明治の初めまで全国は68の国に分けられていた。武蔵の国、相模の国などである。古代から国があり地方豪族の「国造」が支配していた。しかし律令制度によって中央から「国司」が派遣され中央集権が確立した。その後1200年間人々はその区分になじんできた。いまでも旧国名で呼ぶ地域も多い。武蔵小金井、相模大野、越後湯沢など数知れない。
「大宝律令が制定されたのは701年、第41代持統天皇の都は藤原京で、710年に平城京に遷都した。いずれの都も大和国の中にあった。聖武天皇による国分寺建立の詔が出されたのは741年で、総国分寺である東大寺が平城京の近くに作られた。 「大和の国府、国分寺は平城京と東大寺だろうだろう」
と私は思ったがそれは間違いだった。
現在の東京には国の政府と天皇宮が千代田区にあるが、ローカル政府は新宿区にあり都知事(国司)がいる。この構造と同じで、大和国には大倭国の首都平城宮とローカルな大和国府、国分寺があった。飛鳥板葺宮、藤原京、平城京など倭国の遺構の発掘には力がそそがれているが、ローカルな国府跡はまだはっきりしていない。
平城京 総国分寺 総国分尼寺
聖武天皇が国分寺建立の詔を発布したのが741年で、その時の宮は平城京で、周囲に総国分寺の東大寺、総国分尼寺として法華寺が作られた。まずその写真を並べておこう。
大和国府
薬師寺の近くに「今国府(いまご)」という地名がある。奈良の一番大きな工業団地があるが周辺に国府の跡は見当たらない。文献には13世紀に高市郡からこの地に国府が移ったという記述があるそうだが、高市郡にも国府あとは見つかっていないという。
しかし行ってみなけりゃわからない。城跡巡りに高取城を訪れたときに壺阪山駅近くに国府神社があることを地図で見つけた。賀曽利さんに知らせると「すぐ行ってきます!」と言って1週間後に写真を送ってくれた。先を越されて悔しいが本日(22年5月22日)私も行ってみた。
大和国府2 総社
壷坂山という駅から土佐街道といういい道を10分ほど行くと国府神社がある。案内書によればこの近くに国府があり国司が国内の神社を回る代わりに総社に参詣したのだという。総社が国府神社と名乗っているのは他にはみていない。さらに余計なことを言えばこの神社は古墳の上に作られている。後円の上に社殿が置かれており鳥居のある場所が前方部になる。
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大和国分寺
国府は何回か移動しているので、今畝傍駅のそばにある大和国分寺はどの時代のものか不明だ。聖武天皇の詔の時代のものとは違うのではないかな。
大和国分尼寺
国分尼寺はなかったと言われているが、私はもしかすると壷坂寺が国分尼寺だったのではないかと思っている。壺阪寺は南法華寺とよばれているとのこと。平城京の総国分寺は法華寺である。各国にある法華寺(法花寺)が尼寺であることが多い。なので私は勝手に尼寺としてここに載せておく。