隠岐の島 人口は増えているそうだ!

島後の西郷港の前のホテルに泊まっている。食事は付いていないので外に食べに行かなければならないが、なんと6時にはほどんどの店が閉まっている。一軒だけ7時半までやっている店を見つけたので、空腹で寝ることは免れた。昨日は野菜の物産店でお弁当を買っておいたので夕飯、朝飯をたべた。この島では昼間に外食はするが朝晩は自宅で食べることが原則のようだ。飲み屋もほとんどない。

人がいないのかと思っていたら昨日の朝フェリーターミナルはすごい人だった。地元高校のブラスバンドもでて、転勤で本土に帰る先生や進学、就職の生徒たちとの送別だった。テレビでもその様子を放映していたが、私たちも感動しながら眺めていた。東京ではこんな別れはあまりないだろう。ここでは、出て行ったらもう戻らない子たちも多い。今生の別れ、そんな涙をたくさん見た。

隠岐の島はまだ寒かった。桜はまだまだ。銘木「世間桜」の看板があった。「よのなかさくら」だそうだ。咲いていたのは河津桜、梅、サンシュウ、ヤマザクラ。

ところで隠岐の島、最近人口が少し増えているという。海士町(中ノ島)の民宿のお兄さんが、高校の留学生を受け入れていると聞いた。日本国内だけではなくオーストラリア、ニュージーランド、グリーンランド(?)と言っていた。海士町の人口は2339人だが360人が島の外から来た人。高校は2008年に30人を切って廃校寸前だったが「島前高校魅力プロジェクト」が成功して2013年度には45人が入学した。寄宿舎の関係で島外からは24人くらいだからけっこう狭き門になっている。

隠岐についた日に英国人に出会ってお宅にお邪魔した。まさか最初に話す人が外国人とは予想もしていなかったが、隠岐の島は島外の人、外国の人の活躍で活性化している。「ないものはない!」というのは海士町の町長の言葉だが、まさに何でもある町なのだ。やりようによっては、こんな辺鄙なところでも人口増加は見込めるという実情を見た思いだった。なかなかすばらしい。皆さん来てください。

玉若酢命神社(たまわかすのみこと)

 西郷の街の近くに玉若酢命神社がある。北にある水若酢神社が隠岐の一宮であるが、玉若酢命神社の方が格式は高いという。それぞれ水若酢命と玉若酢命を祀るが、その二柱は隠岐の国を作った神さまと言うだけで、中央ではまったく知られていない。玉若酢命神社の宮司は「億岐」(おき)家が受け継いできた。億岐家は隠岐の国の国造を務めていた。ということはもしかするとこちらが隠岐一宮だった可能性も高い。しかし今は隠岐の総社ということになっている。

玉若酢命神社の宮司家は重要文化財、見学もできる。と言いながら時間がなくて素通りしてしまった。
神社の裏山には前方後円墳をふくむ古墳がたくさんあるが、整備はされていないので、どこが古墳高まったくわからない。蜘蛛の巣だらけになった。

隠岐一宮:水若酢神社

 隠岐一宮は「島前」の西の島の由良比女神社、島後の五箇に水若酢神社とされているが、島前の知夫里島にはさらに一宮神社がある。島後には水若酢神社によく似た名前の玉若酢命神社があり、水若酢神社よりも格式が高いと言われている。そこで玉若酢命神社は隠岐の総社とされている。
水若酢命と玉若酢命は隠岐を作った神さまと言われるが、本土のどの系統かよくわからない。神社の建物はいずれも隠岐造りと呼ばれる豪壮華麗な屋根を持つ。私が見るところでは出雲大社の社殿に似ている。昔は大社造りと言われたそうだが、いまは春日造りの変態とされている。というが昔の人はきっとすぐ近くの出雲大社を模したろう。遠い奈良の春日大社をまねるはずはない。

