播磨坂でお花見 金栗四三の街

文京区 金栗四三、青春の地 文京区の伝通院の前にある「天しゃぶ」でお花見会。このお店は私が竹早高校に勤務中によく利用した場所で、ここ数年お花見の食事に使っている。例年より早く25日にはもう播磨坂の桜は咲いていた。

9人の旧職員が集まった。みな一病息災ならぬ3病くらい持っているが息災。来年もまた皆でお花見ができれば・・・ということで解散。外に出たら町中に「金栗四三の青春の地・文京区」という幟だらけ。わが竹早高校は旧東京府立第二高女で、オリンピック後の金栗先生の勤務校だった。金栗先生は体育ではなく地理の先生だった。

  金栗四三の足跡の地図を見るとマラソンの時にはいた金栗足袋を製造した町工場の跡が記されている。知らなかったのでみなで行ってみた。大正8年創業の蕎麦屋さんで聞いたら、角のビルの壁に石碑がはめ込んであった。金栗足袋を作っていたのが播磨屋、今日のお花見は播磨坂。金栗足袋の後に出た靴は播磨屋の「ハリマオー」だった。私も履いたことがある。

ところでNHKの「いだ天」で金栗足袋を作った播磨屋のおやじがピエール瀧だった。コカインで逮捕された。せっかくのいい役だったのに。金栗足袋が脚光を浴びて、お茶の水大学前のこの地にも見学者が集まるようになったのに、残念なことだ。

金栗名所地図ではわが竹早高校の位置も旧府立第二高女として示されている。私たちが作った「竹早の百年」の写真が使われている。私たちもかなりたくさんの資料を提供したのだがNHKの番組には何のクレジットもなかったなぁ。まあいいか、硬いこと言わない方がいいかな。

舞囃子:三輪

  我が奥さんの舞囃子の発表会。渋谷のセルリアンタワー能楽堂で行われた第6回の澤風会東京大会で舞うことができた。舞囃子の「三輪」は前にも一度舞ったことがある。おもえば伊勢と三輪の神、一体分身のおん事今さら何を磐座(いわくら)や!
我が家としては、ローカルな三輪の神が、日本の最高神である伊勢の神(天照大神)と同じだというのだから一大事! 

奥様はうまく舞えた時には、神さまが「よろしい!」と言って下さる感じがするという。前に京都で舞った時には見ている私にも突然舞が変わったような気がした。三輪の神さまとなんとなく親しくなったような気がしている。

我が家の奥様は、途中に中断はあるもののもう25年も仕舞を稽古してきた。若いころのことは私はまったく関心がなかったので、どんな舞をしていたかは知らない。ビデオ係を仰せつかった還暦のころからカメラを通して見るようになった。完全にひいき目で見ているのだが、ここ10年ほどの間に進歩を続けている。今回も前に三輪を舞った時よりも神さまに近づいたかと思うような感じだった。一緒に見てくれたSEKINEご夫妻、Ogata奥様は、20分間の長い舞をよく覚え、間違いなく舞えたね!大したものだ!とほめてくれた。

まもなく後期高齢者、もう進歩はないかもしれないがあと5年ぐらいはがんばれるのではないかと思っている。しかしビデオ係の方はかなりぼけているので、2~3年が限度かもしれない。まあともかくもう少し頑張れるかな!

猿ヶ京のわらアート

前橋の小林さんの高級車で猿ヶ京を通過してきた。昨日は湯沢の温泉でのんびり。朝は東京マラソンを見てから新幹線で戻るつもりだったが「苗場を通ってみましょうよ!」という誘いにのって三国トンネルを超えて猿ヶ京に降りてきた。久々にキュウリの漬物が名物の蕎麦屋に行ってみたが、5年くらいまえに閉店していた。

後期高齢者になるので、私は車を処分した。昔は自分で運転しで猿ヶ京に来て、永井宿、三国旧街道あたりを、小栗上野介の埋蔵金を探して歩き回っていたことがある。懐かしいところだ。  猿ヶ京には関東から越後に向かう街道の関所があった。その関所跡になんやらヘンテコな藁人形があった。今年の干支のイノシシ。車を降りて解説を読むと「わらアート」だとある。もともと下流の「たくみの里」に展示されていたが、人気が高かったのでこちらに移動して展示されているのだという。 勢至菩薩を載せたゾウ  真ん中は釈迦如来像、 右は文殊菩薩をのせた獅子

