天皇のお二方だけである。天武天皇の妻の持統天皇の和風の「おくり名」はなんと「高天原廣野姫天皇」である。天皇の歴史の中でこの三人の天皇に「天」が集中しているのである。「高天原」「天照大神」など「天」がつく物語はこの三人の天皇の時代に創作されたか、あるいは都合よく編集したのではないかと思うようになった。

天武、持統天皇は天智天皇の子である弘文天皇を倒して新政権を作った(壬申の乱)。これはクーデターなので、新政権は何とか正当性を主張しなければならない。そこで考え出したのが天照大神の国譲りの話である。天照大神は大国主神の国を譲るように主張する。大国主神の義理の父はスサノオ神で天照大神の兄弟だ。もとは弟の国なので自分に返すことは当然だというのが天照大神の主張である。

天智天皇は持統天皇の父で、天武天皇は天智天皇の弟である。天智天皇の国を自分たちが受け継ぐことは、過去に天照大神がやったことと同じで正当性があるという主張がなされ、以降新政権の正統性が担保されたのである。
国譲りでの話では、天照大神の主張は理不尽のように私には見えた。しかしその理不尽を正当化するために巧妙に作られた物語が「国譲り」だったのだ。歴史上は天智天王と天武天皇は兄弟とされているが、これもクーデターをカモフラージュするために作られたものではないか。兄弟説はどうもあやしいと私は考えている。
さらにもっと露骨なのは、持統天皇が「孫」を後継者にしたことの正当性だ。
天武天皇には有能な子が6人いた。持統天皇の子もその一人で草壁皇子という。持統は息子を後継者にしたかったので有能な大津皇子などを亡き者にした。しかし草壁は体が弱く即位前に亡くなってしまった。当然ほかの皇子が即位するはずだったが、持統は自分が天皇になり、草壁の子すなわち孫が成長するまで待つ選択をした。この選択には正当性はないが、先例として天照大神は自分の後継者を地上に降ろすにあたって、息子ではなく天孫を降臨させた。持統はまさに孫を後継者にした。「なんで孫を?」とい疑問があったが、この話を比較すればなるほど納得ができる。
天武、持統のご夫婦天皇は古事記のなかに巧妙に先例を作り出し、自分たちの政権に正当性があるように見せたのである。

原文を読んでもいないのに、古事記に対していじわるな解釈をしてしまった。昔なら
「高天原に疑問をもつなど不敬である」
と言われたかもしれない。
私は、何事にも疑問をもち、新しい仮説を立てて楽しむという人生を送ってきた。もう残り少ない時間だが、もう少しそんな人生を楽しもうと思っている。
古事記をないがしろにしているわけではない。梅原版の「古事記」は私の一番の愛読書で、得るところは大変大きい。こんなにスケールの大きく、楽しむことができる神話を作ってくれた先人には大変感謝しているのである。
というようなことで「高天原」をさらに探すことはやめて先に進むことにした。次回は出雲にたどり着けるだろうか。とりあえず第2章終了です。

三輪の神紀行! はじまるよ!

2021年正月、三密を避けるため、初詣には行かなかった。その代わりに十数年前奈良の大神神社へ初詣に行ったことを思い返している。暮れの28日にお江戸日本橋を出発して東海道を走り1月1日に伊勢神宮に参り2日は伊勢本街道を走り1月3日に大神神社に詣でた。

これだけ大変な苦労しての初詣をしたのだから、きっと大きなご利益があるだろうと期待した。しかし痛めた脛の剥離骨折がわかり3ケ月ギプス生活になった。お参りにご利益を期待するのが間違だ。日本の神様はただそこに居られるだけでいい。何事もなく平穏であればそれだけでいい。ただ存在するだけでありがたいことなのだ。日本神話にも最初の神様は泡のように現れすぐに消えるだけの存在だったと書いてある。神様には過剰な期待はしない方がいい。

