筑後国府・国分寺・高良神社

筑後川下流部は古くから開けた地域である。その中心にある高良神社は何やら意義深く不可思議な神社である。私は高良山山麓の水縄断層遺跡を見るためにこの地を訪れて以来気になる神社だった。今回筑後国府、総社遺跡を見に行ったが、国府のヘリが千本杉断層によって区切られていることをみて、こりゃ興味深いことだと改めて感じた。高良山、断層、筑後川が私の筑後国イメージである。
筑後国府
筑後国府は高良山の麓、筑後川の屈曲部の低湿地に作られていた。朝廷の権威が届かなくなった中世以降は完全に埋まったが、今から50年ほど前から発掘がなされその姿がおぼろげながら復元されている。国府の建物は4回移転していることがわかっている。3回目まではJR久大線の北側、千本杉断層の下側の低地にあったが第4期の国庁は台地の上の南筑高校の敷地に移ったことが判明している。説明版、石碑が建てられているのは第2期政庁の国司館跡である。下右写真は第2期政庁跡にある阿弥陀堂。

総社
JR久大線の久留米大学駅は千本杉断層の真上にある。駅の北側は急崖で、がけ下に池と神社がある。池の水は断層外から湧く清らかな水であった。ここに味水御井
(うましみずみい)神社がある。国府の役人らがこの水で曲水の宴を張った石組みが発見されたという。現在は朝妻神社となり、朝妻の清水が高良神社のみそぎの水として使われているという。

国分寺・国分尼寺
国分寺跡、国分尼寺跡は少し離れた陸上自衛隊の近くにある。国分寺という寺はなく、神社の境内に碑だけが立っている。尼寺跡はさらに寂しく民家の角に石碑が建つだけ。この前を2回行ったり来たりしたのに見つからなかったぐらい見つけにくい。

高良大社

周防国衙・国分寺・周防大仏

山口県は旧国の長門国、周防国からなっている。周防国は大内氏が支配した国で、中心だった山口は西の京として大いに繁栄した。しかし古代の周防国府が置かれたのは防府だった。他国の国府は10世紀には衰退していったがここは東大寺領となり長く継続した。国分寺は今も威容を誇っている。
周防国府(防府)
広い国府の跡がのこっている。国庁があった部分に国衙の石碑がある。国府は役所の区域のこと、国庁は役所のこと、国衙は役所の建物のことである。ここにある石碑は江戸時代に建てられたものだ。

多々良大仏
防府は東大寺領になったために長く保護されてきた。大仏も作られ、今もその姿を作られた当時とほぼ同じ多々良さんの麓で国府の北隅にのこされている。

周防国総社(佐波神社)
総社(惣社)は国司が赴任した際に、その国中の神社に参詣するのが習いであったが、それは容易なことではないので国府に諸神を集めて祀る惣社(総社)を建立する制度ができた。防府市惣社町にある。

周防国分寺
周防国分寺は昔の形式を残したまま現在に至っている。10世紀ころには朝廷の威力は無くなり、地域に密着しない官立の寺は衰退した。しかしここは東大寺の管轄になったために現在までその姿を残している。ただし規模は縮小差荒れており七重の塔ものこっていない。

法花寺(国分尼寺)
国分尼寺との表示はなかったが、奈良の国分尼寺の総本山である法華寺を名乗る寺が旧国にある。おそらく国分尼寺を意識してつけた名前であろう。この寺がいつできたか聞くことはできなかったが、私の中ではここが国分尼寺跡であると確信している。

防府天満宮

大宰府に左遷されることになっていた菅原道真は防府にとどまって朝廷からの許しの方を待っていた。しかしその使者は来なかった。寂しい思いをして九州の太宰府に流され、その地で亡くなった。菅原道真が亡くなった日に遥か西の空から五色の光が射し、酒垂山の空には瑞雲が棚引いた。国司をはじめ里人たちは道真公の魂が光となり雲となりこの地に帰ってこられたと悟り祠を建立して松崎の社とした。これがのちの防府天満宮で最初の天神様と言われている。大宰府、北野とならんで日本三大天神というそうだ。

