周防国衙・国分寺・周防大仏

山口県は旧国の長門国、周防国からなっている。周防国は大内氏が支配した国で、中心だった山口は西の京として大いに繁栄した。しかし古代の周防国府が置かれたのは防府だった。他国の国府は10世紀には衰退していったがここは東大寺領となり長く継続した。国分寺は今も威容を誇っている。
周防国府(防府)
広い国府の跡がのこっている。国庁があった部分に国衙の石碑がある。国府は役所の区域のこと、国庁は役所のこと、国衙は役所の建物のことである。ここにある石碑は江戸時代に建てられたものだ。

多々良大仏
防府は東大寺領になったために長く保護されてきた。大仏も作られ、今もその姿を作られた当時とほぼ同じ多々良さんの麓で国府の北隅にのこされている。

周防国総社(佐波神社)
総社(惣社)は国司が赴任した際に、その国中の神社に参詣するのが習いであったが、それは容易なことではないので国府に諸神を集めて祀る惣社(総社)を建立する制度ができた。防府市惣社町にある。

周防国分寺
周防国分寺は昔の形式を残したまま現在に至っている。10世紀ころには朝廷の威力は無くなり、地域に密着しない官立の寺は衰退した。しかしここは東大寺の管轄になったために現在までその姿を残している。ただし規模は縮小差荒れており七重の塔ものこっていない。

法花寺(国分尼寺)
国分尼寺との表示はなかったが、奈良の国分尼寺の総本山である法華寺を名乗る寺が旧国にある。おそらく国分尼寺を意識してつけた名前であろう。この寺がいつできたか聞くことはできなかったが、私の中ではここが国分尼寺跡であると確信している。

防府天満宮

大宰府に左遷されることになっていた菅原道真は防府にとどまって朝廷からの許しの方を待っていた。しかしその使者は来なかった。寂しい思いをして九州の太宰府に流され、その地で亡くなった。菅原道真が亡くなった日に遥か西の空から五色の光が射し、酒垂山の空には瑞雲が棚引いた。国司をはじめ里人たちは道真公の魂が光となり雲となりこの地に帰ってこられたと悟り祠を建立して松崎の社とした。これがのちの防府天満宮で最初の天神様と言われている。大宰府、北野とならんで日本三大天神というそうだ。