大神神社の大神は「おおみわ」と読む。神のおわすこの地域を「美和」とか「三輪」とよぶ。神社の背後にそびえる神奈備山は「三輪山」である。私の名前はここが故郷であると勝手に解釈し、年に何回かお参りするようにしてきた。三輪山の上には三輪の神様がおられるということで満足すればいいのに、屁理屈好きの私は
「あなたは誰ですか?どこからきたのですか?何をするために来たのですか?」
という問いを発したくなった。

最後の「何をするか?」という問いの答えは、前にも書いたように
「ただただ存在するだけでありがたい!」
という答えを得た。しかし他の二つについてはよくわからない。
大神神社の「御宴能」でみた能「三輪」の中に
「思えば伊勢と三輪の神、いったい分身のおんこと、いまさらなにを磐座や!」
というセリフがあった。
「ええーっ 伊勢の大神と三輪の大神は同じ神だったのだ」

あの年に走って伊勢と三輪にお参りしたのは偶然たまたまではなかった。私にとっては実に興味深いことで、この時以来畏れ多いことであるが神さまを訪ねて歩くことが私の生活の一部になった。
神さまの源流を求めて大和から丹波、因幡、出雲、日向、高千穂、新宮、熊野、再び大和、近江、伊勢、志摩へと旅をした。その旅の報告書を2016年に作った。

しかしどうにも合点がいかないことが多く、公表は控えていた。
昨年コロナ禍で旅もままならなくなって、再び読み返してみた。
疑問は数々残るし表現はつたないが、しかしどこかに残しておいた方がいいと思いFBに連載の形でアップすることにした。

題名は「三輪の、神紀行」あるいは「三輪の神、紀行」 どちらにでも読めるようにした。しばらく続けていくつもりです。おひまなおりに眺めてください。7日→6日→5日 と7回分 1月1日までさかのぼるようになっています。

 

■1-1 三輪山をしかも隠すか


近鉄の京都駅には「初詣は三輪さんへ」という大きな看板が立っていた。神仏習合の名残りで大神神社は三輪明神として長い間親しまれてきた。大神神社という名前が主になったのは明治以降のことである。大神神社のご神体は三輪山であり、麓の地域も三輪と呼ばれている。大神神社に参るためのJR線の駅も「三輪」となっている。

「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さぶべしや」
大和を去る万葉歌人の額田王が、振り返りながら雲に隠れた三輪山を懐かしむ歌である。

この歌碑が山の辺の道の途中に置かれている。ちょうど景行天皇陵の南側である。大昔大和盆地は大和川の氾濫のため中央部は低湿地になっており、交通路は三輪山山麓の高台をつなぐ山の辺の道が大道だった。大神神社も山の辺の道にあるが、10代崇神天皇陵、12代景行天皇陵もこの道に沿っている。景行天皇の息子はかのヤマトタケルである。タケルは日本各地で武功を上げるが父に疎んじられ、伊吹山のイノシシに負けて三重の地で亡くなる。そして故郷を懐かしんで歌を残した。
「大和はくにのまほろば たたなずく青垣  山籠れる大和し 美(うるわ)し」
大和の風景を愛した川端康成が揮毫の歌碑がやはり山の辺の道に残っている。

今も昔も大和は日本人のふるさとなのだ。私も勝手に大和を故郷としている。古代日本のふるさとである大和 その地域の象徴である三輪山。

この地で古き時代の人々は生活を営んできた。しかし生活が豊かになると争いが起き、外界からの侵略が行われたりする。時には疫病が蔓延することもあったろう。
古代においては争いを治め、疫病を退散させるのは神の声を聴くことができる巫女の仕事であった。天皇でさえ巫女の告げる神の声を聴かなければならなかった。
2013年から神々を意識して大和から西日本を回った。どの神社を訪ねても必ず背後に巫女の影があった。巫女こそが日本の歴史を動かしていたのだということに気が付いた。