長門国・国府・国分寺

もとは日本海側にあり穴門と呼ばれていた。しかしヤマト政権が安定してくると瀬戸内海側に中心部が移ったようだ。穴門は長門と呼ばれるようになり長府(長門国府)がおかれた。中世には毛利氏の城下町になったことで国府時代の遺跡は失われてしまった。
長門国府忌宮神社の一角にある図書館に国衙の説明書がある。今回訪れたがその説明版は見つけられなかった。ネットで見つけた説明版の記述を書いておく。
中国の律令制にならって全国五畿七道の68か国に国府をさだめた。従来の国造を廃してあらたに国司を派遣した。長門の国においては長府の地を国府と定めた。別の記事には最初の国司は三輪高市麻呂とあった。急に親しみがわいてきたが、この人は実は柿本人麻呂のことであるとの記述もあり、何が何だか分からなくなってきた。

総社
総社の跡は毛利邸の入り口にあり、石碑が立っている。現在も総社があるとのことで探して歩いたら、小さな社が見つかった。これが総社とは思えないのだが!

国分寺
長門国分寺は長府、宮の内町にあった。今は道路の片隅に国分寺跡の碑が建ち、その脇に礎石が一基残っている。長門国分寺は大内氏、毛利氏による庇護を受けていたが、明治維新後に衰退した。現在の国分寺は真言宗の寺院で、長府から赤間神社の近くに移転した。 木造不動明王立像と絹本著色十二曼荼羅図(国指定重文)は現在の国分寺に引き継がれている。国分寺跡の石碑のすぐ近くに覚苑寺がある。この中に和同開珎の鋳造所があった。長門の国には長登銅鉱山があり、日本では最大の鉱山だった。

国分尼寺
国分尼寺も建設されただろうが、その痕跡は残っていない。

長門一宮住吉神社
新下関駅から国道に沿って行くと長門一宮の住吉神社に出る。住吉神社から峠を越えていくと長府の街にでる。この道は住吉道と呼ばれていた。私はこの道を数回歩いたことがある。住吉神社の青銅製の狛犬に興味をひかれた。

筑前国・大宰府・国分寺

 7世紀の筑紫国にはヤマト政権の出先機関である大宰府がおかれていた。663年白村江の敗戦で、大宰府は防衛ラインの最前線になり「水城」がつくられたりした。もともとは西の都として諸外国との交流、祖国の防衛などの任に当たっていた。しかし菅原道真など都での政争に敗れ大宰府に左遷される貴族が何人もあり、反乱などが起こったため大宰府の役目は縮小された。律令制の施行とともに筑前、筑後の国に分割され、それぞれに国府がおかれ国司が派遣された。筑前国府はたぶん大宰府の広大な敷地にあっただろうが、発掘はされていない。

大宰府 国府?
西鉄線の二日町駅から都府楼駅の間に大宰府の敷地があったようだ。今も朱雀などの地名も残っている。大宰府という駅は天満宮の参道にある駅で大宰府跡からは少し離れている。

総社不明なので榎社
総社の存在自体がわからない。一宮は住吉神社だがここからは離れた博多区にある。近くにある太宰府天満宮は総社にはなりえない。大宰府の敷地の端に菅原道真が住んだという榎社があるが、もちろんこれも総社ではない。ということで総社は不詳だが榎社の写真を入れておく。

国分寺
都府楼駅から水城小学校のわきの国分寺通りを上がっていくと突き当りに八角灯篭がありその奥に国分寺がある。国分寺わきには国分寺跡の礎石がいくつもあり広い敷地も確認できる。さらに奥には博物館(文化ふれあい館)がある。博物館の庭には国分寺にあったはずの七重の塔の復元模型があった。なかなか立派でいい。