隠岐の神社には必ず土俵がある。現在隠岐の海をはじめとして6人の力士がいる。こんなに相撲取りがいる島はないだろう。


神社の裏に五箇創生館や郷土博物館がある。地元の先生が作った丸木舟があり、これで本土まで漕いだそうだ。

焼火(たくひ)神社

島前は大昔の火山だったが、激しい噴火でカルデラができ、その後沈降したために外輪山がリング状の島として残った。カルデラの真ん中には中央火口丘があった。そこが今は焼火山として残っている。焼火というのは火山の火ではなく、ここで灯台の代わりに火をともして位置を知らせたらしい。後鳥羽上皇の船もこの火を頼りに隠岐にやってきた。
逆に後醍醐天皇はこの明かりを頼りにして隠岐を脱出し、「建武の中興」を成し遂げた。しかし2年後後醍醐天皇は足利尊氏に追われ、吉野に逃げて南朝天皇となった。
いわゆる南北朝であるが、60年後第三代足利義満によって北朝に三種の神器が戻されて、後醍醐天皇の系統の南朝は滅んでしまった。


別府港でレンタカーを借りたので、焼火山まで上がることができた。ギリシャ人が電動自転車で登ってきたが、かなり大変だったようだ。車を置いて階段を上ること20分ほどで大きな鳥居に出た。そこからは平たん道、大きな石垣が出てきた。昔はお寺があったが、明治の廃仏毀釈で消滅し石垣だけが残った。その奥に岩の窪みを利用した社殿があった。隠岐造りではないが、いい神社だった。どんな神様を祀っていたのか、確認できなかった。後で見たら天照大神のようだ。どうりで屋根は隠岐造りだった。

隠岐一宮:由良比女神社

西の島の港は別府港だが、町の中心は浦郷で、隠岐一宮はここにある。浜に出ると写真のように、女性がイカをとっている姿を描写している。この神社には「イカ寄せ」の伝説がある。写真左の「番小屋」はイカが寄せてくるのを見張る小屋だそうだ。昔は大量のイカが寄せてきて、大金持ちになった人もいたそうだが、いまはここへイカが集まることは少なくなった。

由良比女はここ隠岐の島の建国に功績のあった比女だが、どんな神様なのかはよくわからない。もともとは知夫里島に神社はあったが、いつの時代からか浦郷に移ったそうだ。「土佐日記」には「ちぶりの神」となっているので、本土に近い知夫里島にあったと考える根拠になるだろう。

社殿は実に立派。出雲大社に近いので、出雲大社の本殿に似ているが、正式には隠岐造りだそうだ。出雲に似ているのではなく春日大社本殿に似ているのだそうだ。まあどっちでもいいが、なかなか立派。昔の隠岐の繫栄がしのばれます。狛犬は隠岐神社などにあった逆さ狛犬ではなかった。隠岐はみな「逆さ狛犬」の大発見と思っていたが、ちょっと残念。

奈伎良比売(なぎらひめ)神社

中ノ島の東端に豊田の港がある。中ノ島は隠岐の島の中でも一番たくさん水田がある。昔から豊かな田んぼがあったようだ。ここでとれるお米は東京で1キロ1800円するそうだ。ここを開いたのが伊予の國からやってきた奈伎良比売だという。
豊田の港の奥に奈伎良比売神社がある。私たちは北側にある奈伎良比売の父である宇受賀命(うずかみこと)神社からタクシーで来た。親切な女性運転手さんで、いろいろ説明をしてもらった。ドイツから来て農家をやっている人、隠岐牛のファーム、山地酪農などなど。

神社もよかった。ここの狛犬も逆立ち。本殿はかなり高いところに上がっている。大社造りだと思う。桜はちらほら咲いている。いい感じの神社だ。それに格式のある式内社でもある。なかなかだ。

隠岐神社 後鳥羽上皇を祀る

菱浦の港がある中の島は海士町になっている。平安時代、承久の変に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流された。その時の隠岐が海士町で、町の中心に「隠岐神社」がある。隠岐に来るまえ、隠岐神社が一宮に違いないと思っていた。しかしこちらに来て聞いてみるとけっこう新しい神社だということが分かった。