阿吽の獅子のうち阿形の獅子、インド由来の仏教だからゾウ
馬車を引く馬  一番人気だったイヌワシ 馬
昨年の12月28日(金)から猿ヶ京関所跡展示されており31年3月末まで。
夜はライトアップしてるようだ。
地元愛の強い小林さんは、ぜひ来てくださいとアピールしていた。

植村直己冒険賞 岡村さんのページ

みなさま、ありがとうございました。

昨日の植村直己冒険賞の発表と会見に際しましては、多くの皆さまに心温まるコメントやメッセージをいただき、また三輪主彦さんや山本千夏さん、丸山純くんたちがタグ付けしてくださった投稿に多くの「いいね」を頂戴し、本当にありがとうございました。ほかにもこれらをシェアしてくださった方々の投稿にも多くのコメントをいただいているようで、感謝と恐縮の念にたえません。

受賞決定の報せをいただいたときには、正直、「えっ!? オレ探検はしてても、冒険なんか全然してないのに……」と驚き、戸惑いました。それは、これまでの受賞者の方々が純粋に己の行動そのものを追求してこられた孤高の影を宿す人ばかりで、畏怖すべき冒険者たちであって、小生のようなのがそこに混じると植村賞の名を汚すことになるんじゃないかと恐れたからでした。

それでも、今回は選考委員間で「探検と冒険」に関する議論があり、その結果としての決定だと聞かされ、さらに選考委員や推薦委員の方々が小生らの探検のような地味な活動にまで目を向けてくださったことを考えると、少し落ち着いて、「これは仲間全員と、長く続いているプロジェクト全体への、大先輩・植村さんからのご褒美のようなものなんだろう」という解釈で、ありがたくいただくことにした次第でした(もうひとつ、植村さんとの個人的な因縁への思いもありました)。

とはいえ、小生も雑誌ジャーナリストの端くれではありましたので、少し内実に目を向けると、今回は推薦委員(と思われる)某事情通の大先輩、某ジャーナリスト、高名な某登山家といった方々が推してくださり、選考委員には山極寿一京大総長が新たに加わっていることなどから、何となく想像できるところはないわけではありません。もうひとつ想像できるのは、いずれも別の分野で面識のある選考委員の方々が、出された書類を見て、「えっ、岡村ももう70歳なのか!」と驚かれたのだろう、ということです(笑)。それやこれやでいただくことになった賞ですが、いただく以上は賞の名を汚さないよう、これからも頑張ろうと殊勝なことも考えております。

小生の受賞には異論もあるのかもしれませんが、とりあえずは多くの皆さまから温かい声をかけていただき、そのことにかつてない感激を覚えております。メッセージやコメントをいただいた皆さまには個別にお礼を申し上げなければならないところですが、まだ対応できない状態です。申し訳ありません。

とりまとめた雑なご報告やお礼になって恐縮ですが、皆さま、本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

広告に惑わされないぞ!

正月、孫たちがきていた。私がハズキメガネをかけているのを見て「ハズキメガネ、だーい好き!」というコマーシャルに合わせて、お尻の下にメガネを敷いた。コマーシャルでは大人のお尻の下に入っても大丈夫といううたい文句だが、私のメガネは小学生のお尻の下で「パキッ」という音がしてひびが入った。まあ中央部で見え方に影響はないが、うたい文句とはだいぶ違う。「コマーシャルを信じてはいけないよ!」という教訓を孫に教える。

メガネが壊れたって命にかかわることはないが、車の自動運転などはそうはいかない。自動的にブレーキがかかるとか人が出てきたら停車するとかいろいろ言うが、まだ全面的には広告を信用はしていない。しかし子どもや高齢者は簡単に広告を信用する。「あなたみたいに何にでも疑問を呈していたら社会は進歩しないよ!」と言われるが、どうも疑わしいことが多い。

昨年中国に行ってキャッシュレス社会を実体験した。物ごい(町中に乞食はまったくいない)や路上ライブの人までQRコードで決済をしているのを見て、「これりゃおかしい!」と思った。私はいつもニコニコ現金払いをモットーとしてきた。しかし日本でも急速にキャッシュレス、スマホ決済が進行している。我ら年寄りは取り残されるが、社会は変革しなければならないのだそうだ。政府肝いりで「お金」離れをさせようとしている。年より仲間の輝ちゃんはまだSUICAを持つことに抵抗している。

テレビ、ネットの情報に流されてはいけない。しかし流れに掉さすのは大変難しい。特にお金をちらつかされるとすぐになびきたくなる。カード決済をするとポイントで還元してくれるというが、このポイントというのが曲者。こんなことしなくて現金値下げしてくれればいいのに。でも誰かがどこかで儲けるためには現金値引きではうまくいかないらしい。世の中どうなっているのかわからん。わからない時には急がないで、ゆるゆるとポイントなしでいつもニコニコ現金払い方式を選びたい。