国分尼寺
尼寺跡の礎石は一個だけ。地区の施設に保管してあるそうだ。

太宰府天満宮
左遷されて大宰府に来た菅原道真だが、怨霊になって都人に危害を加えるようになった。しかし今見ても大宰府は立派な都だったように思う。菅原道真はそれなりにこの地を楽しんでいたのではないかと私は思うが、怨霊になってもらわないと困る人たちがいてでっち上げた話ではなかろうか。それはともかく、今年は三大天満宮、京都の北野、防府、大宰府と廻った。今は怨霊などどこにも感じないいい神社だ。コロナでまだ海外旅行は解禁になっていないのだが太宰府天満宮は浅草以上の賑わいだった。しかし聞こえてくる言葉は韓国語ばかり。まあどこの国の人でも賑わうのはいいことなのだろう。

観世音寺
空海は遣唐使として長安の都に行くが20年滞在予定を2年で切り上げ戻ってくる。見つかると死罪なのでここ観世音寺に膨大な経典とともに隠れ住んだ。この経典の価値を様々な方法で表し嵯峨天皇のお許しを得て京都に戻ることができた。空海の生涯においてこの観世音寺は重要な場所である。空海ファンとしては何としても見ておかなければならない寺である。

讃岐国府・国分寺・法華滅罪之寺

讃岐国は四国88札所巡り最終章!しかし最後の五色台の山地に難儀した。八十場の79番天皇寺から歩き始め80番国分寺から五色台に上り山の中を81番へ行き、引き返して81番根来寺についたころはもう日が傾いていた。鬼無駅に降りた時には夕闇、疲れ果てて電車で高松まで行き宿泊。翌日ゆっくり鬼無駅に戻り駅前のカフェで朝食をとって82番へ向かった。国分寺資料館を見学する余裕は全くなかったことを思い出した。復元したミニ七重の塔があったことにも気が付いていなかった。4年ぶりの訪問は雨にたたられたが、新しい発見がいくつもあって楽しかった。讃岐国府

国府というのは律令制になって国から国司が派遣された場所である。それまでは地方豪族の国造が支配していたが大和の中央集権が確立したことの証明だろう。讃岐の国府は讃岐府中駅のそばにある。しかし国府跡には石碑が建つだけで周辺は田んぼが広がっている。国府が現在の県都になる例はごく少なく讃岐国も今は高松に県庁があり、国府のあった讃岐府中あたりはごく普通の田舎になっている。

ちょっと気になったのは周辺の発掘によって畑の中にいくつかの遺跡が残っていることである。その中に印にゃく神社跡というのがあった。印にゃくというのは国司の印と国衙のカギのことである。他の国府遺跡を歩くと国府のそばの総社の中に印にゃく神社があったことが知られている。しかし讃岐国の場合2社の関係は不明。

讃岐総社
総社は国司が常にお参りする神社である。なので国府とセットになっているはずである。しかし讃岐総社は綾川の6キロほど下流にある。当時は水運が使われたかもしれないがちょっと遠いような気もする。印にゃく神社の場所に総社があった、その後にこの地に移ったと考えてもいいように思う。

讃岐国分寺
讃岐国府は坂出市になるが国分寺は高松市にある。四国の4国分寺はいずれも当初の地に現在も残っている。讃岐国分寺も聖武天皇の詔の場所にあり、現在も立派なお堂がたち法灯を継いでいる。元の寺は敷地はさらに広く、現在も発掘が続き成果は隣にある資料館で発表されている。
現在の国分寺は四国第80番霊場になっており大勢のお遍路さんが訪れている。私も4年前に訪れたが人が多すぎて朱印を受けることはできなかった。ここから青峰山の第82番根来寺を目指したことを思い出した。