隠岐神社の前に、資料館があった。観光パンフなどから以下のような説明を受けた。 承久3年(1221年)承久の乱によって隠岐へ配流された第82代天皇、後鳥羽天皇(配流時は上皇)は、海士郡の源福寺を行在所とした。村上氏が身辺警護と監視にあたっていたが、延応元年(1239年)崩御し源福寺裏山で火葬にされ、火葬塚が作られた。のちに松江藩主松平直政が廟殿を造営し明治まで維持されたが、明治2年(1689年)に廃仏毀釈の影響で源福寺は廃寺になった。

江戸末期の絵図には、火葬塚に「後鳥羽院神社」が描かれていた。明治6年大阪府の水無瀬神宮に後鳥羽院神社(?)ができたので海士町神社の神社はなくなった。しかし地元では祭祀が続けられていた。後に旧源福寺境内地は、隠岐の御陵とされた。隠岐神社は、火葬塚の隣に昭和15年(1940年)の紀元二千六百年の奉祝事業で島根県が創建した。

隠岐の島です。 

羽田を7時25分に出発し、出雲空港を経由して隠岐ジオパーク空港に10時ちょっと過ぎに到着。空港から西郷港にはバスで行く。わずかな距離だが510円。本日は12時05分のフェリーで海士町に行くことにしている。

1時間半ほどあるのでどう過ごすか考えていたら、背の高いイギリス人と知り合いになった。英国のバースに住んでいるが、今は休暇で奥さんの実家に帰っているという。私たちもバースに行ったことがあるという話をしたら、お宅にお邪魔することになった。英国風のお茶をいただいて、隠岐の名所、名物の案内をしてもらった。自宅の前は水路で、窓から船が見える。まさに昔の漁師の家という感じ。日本の港町で島の説明をイギリス人から受けている。なんかおかしい感じがする。

お茶と八朔をいただいて、フェリーに乗る。ちょうど転勤、入学シーズンで、朝の便は多くの学生、先生でにぎわっていたようだ。昼の便はガラガラだった。1時間ちょっとで中の島の菱浦港へ着く。降りた人はあまりいない。駅前の島牛レストラン(ここ一軒しかレストランはなかった)でランチ。隠岐牛の焼肉だ!おいしかった。

隠岐島 一宮巡り 雪崩高校生

先日、まだ一宮めぐりは完了していないと賀曽利さんに言ったら、「どこがまだですか?」と聞かれた。「隠岐の一宮はまだなんだ!」と伝えたのが2月の末。3月の4日だったかに賀曽利さんから電話があった。「イッヒッヒ、いま隠岐の一宮の前にいるんですよ!」

私は桜が咲く頃を計画していたので、先を越された。残念! 彼はもう何回も全国一宮巡りを繰り返しているので、悔しがることもないのだが、でもちょっと悔しい。私は明日から隠岐に行く。隠岐の一宮は島前、島後の島に二ヶ所ある。さらに中ノ島に隠岐神社もあるそうだ。それらを全部回ってこようと思っている。

ルートは羽田から出雲空港、出雲空港で乗り換えて島後の隠岐空港にいく。安売り切符がないので結構交通費はかかる。

というような事を書いていたら、那須で高校生が大勢雪崩にあったというニュースが流れている。「雪崩注意報が出ていたのに!なぜ強行したのか」と疑問がていせられている。そんな論調は当然あるだろう。

私が引率者だった時、「これぐらいの吹雪くらいは大丈夫!」と判断してラッセル訓練をやっていた。テレビで見ると潅木も生えているのでそんなに大きな雪崩が発生することはないと判断しただろう。他人事とは思えない。高校生たち、気の毒に、かわいそうに。申し訳ない!

