陸奥国は広い。7世紀以前に大和政権は白河の関の北側に住む人々を抑えてはいなかったのに勝手に「陸の奥」と呼称してだけである。律令制度になる8世紀初め陸奥国最前線は多賀城にあり、そこに鎮守府が置かれた。数百年かかって坂上田村麻呂によってまつろわぬ人々を征服して岩手県の胆沢城に進出した。陸奥の国府(鎮守府)は城と同意だった。
国府多賀城
仙台から4つ目に「国府多賀城」(2001年開業)というJRのえきがある。
壺の碑
多賀城の正面に「多賀城碑」壺の碑(いしぶみ)がある。松尾芭蕉は「おくの細道」でこの碑が西行の訪れた歌枕の地であると感激している。しかし本当の壺の碑(いしぶみ)は野辺地の近くにある「都母の碑」(日本中央の碑)である。芭蕉は知っていたが伊達藩が推奨する壺の碑をあえて歌枕の地としたのだ。碑には多賀城国府の位置(都などから)が記してある。
陸奥国総社
奏社との石碑があった(写真なし)多賀城政庁の東門の近くにその神社があった。鳥居前に陸奥国の延喜式内社の名前が並べられていた。それらの神社の総社なのだ。
アラハバキ神社
総社には延喜式内社が並べて書いてあったが、すぐ近くの「荒脛巾」神社の名前はない。しかしこの神社は東北では有名である。元は大和政権にまつろわぬ人々の間で信仰された「荒脛巾(あらはばき)神」を祀っていたが、今は足腰の痛みにご利益のあるローカルな神さまと言うことになっている。お参りの人はなにやら怪しいが足腰、子孫繁栄にはご利益があるとのことだった。この神さまは武蔵国一宮の氷川神社の摂社にもなっている。アキハバラと名前が似ているが関係はないようだ。
陸奥国 国分尼寺
多賀城国府からはだいぶ離れた仙台駅の近くに国分寺跡、国分尼寺跡があり、それぞれ法灯を引き継ぐ立派な寺が残っている。地下鉄東西線の薬師堂駅は国分寺と国分尼寺のちょうど真ん中にある。現在の寺と跡を国分尼寺から順に載せておきます。
1999年だったか?私は芭蕉を追う走り旅で8日間かけて深川芭蕉庵から多賀城の「壺のいしぶみ」まで走って来た。さらに本物の「都母(つぼ)の石ぶみ」まで6日かけて走った。新幹線はエライ。日帰りで往復できるのだから。