■3-3 豊かな国を支えた荒神谷遺跡


私が勝手に推測しているが、スサノオが持っていた
「十握の剣は青銅器の剣」
八岐大蛇が持っていた
「ツムガリの太刀は鉄剣」
だった。
出雲の豊かな土地を奪おうとしていた遠呂智族は中国山地でたたら製鉄をしていた氏族で、当然鉄の武器を持っていた。青銅器主体の武器を持つ出雲のアシナズチ一族では勝ち目はなく、遠呂智族のたびたびの侵略を許していた。そこへスサノオ神が助っ人にきた。スサノオ神はまだ青銅剣しか持っていなかったので、策略でしか勝ち目はない。八岐大蛇を酔わせて切り刻んだ。

意宇を回った翌日、友人のYさんの車で遺跡巡りをした。
「荒神谷遺跡を見た?」
と聞かれたが、何のことかわからなかった。
日本史の先生であったYさんから荒神谷遺跡の意義を学んだ。考古学的に見たら「出雲」という場所は大変な場所だった。古代日本はすべてここに集まっていたかのように大量の遺跡が見つかっている。まず青銅器についての即席知識をひけらかしておこう。

▲荒神谷青銅器遺跡
1984年に弥生時代の「青銅剣」が358本、銅矛16本、銅鐸6個が斐伊川の近くの荒神谷で発見された。これ以前に全国で発見された銅剣は300本だった。一か所でそれ以上が見つかったのだから驚きだ。もちろんこの青銅器は国宝になった。
▼加茂岩倉遺跡の銅鐸
1996年荒神谷のすぐ近くに「銅鐸」(どうたく)が39個も発見されている。それまでは近畿圏で発見された14個が最高だったので、これも国宝になっている。

歴史の教科書では「銅鐸」は近畿を中心とした文化圏、「銅剣、銅矛」は北九州文化圏と区分していた。しかし荒神谷、加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸、銅剣が一緒に発掘され、近畿文化圏、北九州文化圏などの区分は疑わしいものになった。出雲文化圏と言った方がいいかもしれない。
出雲では青銅器のあとに鉄器文化が入ってきたものではなく、一緒に共存していたことが神話の記述でわかる。私のスサノオの剣が青銅器製であったという説は少しだけ信ぴょう性があるかもしれない。

ついでにもう一つ足で仕入れた考古学的な遺跡について述べておく。
それはとても珍しい西谷墳丘墓という古墳だ。
荒神谷遺跡から斐伊川を渡ったところにあった。大和、河内や吉備で見なれた円墳や前方後円墳ではなく、上部が平らで方形、さらに四隅に耳がついた不思議な形である。
「四隅突出型弥生墳丘墓」
というそうだ。
よく整備された古墳群に登ってみると眼下に出雲高校グランドが見える。九号墓が一番大きくて六〇×五〇メートル、高さが五メートルもある。二号墓、三号墓は復元がなされふき石が張られており、上ることも、玄室へ入ることもできる。

三号墓と四号墓からは大量の土器類が見つかっている。弥生時代後期「吉備産」の特殊土器が発掘されており、二世紀末から三世紀にかけて築造されたことが分かっている。
二世紀から三世紀といえば……
史実にあるヒミコのちょっと前の時代だ。三輪山のふもとの巻向(まきむく)の箸墓(はしはか)古墳は三世紀に作られたものだから、出雲の古墳の方がちょっと古いことになる。巻向のヤマトの文化はここ出雲から出たものだという可能性はある。

こんな立派な古墳を作ることができたのは、進んだ青銅器、鉄器などの農具をいち早く取り入れて耕作をすることができたからだろう。出雲地方は古代の最先端地域だったのだ。