矢来能楽堂 船弁慶

我が家の奥さまの舞台。新宿区の観世流の矢来能楽堂で「船弁慶」という舞囃子を舞った。今回は長刀を使った舞囃子で、かなり大変な稽古を積んできたようだ。あの年齢で立ったり座ったり長刀を振り回したりできるものかと心配だった。もちろん若い人にスピードはかなうはずはないが、緩急をつけた動きはまあうまくいっていたようだ。孫たちも見に来てくれて、本人もきっと満足だったろう。写真2枚載せておきます。

安倍首相 絶体絶命!

国会の証人喚問、あれだけ拒否していたのに自民党は参考人ではなく籠池理事長を証人喚問した。おそらく籠池さんは「うそつきだ!」と追及して、安倍首相は騙されただけだということで幕引きをしようとしたのだろうが、相手は一枚上手だった。民進党は予想以上の成果に戸惑っている。「本当なら大変ですよ!」「偽証になりますよ!」など、半分沈静化しようとしたが、籠池さんはお構いなくどんどん暴露した。

あれだけ言えば、「こりゃ嘘だな!」と思い始めていたが、午後の衆議院での追及の時に、安倍夫人が、籠池さんの頼みを受けて秘書に、財務省へ問い合わせをさせたことが分かった。「そんなことあるはずはない」と自民党はたかをくくっていたが、さすが官房長官は早い。ちゃんとFAXの写しを持っていた。そこには財務省に問い合わせたことを昭恵夫人に報告したとある。これこそ昭恵夫人が関与したことへの証拠。安倍さんは関与したら議員もやめると言っているので、これで完全アウト!と思っていた。しかし官房長官は、「秘書が勝手にやったことで、ゼロ回答だからなにも問題ない!」と逃げを打ってきた。いくらなんでもこりゃ無理だ。

安倍さんは議員を辞めると見得を切ったが、まさかこんな文書があるとは思わなかったのだろう。いくら厚顔でも、なんともできないだろう。官房長官は法律的には何ら問題ないと言っている。「100万円問題も法律的には問題ない!」とか言い出した。ということは「100万円も送った」と言っているようなもの。私は100万円問題は籠池の作り話だと思っていたが、こういう変な言い訳をすると本当だったと思ってしまう。どうなるのだろう。韓国のことを笑っていられない。

西蔵漂泊 出版記念会

 江本さんの西蔵漂泊(せいぞうひょうはく)の文庫本の出版記念会が四谷の主婦会館の7階で行われた。地平線会議の丸山君、武田君のコンビですばらし会になった。よくれだけの会ができたものだと感心する。江本さんの満足そうな顔が印象的だった。
本の内容はチベットに潜入した十人の日本人の働きを描いたものだが、初版の当時は3人の日本人もまだご存命だった。私は初版の本を何冊か持っているのだが、その中に野元甚蔵さんのサインが入った本があった。地平線会議に来ていただいたとき、90何歳だったと思うが、その時にサインしていただいたと思う。出席されていた家族の方にお見せすると「へーっこれがおやじの字だ!」と懐かしんでくださった。私はミーハーですぐにサインをお願いするが、役に立つことはあるなあ。
この日、デールを着て司会をしてくれたONISHIさんが、大いに関心を持ってくれたので、プレゼントをした。私は終末期の身の回り整理をしているので、懐かしい本もどんどん整理中。喜んでもらってくれる人がいたら、もらってもらうことにしている。そういえば参加していたKITAMURAくんにも「あるくみるきく」を創刊号から全部もらってもらったなあ。
ということです。ところでチベットに潜入した十人の日本人。今回は時代別に十人に描かれている。忘れないように、ここに記述しておく。
能海寛、成田安輝、寺本婉雅、河口慧海、矢島保次郎、多田等観、青木文教、野元甚蔵、木村肥佐生、西川一三、

生涯最高のゴール!

