旧国 国府巡り 終了

昨年6月から旧国(大宝律令によって制定された国々、明治の廃藩置県まで続いていた)の国府(県庁所在地)と国分寺、国分尼寺をめぐってきました。旧国は五畿七道、68か国になります。
四国遍路は全部歩きましたが、今回はヒコーキ、新幹線、高速バスなど文明の利器を使って回ったので1年半でめぐりました。全国と言いましたが当時は東北、北海道、沖縄には大和朝廷の意向は及ばなかったのでその場所は含まれません。
私に国府巡りをそそのかした賀曽利隆さんは3か月で全部回ってしまいましたが私とは交通手段と財力が違っています。私は我が家の財務省にお暇とお金を頂いて行き来したので時間がかかりました。
国府巡りはブログに投稿していましたが、その成果を一覧表にしました。興味があればちょっと覗いてみてください。下をクリックしてください。

旧国説明(賀曽利隆さんHPから勝手に借用)

古代日本の行政区画は「五畿七道」といわれるように大和、山城、河内、摂津、和泉の畿内の5国を中心に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7道から成っていた。現在では東海道や北陸道というと街道名として使われているが、もともとは行政区域名だった。古代日本は「道州制」を敷いていた。畿内・七道の下に全部で68ヵ国の国があった。それぞれの国はさらに郡に分けられ、郡の下に里があった。
 大宝元年(701年)に出された大宝律令で「五畿七道」の行政区画が定まったわけだが、それから1300年たった今でも68ヵ国の影響は色濃く残っている。
「日本一周」で何がおもしろいかというと、あちらこちらで日本の原点を見られることだ。それだから日本を県単位で見るのではなく、旧国単位で見ていくほうがよりおもしろいことになる。100年ほどの歴史しかない県と違って、旧国には1300年以上の歴史がある。
 日本の全都道府県名をいえる人は多くいると思うが、68ヵ国の旧国名を全部いえる人はそうはいないであろう。この「68ヵ国」は日本を見てまわる上での基本といってもいい。ぜひとも68ヵ国全部をおぼえよう。そうすると日本がよりおもしろくなってくるし、日本がよりおもしろく見えてくるのは間違いない。
五畿七道