今年も駅伝三昧の正月

今年も正月三が日は駅伝テレビ観戦。1日の実業団駅伝はまれにみる大接戦。99.9㎞まで旭化成の大六野選手とMHPSの岩田選手の一騎打ち。最後の100mで旭化成が抜け出し4秒差の4時間51分27秒で優勝。3連覇を成し遂げた。

2日3日は関東大学駅伝。青山学院の5連覇はならなかった。往路は東洋大、復路は青山学院大、総合優勝は東海大という3強での分け合い。どこも選手層が厚くなったのだろう。しかし実業団に比べればタイムは復路山下り5時間23分49秒(107㎞)、100㎞に換算すると5時間2分ほどになる。人気は箱根駅伝だが、実力で見るとやはり実業団の方が面白い。

本日夕方池袋でT高校(大昔、韋駄天の金栗四三が地理の教師をしていた)の卒業生が集まっている場所に参入。嫌がらずに歓待してくれる。今の若者はまったく如才ないなあ。その中の一人は母校の応援に箱根まで行ってきたとか。残念ながら彼女の母校は必死の応援にも関わらずシード落ちになってしまった。

我が家は、ここ40年間駅伝を見ない正月はほとんどない。毎年の恒例行事がいつまで続くか? 昨年は一緒に走ったりサッカーをやっていた仲間が亡くなった。マンネリだが恒例行事を続けられるのは幸せというものだと、この年になると実感する。

伸し餅をもらった!

今年も中学時代の友人のS君から、「餅ができたぞ!」との電話をもらった。いつもはできたての餅をふうふう言いながら食べさせてもらっていたが、今年は作業が早くて、「午前中でなくなったよ!」とのこと。

S君は精米機屋さん、餅やは年末だけ行っている。杵と臼での餅つきではとても対応できないので機械になっている。製造過程を写真に撮らせてもらった。早くもらって帰って食べたかったので、伸し餅にする場面を映していない。まあいいか。

 

白根全さんの、アンデス写真展

勝手に全文引用 三五康司さんのコメントです。
許可もなく勝手にFBの文章を載せました。全さんの写真展には大変感動しました。同じ時に同じものを見たのですが、文章力のない私には書けないので、三五さんのを借用しました。

「地平線会議の大先輩であらせられる白根 全さん渾身の写真企画、
「写真家たちのクスコ―マルティン・チャンビと20世紀前半のアンデス写真―」
ーーを先週観てきた。以前も紹介したけれど、この企画は、
“ラテンアメリカ写真の豊穣な世界の中でも、とりわけ卓越した表現で知られたのがインカ帝国の首都だった古都クスコを拠点に活躍したペルー先住民出身の巨匠マルティン・チャンビと、同時代の写真家たち”
の作品展であり、
“今まではインカ帝国とマチュピチュ、つまり考古学の分野でしか語られることのなかったペルーですが、その大地に開花したアートの存在”
を知らしめる、
“日本では初めて紹介される20世紀前半のアンデス写真展”・・・とのことだ。(以上“”内、紹介テキストより部分引用)

 展示スペースに並ぶ65点の作品を順に観ていく。
家族・一族の記念写真あり、遺跡やクスコの街角の風景描写があり、当時の人々の生活感溢れる風俗が、見事な作品として結実している。1910~30年代の作品が多く、滅多にない≪撮影≫という機会のため被写体の人々の表情には緊張と硬さが伺える。カメラの前で長い露光時間の間姿勢を崩せないのだから当然のことだろう。
そんなことを思いつつ作品を観ていくうちに、写真がとても絵画的に撮られている事に気付いた。構図・ライティング・光と影の配分・・・ 当時のカメラには(貴重な)写真湿板が6枚しか実装できなかったそうだ。それゆえカメラマンが“如何に、どのような作品にするか”という意思が強烈に盛り込まれているように感じられた。連写した中から最高の1点を抽出する現代の創作スタイルとは根本的なスタンスが異なっているのが如実に理解できる。

個人的に最も感銘を受けたのが、「光の詩人」と呼ばれたマルティン・チャンビの作品群だった。
浅学のため作家については無知もいいところだったのだけれど、巧みに配置された人物のポーズと画面全体のダイナミックな構図、光線と陰影の強い対比で構成された劇的な効果、画面上の緊張と弛緩が生む動感、画像の彼方に至るまで綿密に計算されたパースペクティブ・・・・・・ そこに確かな“ストーリー”が秘められていることは一見しただけで理解できた。そしてチャンビの想いを具現化している精緻な現像技術は、光と影の明暗で巧緻な作品を描いたレンブラントの絵筆を想起させた。