 1年半ぶりにサッカー試合に行った。もう走れないのでサッカーはやめることを決意していた。しかし何も言わずに皆さんにサヨナラするのはまずいので、一応ご挨拶に出かけた。新しくユニフォームも変えたので、その係も引き継がなければならない。それに数万円の立て替え金も返してもらわなければ。その他諸々もあった。奥さんには「試合には出ないから!」と言っておいた。

 ここの人工芝は張り替えられて気持ちいい。着替えてちょっと動くと感じはいい。キャプテンのYAMAGUCHI君に3分間だけ出場許可をえる。「3分だけですよ、ここで倒れられたら困るので」。でもKOSHIBE君が「まだ保険の期限は来てないから大丈夫ですよ」と言ってくれる。MATUBAYASHI君のかわりにちょっとだけ出場。

 はじまって2分ぐらいでUEMATU君からKOYASU君にパスが出た。KOYASU君は自分でもシュートできるのに私の前に緩いパスをしてくれえた。10歩ほど走りこんでから蹴ったらキーパーの頭を越えてゴール。自分ながらもタイミングはほぼ完ぺき。ここ10年ほどやってきて最高のゴールだった。いつもだったら空振りか、ゴール枠から外れるのに、今日は何も考えなかったからよかったのだろう。

 三分間でMATUBAYASHI君にバトンタッチ。「エエーッもう一本決めてくださいよ!」と言われたが、そんな奇跡は2度と起こらない。FURUYAさんに写真撮ってくれた?と聞くと、「まさか入れるとは思わないからカメラも出してないよ!」とのこと。

 試合後巣鴨の居酒屋で遅い新年会。KOYASU君から、当然今日はおごりですよね! と言われた。ムムーッ! わかった! と思ったが21人もいたので、ちゅうちょしているあいだにKOMASHI君がきれいにさばいてくれた。家に帰って「一点いれたぞ!」と威張ったら、「試合に出ないって言ったのに出たの!」と怒られた。登別の湯を入れた風呂に入ったが、腰の痛みは倍加している。一点の代償は大きい。

峠楽会 今年度第3回、飛鳥山峠

 16日は矢来能楽堂でビデオ撮影、17日は埼玉のコーペルで環境講座、そして本日は峠楽会で飛鳥山周辺を歩いた。最近半ボケ状態なので、昔と違って事前準備がけっこう大変になっている。前回ビデオ撮影の時には充電はしっかりしておいたが、前々回とったビデオを削除していなかったので、撮影時間が10分しか残っていなかった。9分間の撮影だったが、もうひやひやだった。

コーペル講座はレジメを作る。高齢の人相手なので、ちょっとぐらい斟酌してくれるかと思っていると、鋭い質問が飛ぶ。なのでけっこう気を使って作るのだが、この作業に時間がかかった。そして18日の峠楽会、こっちも高齢者対象だが、まったく斟酌してくれない人ばかりで厳しい。案内書に間違いがあると「何やってんだよ~」と厳しい。「遊びでやってるんだから」、と言い訳をすると「遊びだからこそまじめにやれよ!」  まあ確かにそのとおりだ。
本日の峠は、川の浸食で突き破られた「峠」という例。石神井川は大昔(たぶん数万年前)は凸凹地形図にはっきり表れるところを流れていた。最終的には上野不忍池まで流れていた。いまの王子駅付近は飛鳥山から続く「地峡」であったが、石神井川はそこを突き破って下町低地に流れ出した。いま石神井川は隅田川にそそいでいる。大昔の石神井川の下流は「逆川」となって、今の飛鳥山下をながれ石神井川に合流している。江戸時代の絵図を見ると飛鳥山の谷(元峠)を2本の川が流れだしているのが描かれている。

そんなことを考えながら、岩槻街道一里塚をみて平塚神社へ。平塚亭で、てるちゃんにお団子をごちそうになりました。さらに都電、三田線を乗り継いで板橋区役所近くのてるちゃんなじみの店に行くと、なんと「いとこ」に会いました。てるちゃんと私のいとこが同じ店をなじみにしていたなんて、奇遇というよりほかはありません。