安芸国府 多祁理宮(埃宮)かもしれない


古事記(712年成立)によれば、初代神武天皇は高千穂を出て東征の途中、安芸国多祁理宮(埃宮)(たけりのみや・えのみや)で7年間過ごし、さらに備前の高島宮で数年すごし大和に向かった。多祁理宮(古事記){埃宮(日本書紀)}その場所は府中町の多家神社である。その後ここに国府がおかれ、総社がつくられた。しかし安芸の国分寺とはずいぶん離れている。国分寺のそばの西条の町は条里に作られた国府があったとする説もある。

国府 多祁理宮 
古代山陽道は奥深く湾入した海岸を通っていた。今の向洋駅の前の鹿籠(こごもり)神社のあたりに港があった。「こごもり」は国府守(こうもり)が転じたものだ。鹿籠神社(移転後)の写真を入れておきます。

総社 田所明神社
田所氏は国府の高級官僚で、のちにこの地に広大な勢力を持った。のちに国府跡に田所神社が作られ、安芸の国の総社とされた。現在総社会館などが立っている。

国分寺 国分尼寺
国分寺は府中町からはるか離れた東広島市の西条にある。最初の国府はこの地にあったとする説もあり、西条は国府の条理の跡ではないかと考えられている。しかし発掘はなされていない。

国分寺は西条駅の北側に広がっていた。現在は公園になっており、現国分寺が法灯を継いでいる。西条は賀茂鶴などの酒どころ、国の醸造研究所もあるという。私はこの近くに小学校まで住んでいたが、酒蔵の街ということは知らなかった。さらに国分寺があったことなど知る由もなかった。

ところで国分尼寺については調べる時間はなかった。たぶんまだ発掘されていないのだろう

旧乃美尾村
私は小学校5年生まで黒瀬町の乃美尾小学校で過ごしたので、懐かしい故郷である。と言ってももう知り合いも親戚も誰もいない。西条の国分寺からはちょっと遠いが久しぶりに訪れて写真を撮ってきた。おまけ写真!

播磨国印鑰大神宮は国府?


播磨国は現在の兵庫県の大部分だった。国府、国分寺は姫路市にあった。国分寺は御国野町(みくにのちょう)の御着駅の近く、旧山陽道に沿って広がっていた。そこには印鑰大神宮という小さな宮があった。印鑰(いんやく)というのは国司の印璽をつかさどる役所のことである。この近くに国府があったのではないか。

国府 総社

姫路城の近くの播磨国総社付近に国府寺町がある。ここも国府候補地であり、郵便局の建設時に発掘がなされ、ほぼ国庁と考えられている。しかし遺構は保存されていないので写真はこの石柱のみ。私は、もともと国府は国分寺付近にあり、その後姫路城に近い総社隣の郵便局下に移転したのではないか、と素人考えをしている。

御着の印鑰大神宮のそばに埋蔵文化センターがあり、国分寺、尼寺の発掘をしている。国分寺付近で国府跡を探しているのかもしれない。これも素人考え!

印鑰大神宮

社殿には印鑰大神宮の表示はなく、幟旗に書いてるだけ。拝殿内には絵馬多数!

国分寺 国分尼寺
御着駅のすぐ近くに国分寺跡が整備されている。その一角には法灯を守る現国分寺がある。門は閉ざされているので、話は聞けなかった。説明版によると塔は七重の塔、現国分寺の本堂は元の国分寺の金堂の上に立っている。敷地端には築地塀が復元されている。その向こうを山陽本線、新幹線が通るのが見える。

国分尼寺は石柱と説明版のみ。発掘時の写真は埋蔵文化センターのHPから借用

播磨国一宮 伊和神社
一宮の伊和神社は揖保川の上流部の宍粟市にある。
上の青くなったところをクリックしてください。
 

親切な地元民
御着駅を降りて案内板を見たら「印鑰神社」との名前があった。事前の調べではこの神社について何も知識がなかった。「印鑰」(いんやく、いんにゃく)は国司の印璽を預かる役所のことで、国府の中にあった。先日行った能登国ではその場所が能登国府とされていたので、ここ播磨国でも印鑰神社が国府内にあったと、私は考えた。

さっそくその神社を目指して旧山陽道を歩いたのだが、近くにいるはずなのに見つからない。地元の方に聞いたら「知らないけど、聞いてみるよ」とのこと。「わかったわ、車を持て来るから待ってて!」という。車で15分ほど走った場所には八幡様はあったが「印鑰神社」ではない。親切はありがたいほど身に染みたが、残念。

元に戻ってGoogle Map で探すが入り口の路地が見つからない。最後に民家の敷地を通り越したら山裾にその神社はあった。幟旗を見えた時、歩数計はすでに1万五千歩にもなっていた。この印鑰大神宮が国府と関係があるのか、御着駅前の図書館で聞いてみたが何の資料もなし。

皆さんとても親切に接してくれたのだが、成果はなかった。国府の権威の賀曽利さんに聞いてみよう!