国名      略称        都道府県名
畿内
山城(やましろ) 城州(じょうしゅう)京都(南部)
摂津(せっつ) 摂州(せっしゅう) 大阪(北西部)
兵庫(南東部)
河内(かわち) 河州(かしゅう) 大阪(東部)
和泉(いずみ) 泉州(せんしゅう) 大阪(南西部)
大和(やまと) 和州(わしゅう) 奈良
東山道
陸奥(むつ) 奥州(おうしゅう) 青森・岩手・宮城・福島
出羽(では) 羽州(うしゅう) 秋田・山形
下野(しもつけ) 野州(やしゅう) 栃木
上野(かうづけ) 上州(じょうしゅう) 群馬
信濃(しなの) 信州(しんしゅう) 長野
飛騨(ひだ) 飛州(ひしゅう) 岐阜(北部)
美濃(みの) 濃州(のうしゅう) 岐阜(南部)
近江(おうみ) 江州(ごうしゅう) 滋賀
東海道
常陸(ひたち) 常州(じょうしゅう) 茨城(中部・東部)
下総(しもふさ) 総州(そうしゅう) 千葉(北部)・茨城(西部)
上総(かずさ) 総州(そうしゅう) 千葉(中部)
安房(あわ) 房州(ぼうしゅう) 千葉(南部)
武蔵(むさし) 武州(ぶしゅう) 埼玉・東京・神奈川(東部)
相模(さがみ) 相州(そうしゅう) 神奈川(中部・西部)
甲斐(かい) 甲州(こうしゅう) 山梨
伊豆(いず) 豆州(ずしゅう) 静岡(伊豆半島)
駿河(するが) 駿州(すんしゅう) 静岡(中部)
遠江(とおとうみ) 遠州(えんしゅう) 静岡(西部)
三河(みかわ) 三州(さんしゅう) 愛知(東部)
尾張(おわり) 尾州(びしゅう) 愛知(西部)
伊勢(いせ) 勢州(せいしゅう) 三重(北部・中部)
志摩(しま) 志州(ししゅう) 三重(志摩半島)
伊賀(いが) 伊州(いしゅう) 三重(中西部)
北陸道
越後(えちご) 越州(えっしゅう) 新潟(佐渡島を除く)
佐渡(さど) 佐州(さしゅう) 新潟(佐渡島)
越中(えっちゅう) 越州(えっしゅう) 富山
加賀(かが) 加州(かしゅう) 石川(南部)
能登(のと) 能州(のうしゅう) 石川(北部)
越前(えちぜん) 越州(えっしゅう) 福井(北部)
若狭(わかさ) 若州(じゃくしゅう) 福井(南部)
山陰道
丹後(たんご) 丹州(たんしゅう) 京都(北部)
丹波(たんば) 丹州(たんしゅう) 京都(中部)・兵庫(中東部)
但馬(たじま) 但州(たんしゅう) 兵庫(北部)
因幡(いなば) 因州(いんしゅう) 鳥取(東部)
伯耆(ほうき) 伯州(はくしゅう) 鳥取(西部)
出雲(いずも) 雲州(うんしゅう) 島根(東部)
石見(いわみ) 石州(せきしゅう) 島根(西部)
隠岐(おき) 隠州(いんしゅう) 島根(隠岐)
山陽道
播磨(はりま) 播州(ばんしゅう) 兵庫(南西部)
美作(みまさか) 作州(さくしゅう) 岡山(北部)
備前(びぜん) 備州(びしゅう) 岡山(南東部)
備中(びっちゅう) 備州(びしゅう) 岡山(西部)
備後(びんご) 備州(びしゅう) 広島(東部)
安芸(あき) 芸州(げいしゅう) 広島(西部)
周防(すおう) 防州(ぼうしゅう) 山口(東部)
長門(ながと) 長州(ちょうしゅう) 山口(北西部)
南海道
紀伊(きい) 紀州(きしゅう) 和歌山・三重(南部)
淡路(あわじ) 淡州(たんしゅう) 兵庫(淡路島)
讃岐(さぬき) 讃州(さんしゅう) 香川
伊予(いよ) 予州(よしゅう) 愛媛
阿波(あわ) 阿州(あしゅう) 徳島
土佐(とさ) 土州(としゅう) 高知
西海道
筑前(ちくぜん) 筑州(ちくしゅう) 福岡(北西部)
筑後(ちくご) 筑州(ちくしゅう) 福岡(南部)
豊前(ぶぜん) 豊州(ほうしゅう) 福岡(東部)・大分(北部)
豊後(ぶんご) 豊州(ほうしゅう) 大分(中南部)
肥前(ひぜん) 肥州(ひしゅう) 佐賀・長崎
肥後(ひご) 肥州(ひしゅう) 熊本
日向(ひゅうが) 日州(にっしゅう) 宮崎
大隅(おおすみ) 隅州(ぐうしゅう) 鹿児島(東部・島嶼部)
薩摩(さつま) 薩州(さっしゅう) 鹿児島(西部)
対馬(つしま) 対州(たいしゅう) 長崎(対馬)
壱岐(いき) 壱州(いっしゅう) 長崎(壱岐)

石見国総社国分尼寺

今は最も小さい県の一つである島根県だが、昔は出雲、石見、隠岐の3国からなるなる国だった。一つの県に3つもの空港があるのその名残である。石見は今は山口県の長門国に接する国で、国府があった浜田市あたりが中心であった。

国府
国府は「こう」と読むことが多い。浜田駅の隣の駅は「下府」と書いて「しもこう」と読む。昔は下国府と書いた名残らしい。下府駅のすぐ近くに伊甘神社がありその周囲に国府があったとされるが発掘調査はなされておらず、確定的ではない。しかし地元では、国府跡の碑を立て、御所池を整備して「国府」あとが確定的である。