現在の国分寺

国分尼寺・法華寺
国分尼寺が残っているところはごく少ない。讃岐は本山である奈良の法華寺(法華滅罪之寺)の表示した寺が現存していた。「法華滅罪之寺」を掲げているのはごく少なく、私が見たのは初めてである。敷地はもっと広かったはずだが現在は境内のいくつかの礎石を残すのみである。すぐ近くに春日神社があるが何らかの関係があったのかもしれない。備前焼きの狛犬がなかなか良い。

雨の国府国分寺めぐり
天気予報は9時ごろから雨は上がると言っていたが10時になってもあがらなかった。カッパを着て自転車で端岡駅を出発し国分尼寺から国分寺、国府、総社へと回り坂出駅にもどった。坂出駅に上がると讃岐の富士山型の山には日が当たるようになっていた。残念ながら時間、体力切れでマリンライナーで岡山へ、新幹線で東京に戻った。

 

 

 

伊予国府は古国府?


『和名抄』によれば伊予国の国府は越智郡、現在の今治市にあったとされているが遺跡は見つかっていない。しかし今治平野にあったことはたぶん確実である。今治は「いまばり」と呼ぶが地元のおじさんはほんとうは「いまはる」と言ったんだ、と教えてくれた。「いまはる」の方が和語のようで優しい感じがする。

伊予国府
国府の候補はいくつかある。私は「古国分」という地名に着目してまず最初に古国分に行ってみた。地元の人は何もないところだと言うが今治藩主の墓があるという高台に上がってみて驚いた。三代藩主の墓がならんでいる。おそらくこの地は今治藩としても重要な場所だったことがわかる。さらにこのちには城が築かれていたという。昔国府として整備された地はのちの時代になっても重要な地として使われていたのだろうと思う。隣に広い交通公園があるがその地域まで国府の範囲があったのではないか。今のところ国府跡は確定していないので勝手なことが言える。私的にはこの地に国庁があったとする。

伊予総社・伊加奈志神社
伊予総社は伊加奈志神社とされている。私は四国遍路の時に寄った覚えがあるが、どこにも総社との記述はなかった。今回も確かめてみたが現地には総社との記述はなかった。それにこの場所では国府の地を「古国分」とすれば遠すぎる。どちらか、あるいはどちらも間違えているということもある。とりあえずはwikipediaの記述に従っておく。

伊予国分寺
四国札所59番が国分寺である。四国には4か所の国分寺があり、それぞれ旧国分寺遺跡の上、あるいは隣接地に建物が立っている。お遍路の時には奥さんがお大師様と握手をしたが今回は私も握手をしたいと願っていた。握手をしたあと案内板を見ると「願いは一つだけ」と書いてあった。「しまった!別のこと願うんだった!」

伊予国分尼寺・法華寺
国分尼寺の総本山は平城京わきにある法華寺(法華滅罪之寺)であり、地方の国分尼寺も法華寺と呼ばれることが多かった。伊予国分尼寺も当初は華厳宗東大寺に属していたがその後は真言宗になり現在に至っている。国分尼寺が今も法灯を継いでいるのは全国でも珍しいことである。法華寺と桜井駅の間の畑の中に国分尼寺の跡の看板が立っている。

四国遍路
私たち夫婦は2015年から18年にかけて四国札所巡り、お遍路を歩いた。全長1200キロを10回に分けて歩きとおした。今治周辺には10か所ほどの札所が続いており、出だしの徳島周辺並みの札所の数である。ここで一気に稼いでおきたいところであるが山の上まで歩かなければならずけっこう難儀をする。59番国分寺は58番の仙遊寺から降りて海の近くまで来た場所にある。
ほっと一息の場所にいいカフェがあり、同行の奥さんは大いに気にいった。今回も寄ってみたがすでに廃業していた。コロナの影響か何かわからないが、この数年で世の中が大変革した影響の一つであろう。
難儀して歩いた道だが、今回は自転車を使った。一日かけて歩いたところを3時間ほどで廻った。自転車ならお遍路ももっと簡単だったなあ、いったい何を考えてやっていたのだろう。いや、楽をするだけが人生じゃない!・・・