播磨国伊和神社 (sakura.ne.jp)

三河国 国分尼寺がすばらしい


国府 総社

愛知県には尾張、三河の二つの国府があった。尾張は総社国府宮だけが立派だが三河には総社、国庁、国分寺、国分尼寺のワンセットが狭い範囲に集まっていた。東海道の御油、赤坂宿から近い場所に名鉄「国府」(こう)駅があった。こから数百メートルいった白鳥台地の上に総社(旧村社)があり、そのわきに鎮守の森がある。その森が国庁跡として発掘されている。国府は台地の上全体に広がっていたようだ。

国分寺
総社国庁の森の横をとおる姫街道の先に八幡宮があり並んで国分寺遺跡と現在の国分寺がある。国分寺にはふつうの七重の塔ではなく五重の塔があったらしい

国分尼寺
国分尼寺の前に「三河国分尼寺跡、天平の里資料館」がある。その資料に全国の国分寺国分尼寺の分布があった。国分尼寺の跡がない、あるいは見つかっていない場所は多いようだ。現在の三河国では国分尼寺の方がメインである。

八幡宮
国分寺の総本山、東大寺を守る神さま手向山八幡宮がある。同じように三河国分寺をまもる八幡宮が国分寺の隣にある。鳥居前には国分寺にあった五重塔を模した石の五重塔が飾っておある。神さまと仏さまは親しく共存していた。

コンパクトに国府、総社、国分僧寺、国分尼寺がそろっている場所はあまりない。小さいながらも資料館があり、国府巡りの場所としては最高である。三河では一番大きな船山古墳もあり、旧東海道御油の松並木も近くにあり、散歩道としてはすばらしい。

尾張国府と総社国府宮


尾張国は大国であった。一宮の真清田神社、総社の国府宮は大変立派なものである。しかし国府、国分寺に関してはあまり力が入っていない。愛知県はいまも大県である。もう少し発掘、復元などに力を入れてほしいものだ。

国府・国衙
国府の位置は分からない。国府宮の駅近くに「国衙(こくが)」跡があるが、これは10世紀の頃に大江匡衡が国司として赴任した館である。国府がこの辺りにあったと推測されている。しかし私は、稲沢駅の東側に下津(おりづ)町東国府、西国府という地名があることを見つけた。地元の人に聞くと「国府山阿弥陀寺の東と西だよ!」というが、国府があったので国府山と名付けたと思っている。

総社 国府宮
名鉄に国府宮駅があり、線路に沿って長い参道が伸びている。三本の鳥居をくぐって楼門に入る。儺追(なおい)神事で大鏡餅は楼門を通るギリギリの大きさだそうだ。儺追神事は「はだか祭」として知られている。檜皮葺のすばらしい社殿の前では早めの七五三のお参りをする人がいた。

国分寺
矢合(やわせ)観音行のバス終点が国分寺の前である。本数は少ないので私は市役所から歩いた。新幹線をくぐるとすぐに現在の国分寺が見える。この国分寺は古代の国分寺とは直接の関係はない。国分寺跡は鈴置(すずおき)神社の先にあるが、発掘の途中?で何の整備もされていない。雨のあとだったので塔の跡へいくのは大変だった。そこには礎石が一つ、石碑が一つだけ。草刈りもしてない。

国分尼寺
法華滅罪之寺というのが正式の名前であり、法華寺、法花寺という名前が残っていることも多い。国分尼寺跡は「法花寺」という地名の場所にあったことが想像される。現在の法華寺が関係あるかもしれない。

9月10日、東京は22℃と涼しかったが、名古屋は暑かった。稲沢市役所までバスで行き、その後は歩きだった。帰りのバスがなくて、珍しくやってきたタクシーに乗って国府宮まで戻った。だんだん自分の足に頼れなくなった!ちょっとだけ寂しいことだ。