総社
伊甘(いかん)神社が総社とされている。国府碑(最近作ったもの)はこの神社の境内にある。式内社で昔はもっと大きな神社であったようだが、今は村の鎮守ほどの規模で、椋の木とイチョウの大木が目立っている。しかし社殿の作りは見ることはできないのだが神社には「印鑰大明神」の文書があるという。印鑰(いんにゃく)とは国府の倉庫の鍵と国司の印を納めた社のことであり、この社があったということは国府の総社であることの証拠になる。境内には清い水の湧きだす御所池がある。国司の館にはこのような池があったというがちょっと小ぶりである。

国分寺
下府から国道9号線を少し北に行くと国分の集落がありそこに金蔵寺がある。地元の人に「国分寺はどこですか?」と聞いてもわからないという。そのはずで金蔵寺の前に石碑と解説板があるだけである。この寺は元の国分寺の跡に立っていることがわかっている。道路を隔てたところに国分寺の瓦を焼いた窯跡があり史跡に指定されている。広大な国分寺と国分尼寺が造営されるにあたって専用の窯が作られたのであろう。

国分尼寺跡
国分寺から500mほど離れた台地の上に尼寺跡がありその一角が発掘整備されている。近年まで寺があったようだが今は石組のみ。石垣の寺あとに佇むとなんとなく気分が落ち着く。寺から小さな谷を隔てた高台に国分寺霹靂(かんたけ)神社がある。国分寺の鎮守だったのだろう。石段途中に珍しい焼き物の狛犬がいた。こんな狛犬は初めて見るものだ。なかなか面白い。

浜田から江津へ、石見二宮多鳩神社、日笠寺
いつもなら浜田駅から歩いただろうが、今回が68か国中67カ国目ということで奥さんが一緒だったのでバスに乗ることになった。奥様は合理的で交通手段があるなら乗れば効率がいいじゃん!という。私は昔の人は歩いて行き来したんだからその感覚を感じたい。しかし奥さんが資金提供者なので言うことを聞くしかない。

殺風景な史跡を見るだけではつまらないので石見神楽の神社を訪ねることにした。石見一宮は遠いので、二宮の多鳩神社を訪ねた。社殿は大社造だが、拝殿の前にさらに神楽殿(弊殿)がある。弊殿で石見神楽が奉納されるそうだ。なかなか素晴らしい神社で奥様は満足。

さらにその後は江津の日笠寺に泊めていただく。住職のYAMASAKIさんとは昔一緒に旅をした仲間である。驚いたことに本堂の中に立派な狛犬(獅子)は鎮座していた。永平寺にある一対の獅子と同じものだという。国府巡りと一緒に、狛犬探しの旅を続けているが寺にこんな立派な狛犬がいるとは知らなかった。最後になってこんな出会いがあるとは!、神様か仏様のご褒美かも!

出雲国府、総社、国分寺跡

古代の出雲地方では「国造」がこの地を治めていた。律令制が整い大和政権から全国に国司が派遣されたが出雲国造はそのまま継続した。朝廷の力が弱まった平安時代には国府、国司の制度は形骸して姿を消して行った。しかし出雲国造は出雲大社を拠点として北島家、千家が国造家として現在まで残っている。

出雲国府

さすが古代の王国だけあって、古い遺跡などよく調査されており、指導表なども整備されている。出雲国府跡は出雲市ではなく松江市の南の「意宇(おう)」という地区にあり、「八雲立つ風土記の丘」という博物館が作られており、国府跡だけでなく由緒ある神魂神社、八重垣神社、眞名井神社などは徒歩で回れる範囲にある。

出雲総社

国庁跡の一角に六所神社がある。この神社が出雲の総社であると国造家が碑を建てている。六所とは古代からの重要六社のことで揖屋神社、神魂神社、八重垣神社、熊野神社、眞名井神社、と六所神社で出雲大社は入っていない。出雲大社はもとは杵築大社という名前で、出雲と名乗ったのは明治4年からである。

出雲国分寺・国分尼寺

意宇(おう)の付近
「意宇」は不思議な呼び名だ。出雲風土記では八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が大山を杭に夜見が浜を綱にして朝鮮から土地を引き寄せて美保岬を作った時に「おう!」と言ったことからこの名前がついたという。この地は古代から豊かな地で、大和と対抗できる巨大国家だった。スサノオ神、大国主神など日本神話で重要な神の故郷である。