長門国・国府・国分寺

もとは日本海側にあり穴門と呼ばれていた。しかしヤマト政権が安定してくると瀬戸内海側に中心部が移ったようだ。穴門は長門と呼ばれるようになり長府(長門国府)がおかれた。中世には毛利氏の城下町になったことで国府時代の遺跡は失われてしまった。
長門国府忌宮神社の一角にある図書館に国衙の説明書がある。今回訪れたがその説明版は見つけられなかった。ネットで見つけた説明版の記述を書いておく。
中国の律令制にならって全国五畿七道の68か国に国府をさだめた。従来の国造を廃してあらたに国司を派遣した。長門の国においては長府の地を国府と定めた。別の記事には最初の国司は三輪高市麻呂とあった。急に親しみがわいてきたが、この人は実は柿本人麻呂のことであるとの記述もあり、何が何だか分からなくなってきた。

総社
総社の跡は毛利邸の入り口にあり、石碑が立っている。現在も総社があるとのことで探して歩いたら、小さな社が見つかった。これが総社とは思えないのだが!

国分寺
長門国分寺は長府、宮の内町にあった。今は道路の片隅に国分寺跡の碑が建ち、その脇に礎石が一基残っている。長門国分寺は大内氏、毛利氏による庇護を受けていたが、明治維新後に衰退した。現在の国分寺は真言宗の寺院で、長府から赤間神社の近くに移転した。 木造不動明王立像と絹本著色十二曼荼羅図(国指定重文)は現在の国分寺に引き継がれている。国分寺跡の石碑のすぐ近くに覚苑寺がある。この中に和同開珎の鋳造所があった。長門の国には長登銅鉱山があり、日本では最大の鉱山だった。

国分尼寺
国分尼寺も建設されただろうが、その痕跡は残っていない。

長門一宮住吉神社
新下関駅から国道に沿って行くと長門一宮の住吉神社に出る。住吉神社から峠を越えていくと長府の街にでる。この道は住吉道と呼ばれていた。私はこの道を数回歩いたことがある。住吉神社の青銅製の狛犬に興味をひかれた。