一通り観たところで白根さんのギャラリートークが始まった。各作品に関する含蓄深い解説とともに鑑賞すると、より理解が深まる。
まず、展示されている作品群における肝要なポイントは“先住民族(インディオ)”の生活や風俗、文化、歴史的背景などが、“先住民族のカメラマン”によって描き出されていることだという。かようなケースは歴史上他にほとんど無く、あえて類例とするなら“日本人による明治以降の近代日本の写真作品”が挙げられるとのことだ。つまり先住民族によって描き出された、同時代の同胞たちの歴史的「リアル」がここにある。

「先住民の視線によって描かれたクスコの光と影の実相ーー
例えば『ホセ・アベル・ランティスの恋人』(1929年)という作品は、結婚式の前に“白人の”花嫁の撮影を依頼されたチャンビが、撮影後にカメラをグッと引いて画角をとり、花嫁がポーズを取っている豪邸の階段脇の隅に彼女の乳母である“先住民”の老婆を立たせ、陰影の中に埋もれるように撮影している。そうして白人同士の華やかな祝宴には決して招かれることのない先住民の老いた乳母の存在と表情を作品として残しているのだ。
チャンビの他の作品も同様だ。

『スタジオのファン・デ・ラ・クルス・シウアナとヴィクトル・メンディヴィル』(1925年)は、民族衣装をまとった210cmの先住民男性をスタジオ正面に立たせ、その隣に配した正装の白人男性が30cm以上も背の高いの彼を見上げている作品で、当時の状況を雄弁に、そしてシニカル且つクールに風刺しているだけでなく、アート作品としても秀でている。
『コソ泥を捕まえた警官 クスコ・レゴシホ広場』(1924年)では、居丈高な制服の白人警官に捕らえられ、怯えた表情を見せるインディオの子供を、わざわざ現場の広場に機材を持ち出して撮影することで、時代の空気感と風潮を言葉には置換できないリアリズムで描き出している。
つまり作品のモチーフを生み出すベースとなっている先住民族としてのプライドとキエチーフが、ひしひしと伝わってくるのだ。チャンビの作品のみならず、同時代の写真家のグループ“Escuela Cusque a de fotografia”(直訳は「クスコ写真学校」だが、“作家集団”“サロン”の意)の作品群が映し出した、当時の文化や時代性が鮮明な写真作品としてアーカイブされていること自体が、奇跡的な史的遺産なのだと実感できた。

開催に尽力された白根さんは、それこそ何年もクスコに通いつめ、これらの作品を収蔵してきた「フォトテカ・アンディーノ」という写真アーカイブとの信頼関係を構築し、個人的にも作品をコレクションして本展開催に至ったそうだ。

その価値ある行動の恩恵を受けられたことに、心からの感謝の意を表したい。

長岡竜介ケーナコンサート

芸術にはまったく疎いのでコンサートなど行くことはめったにないのだが、長岡君のケーナのコンサートは心地よく、何度か聞きに行っている。12月10日久しぶりだが市ヶ谷のセンターホールに行った。

数種類のケーナを使い分け素晴らしい音を奏ででくれた。今回はチャランゴ、ギター、太鼓、アルパとのセッションだったが、そのなかでアルパと呼ばれるラテンハープがまた素晴らしかった。いままで聞いたことがなかったいい音リズムだった。チャランゴの演奏もいいし、パーカッションもよかった。

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紅葉見物 鬼無里・鎌原観音堂など 

戸隠の山岳会の20周年記念日と合わせて紅葉見物に行ってきました。私は車がないので、EGUCHI夫妻の車に同乗して、あっちこちを回ってもらいました。長野駅で拾ってもらい、戸隠へ向かいました。その前に紅葉の名所である鬼無里(きなさ)に行きました。ここは京の都で不埒な働きをした紅葉という女性が流刑になってやってきたひなびた貧しい里だった。しかし紅葉さんはここで隠遁する気もなく周辺の民を集めて反旗を翻したのだが平維盛の遠征軍にやられてしまった。紅葉さんはとんでもない「鬼女」だったという伝説が残っている。今はもう鬼はいない里だよ!と宣伝しているが、鬼女イメージは残っている。今は鬼女ではなく貴女(きじょ)とされているようだ。