陸奥多賀城総社国分寺国分尼寺


陸奥国は広い。7世紀以前に大和政権は白河の関の北側に住む人々を抑えてはいなかったのに勝手に「陸の奥」と呼称してだけである。律令制度になる8世紀初め陸奥国最前線は多賀城にあり、そこに鎮守府が置かれた。数百年かかって坂上田村麻呂によってまつろわぬ人々を征服して岩手県の胆沢城に進出した。陸奥の国府(鎮守府)は城と同意だった。

国府多賀城
仙台から4つ目に「国府多賀城」(2001年開業)というJRのえきがある。

壺の碑
多賀城の正面に「多賀城碑」壺の碑(いしぶみ)がある。松尾芭蕉は「おくの細道」でこの碑が西行の訪れた歌枕の地であると感激している。しかし本当の壺の碑(いしぶみ)は野辺地の近くにある「都母の碑」(日本中央の碑)である。芭蕉は知っていたが伊達藩が推奨する壺の碑をあえて歌枕の地としたのだ。碑には多賀城国府の位置(都などから)が記してある。

陸奥国総社
奏社との石碑があった(写真なし)多賀城政庁の東門の近くにその神社があった。鳥居前に陸奥国の延喜式内社の名前が並べられていた。それらの神社の総社なのだ。

アラハバキ神社
総社には延喜式内社が並べて書いてあったが、すぐ近くの「荒脛巾」神社の名前はない。しかしこの神社は東北では有名である。元は大和政権にまつろわぬ人々の間で信仰された「荒脛巾(あらはばき)神」を祀っていたが、今は足腰の痛みにご利益のあるローカルな神さまと言うことになっている。お参りの人はなにやら怪しいが足腰、子孫繁栄にはご利益があるとのことだった。この神さまは武蔵国一宮の氷川神社の摂社にもなっている。アキハバラと名前が似ているが関係はないようだ。

陸奥国 国分尼寺
多賀城国府からはだいぶ離れた仙台駅の近くに国分寺跡、国分尼寺跡があり、それぞれ法灯を引き継ぐ立派な寺が残っている。地下鉄東西線の薬師堂駅は国分寺と国分尼寺のちょうど真ん中にある。現在の寺と跡を国分尼寺から順に載せておきます。

陸奥国 国分寺

陸奥国は大国だっただけあってみるところも多かった。国府、国分寺と直接関係ないが、「壺のいしぶみ」「アラハバキ神社」を絡めて見るのは興味深い。さらに国府多賀城駅のすぐそばにある浮島神社は大和政権と関係深いが、今回載せる余地は無くなった。国府、国分寺を見て日帰りで東京に戻った。
1999年だったか?私は芭蕉を追う走り旅で8日間かけて深川芭蕉庵から多賀城の「壺のいしぶみ」まで走って来た。さらに本物の「都母(つぼ)の石ぶみ」まで6日かけて走った。新幹線はエライ。日帰りで往復できるのだから。

伊豆国分寺と三島大社

伊豆国の国府は三島にあった。三島駅南の楽寿園あたりで富士山からの湧き水が噴出している。こんなきれいな水の湧きだす町は珍しい。三島は富士山の賜物だ。

国府
国府が三島にあったことは確かだが,その位置は確認されていない。国府とか府中という地名もない。ところが三島大社の脇にある祓戸神社に「国司」の文字があった。国司は国庁から歩いて三島大社に参拝したとある。祓戸神社の前から鎌倉街道が国分寺に通じている。そのどこかに国庁があったのだろう

総社 三島大社
国司が参拝するのが総社である。伊豆国の国司は三島神社に参拝していたという。そのことは今ほど大きな神社ではなかったはずだ。神社が大きくなったのは鎌倉時代、源頼朝の庇護を受けたからだ。神社のどこにも総社の印はないが伊豆国一宮の三島神社が総社の役目を負っていたのではないか。平氏の厳島神社に対して源氏は大三島神社を奉じていた。「三島大社」とあるが明治の時代になって名乗ったもので、元は三島神社であった。

国分寺
三島大社の摂社の祓戸神社の前から鎌倉古道がとおっている。この古道にそって広小路のほうに行くと現在の国分寺がある。現国分寺の境内に七重の塔の礎石が発見された。国分尼寺については不明。

富士山と三島の街
富士山と三島の街の間には愛鷹山がある。しかし富士山の溶岩は愛鷹山と箱根山の間の狭い通路を通って三島の街に流れてきた。こんなに長い距離を流れたのは山梨県の富士吉田から猿橋に流れた溶岩に匹敵する。三島は富士山によってつくられた町と言ってもよいかも。