戸隠で楽しい宴会をした翌日、EGUCHIさんと同じ高校の後輩が来年からオープンするペンションを見に黒姫高原に行く。なかなかいい感じの外観だ。でもかなり手入れが必要かも。完成したら清瀬の皆さんぜひお泊りに来てください。

黒姫から志賀高原に上がり、雑魚川経由で秋山郷に行こうと思ったら、すでに雪のため閉鎖。6月まで通れないことが判明。急きょ渋峠経由で草津に抜けようと思って峠のパン屋に行ったら、11月4日で冬ごもり、さらに白根火山の噴火の影響で草津に抜ける道路は閉鎖。なので万座経由で軽井沢に行った。

途中鎌原の観音堂の紅葉見物。鎌原集落は浅間山の噴火で泥流が押し寄せ、500人の住民のうち400人以上がなくなった。観音堂の石段はほとんど埋まった。昭和になってから発掘を行ったら、石段の途中で息絶えた女性の骨が出てきた。あと数段登れば助かったのに。素晴らしい紅葉ですが、そんな悲劇のあった場所なので「すごーい!」とはしゃぐ気分にはならなかった。

軽井沢から旧道をとおって眼鏡橋の紅葉を見て横川、安中を通り本庄駅でEGUCHIさんと別れて湘南ライナーで戻りました。長時間運転させてしまいましたが、珍しいところを見れて喜んでくれました。ありがとうございました。

 

じいさんたちのクラス会

 高校のクラス会を毎年11月3日に池袋サンシャイン60のレストランで行っている。日時、場所は固定なので幹事は「まもなくクラス会ですよ」というメールを送るだけ。順送りに幹事をやることになっている。今年私は3巡目だから、もう15年ぐらい休まず続いていることになる。何せレストランの最高顧問が仲間なので、同じ場所で長く続けられている。私が幹事だったせいか、毎年参加していた多くの女性陣はゼロ、全部で13人しかいなかった。これは少々残念。というがもうこの年齢! 欠けていくのは仕方がないか。次の幹事まで頑張らなくちゃ!

 

隠岐島 焼火山

峠楽会の仲間であるHARAさんが、「おみやげ」といって写真の粟おこしをくれた。この文字は、私が一押しした隠岐の島の「焼火山」の山頂の神社にあったものだ。「あそこまで行ったの?」「行きましたよ!」と誇らしげに答えてくれた。私はあそこまではたぶん行けないだろうと思っていたのだが・・・この山は隠岐の島の島前にある古い火山の中央火口丘である。地図で見ると丸い島の中央部が一時期陥没してカルデラができ、その中央部に火山が噴出し火口丘を作ったことが見てとれる。

その山頂に神社がある。半分岩の中にめり込んだような形だが、これは火山活動がおわってからはるかに時間がたってから作られたものだから、押しつぶされる心配はない。しかし焼火と書くと、さも火山活動の火があるように見えるが、実はこれは「のろし台」の火だったのではないかと推察される。

まあともかく私が面白がったところに行って同じように面白がってくれたことは、私としては大変うれしい。これからもおもしろそうなところを紹介しますから、遊び歩いてください。以下は焼火神社の社殿、入り口の狛犬。

未完の巡礼 出版会

  著者の神長幹雄さんは日本の有力な登山家、すべてと接点を持っていたかの人だ。会場には登山界のレジェンドが集まっていた。

この本は歴史を作ったような登山家だったが40代で亡くなった6人の遭難現場に立って、彼らの最後を邂逅した文章だ。

植村直己、長谷川恒夫、星野道夫、河野兵市、山田昇、小西政継という登山家、写真家たちだ。私と同世代ということもあり、私も行動を追っていた人たちなので、特別に興味がわく。

神長さんはその人たちと編集者として親しく接していた。彼らの行動を追って北極、ヒマラヤ、カナダを旅し、かかわった人々から彼らの人となりを聞いた。

彼らへのオマージュ(尊敬の気持ちを表したもの。敬意。 ほめたたえるもの。賛辞)となる本だった。6人の奥様方が参加してくれたのも神長さんの人柄だろう。久しぶりにすばらしい会だった。

但馬から因幡へ、「たもや」で食事

鳥取にいます。因幡の白兎神社、因幡一之宮の宇倍神社にお参りするためです。地元にいるKUSA野さん御案内でぐるっと回れたので楽ちんでした。いつもなら地図を頼りに歩け歩けなのですが、本日は乗っていればいいので楽でした。写真は合流場所の餘部鉄橋。

鳥取砂丘・砂の美術館:白兎神社

「たもや」で食事KUSA野さんおすすめ。猛者エビは今この時期にしか食べられない。